牧師室だよりNo.48  

牧師室だより No.48  2021.5.23

ペンテコステおめでとうございます。二回目の家庭礼拝推奨期間となり、私たちは、苦しい歩みを続けています。会堂に集い、礼拝の継続を担保しようとする者も、家庭に留まり、礼拝を死守しようとする者も厳しい戦いが続きます。けれども、そのそれぞれの戦いにより、この期間中も、金沢元町教会が、人を礼拝に招くことをセーブすることは決してありません。会堂にお招きすることができない現状は、私たちの伝道にとって最善の状態ではありません。けれども、長老方の懸命な奉仕によって説教原稿の送付と、ネット上での礼拝音声配信によって、また多くの教会員が、それぞれの場所で、礼拝を捧げるその姿によって、私たち金沢元町教会は、今も変わらずに世に向かって「共に神さまを拝みましょう」と、招き続けています。長老方と手分けをして、教会員の消息をお尋ねしていますが、皆さんの声に萎えそうな心が励まされます。そして、今まで届かなかった所に私たちの思いを越えて御言葉が届いていることも、教えられています。先日も、「子どもにユーチューブチャンネルを教えました。」と勇気づけられました。また思いがけず、面識のない牧師が、私たちの礼拝説教を引用してくれる姿にも出会いました。風や炎、水とたとえられてきた御聖霊を、新しい言葉で語り直す言葉が、今の私たちに与えられそうな気がいたします。これは、私だけの経験に留まらないでしょう。礼拝に生かされる皆さんが聴いた説教を語り直す言葉、キリストを証しする言葉が、牧師も長老会も、さらに自分すらあずかり知らないところで、波紋を広げていく様子が、想像されます。最近、御言葉の自己運動(ボンヘッファー)という言葉を教わりました。

朝の祈祷会で読み続けていた使徒言行録を思い起こします。福音がユダヤ人だけのものではなく、異邦人のものともなったのは、迫害が起きたからです。散らされていった人々を御聖霊が用いられたのです。パウロは、「疫病のような人間」(使徒24:5)と呼ばれました。コロナよりも、福音、聖霊、教会の方が、しぶとく強かなのです。

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