牧師室だより No.62

 先週4/27に、定例教会総会が行われました。昨年同様、礼拝堂での開催ができました。口頭での報告は、補足説明だけとし、全員総会資料を読んできて、質疑応答に集中するという形をとりました。特に、多くの議論があったわけではありません。粛々と議事が進められ、長老選挙が行われました。コロナ禍ではありますが、集まった方々の顔を議長席から見ながら、この2年間の危機を力を合わせて乗り越えてきた心強い仲間だとの思いが強く与えられました。総会では、会計長老による異例の献金についての説明がありました。その説明にもありましたが、月定献金、礼拝献金の予算が満たされなかったことに、長老会として神様に申し訳ないという趣旨の説明でした。それに応じる教会員の献身の思いを新たにする応答もありました。教会会議らしいやり取りであったと思います。総会議長として感謝しております。

 実は、私は、牧師は献金に特化した話は講壇からすべきでないと常日頃から思っています。牧師は、献金ではなく、いつでも献身の勧めについて語るべきだと信じているからです。献身の勧めとは、伝道者への献身の勧めのことではありません。キリスト者とは、キリストのもの、キリストの所有ということです。それならば、洗礼を受けたキリスト者には、それぞれの置かれた場所での献身の生活があるはずですし、誰もが献身者以外にはあり得ないのです。働くときも、休むときも、教会でも、家庭でも、奉仕するときも、飲み食いしている時も、私たちキリスト者は、献身の生活以外を知りません。御子が、神と等しい者であることに固執することなく、へりくだって、己を無にして世に来られ、十字架についてくださったその献身によって、生きている私たちです。その方への感謝の応答は、献身以外にはありえません。いいえ、この身を捧げても、ちっとも足りないのです。しかし、そのような私たちを喜んで御自分のものとして受け入れてくださる神さまなのです。新しい年度も、この志を持って、私たち教会を神にお献げいたしましょう。2022.5.1

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