牧師室だよりNo.50

牧師室だより№50

コロナによる人と人との分断が起きているということは、しばしば報道されていることです。しかし、これは決して教会にとっても対岸の火事ではありません。前回、紙とメールで送付しました文章にも、市内の教会で、対応が違うと書きました。これは、日本基督教団という教会にとっては、当たり前のことですが、それでも心騒ぐことは避けられません。ちょっと足を延ばせば、会堂に集まり続けている同じ教団に属する信仰の仲間がいるのです。どちらの教会でも、「隣の教会はああなのに、なぜ?」という声があるようです。悪魔は、原語でディアボロスと言いますが、これは「引き裂く者」という意味です。人と人との接触や、一致を引き裂こうとするコロナの引き起こしている影響は、やはり悪魔的なものだと言わざるを得ません。

私は、このような分断を乗り越えさせるものはユーモアであると思います。それは、一般的な意味での面白味ではなく、自分の思いを相対化し、絶対のものとしないという意味でのユーモアです。それぞれの決断は、どの決断であっても、神さまの赦しを乞い求めながらの決断であることを、弁えることです。もしも、教会の姿勢に戸惑いを覚えたときは、同情を忘れた自分の疑心暗鬼でないかどうか、その疑いを、まずは人ではなく、神の御前に打ち明け、ちょっとユーモアをもって自分を相対化してみると良いでしょう。それは、同時に、自分たちとは違う決断をしている周りの教会を、尊重し、自教会への不安を漏らしてきた他教会員を励まし、狭くなってしまっている心を広い場所に連れ戻す助けにもつながると信じます。教会レベルにおいても、個人レベルにおいても、自分の決断こそが道理にかなっていると思い込んでしまう自己義認から自由になりたいと願います。間もなく、家庭礼拝推奨期間が終わると思います。今回のコロナの波によっても、私たち教会は神の助けによって分断ではなく、一致に生きることができたと、顔を合わせて、神に感謝の礼拝を捧げることができればと願っています。

コメント

この記事へのコメントはありません。