牧師室だより№66
その日の説教で聴き取ったことをもとに、礼拝出席者同士で恵みを分かち合う「御言葉の分かち合い」の集会を2019年10月20日以来、2年11か月ぶりに行うことを主が許してくださいました。コロナになり、極端に交わりが少なくなりました。聖徒の交わりを確かなものとして保ってくれる聖餐の食卓にすら与ることのできない信仰生命に関わる状況が続きました。長い間、講壇から語られる一つ福音をただただ聴き続けることだけが、私たち教会を教会として繋ぎ止めてくれました。しかし、それはまるで、「火の中をくぐり抜けて来た」(Ⅰコリント3:15)ような経験でありました。傷と痛みを負った世にある教会の姿があります。様々な困難の中にあって、私たちが今なお立っていること、今もなおたくさんの痛みを抱えながら、制限を受けながら、それでも主の日毎に礼拝者の群れとしてあり続けることが許されていることは、主なる神さまの憐み以外ではありえないと思いを深くしています。 その私たちがほとんど三年ぶりに、直前の礼拝で聴き取った御言葉を語り合い、深め合い、また、それぞれの近況や信仰の来し方を分かち合う時間を持つことが許されました。4つのグループすべてを回ることができました。ほんの少しの間でしたが、ほとばしり出るような言葉を聴くことができました。その後も、たくさんの方から、御言葉の分かち合いの喜びをメールその他で報告頂きました。教会は慰めの共同体であると言います。少し専門的な言い方をすれば、牧会共同体です。牧師、長老だけが牧会するのではありません。全ての教会員が全ての教会員を慰め、牧会する主体です。私たち教会が分かち合うように召されている慰め、それは、悲しむ心に共感すること、優しい言葉を語りかけることだけではありません。私たちが分かち合う慰めは、何よりも主イエスよりの愛の言葉、また主イエスへの愛の言葉を、互いに証しし合うことによります。こんなにも主イエスを愛している人がいる。こんなにも主に愛されている人がいる。生ける主のお働きに、深く深く慰められました。 |
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