牧師室だより№41
状況に大きな変化がなければ、長い間、行うことができなかった聖餐を来週いよいよ祝うことができます。お待たせいたしました。聖餐は決して魔術ではありませんが、私たちの主なる神様が、私たちの心ばかりではなく、この体をも、ご自分のものとされ、救ってくださることのしるしです。私たちは聖餐に与るとき、十字架で裂かれ、流された主の血潮による罪の赦しを味わい、思い起こすと共に、ご復活の主イエスの命を頂く者として、この体がやがて贖われること、この体もまた、主の日の朝に、お甦りの主イエスに似た者として甦らされるのだということを思い起こすのです。
そのため、聖餐は、死への備えでもあると言えます。目の前の死と、その先の命に備えるのです。だから病床や、臨終の床でこそ、聖餐を受けたい、牧師に聖餐を携えて来てほしいと、願って良いのです。喜んで、訪問聖餐に伺いたいというのが、会堂に体を運べなくなった信仰の友への教会共同体の姿勢です。しかし、このような死と命の備えとしての聖餐への情熱は、主日礼拝の中の聖餐と説教によってこそ、それこそ身体レベルで養われていくものです。再び聖餐を祝うことが許される今、もう一度、そのことにやがて期待し、また心に銘じたいと思います。
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