2023.3.12
主の御苦しみを覚える受難節を過ごしています。しかし、ただ沈痛な面持ちで過ごすのではなく、その御苦しみによって、豊かな命を与えられたことを噛みしめながら、主への情熱を深めることが、よりふさわしい受難節の過ごし方ではないかと黙想しています。主の十字架が生み出してくださった教会、神に結ばれ、神との関係に甦った一人一人の命です。 一年前に発行した教会報の巻頭言で、コロナ明けの伝道に備え、2022年度を蓄えの時として過ごして行こう、信仰の足腰を鍛える歴史的教理に親しんで行こうと書きました。そのための集会は開けませんでしたが、週報裏に、「小さな小さな教理の窓」という連載を14回記すことが許されました。 まだ続けて行こうと思っていますが、教会の基礎中の基礎である五つの古代信条を紹介することができ、少しほっとしています。じっくり味わうことは困難でも、私たちの連なる歴史的教会の厚みを知り、そのバトンを繋いで行くことを託されている畏れと光栄、取るに足りない者をあえて選んでくださった主の愛に思いを馳せるきっかけになることを願って書きました。感想お待ちしています。 一年前に臨み見たように、しかし、新年度を待たずして、私たちの教会の伝道もにわかに活発になって来ています。 気付けば始まっていた新しい会として、中高生5分間集会、青年との読書会、水曜夜のオンライン祈祷会などがあり、さらに壮年会でも、読書会を始めようとしています。今月には、国境を跨いだ子育て世代のための「聖書のほとりで休む会」も始まりました。 どれも、戦略的に計画を練って始めたというよりも、必要に迫られてとか、機運が生じてとか、事情がたまたま整い、思わず始めてしまったという感覚が私にはあります。教会の業というのは、そういうものだろうと思います。主が先立つ働きに、教会が後から着いて行き、落穂拾いのように受け取って行くものだと思います。初代教会が異邦人伝道に乗り出していくことになったのは、望まない迫害と、逃げ出した先で、異邦人に聖霊が降ってしまう事態の中で、慌てて会議を開き、主の働きを受け止めたのです(使徒言行録8章以下)。こんなに心強いことはありません。福音の感染力はコロナを大きく凌駕します。そして、この感染は、死ではなく、命をもたらすのです。 |
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