私たちの教会でも、礼拝全体の録音を日曜日10:30にネット配信できるように急ぎ準備しました。今は、さらに一歩進んで同時配信できるように準備しています。この体制が整えば、同じ時間に、礼拝堂でも、家庭でも、礼拝を共に捧げることができるようになります。
私たちの教会だけでなく、この機会に全国の教会がユーチューブや、会議アプリなどを通じ、礼拝をオンラインで捧げることができるように整備されつつあります。もちろんこれは次善の策です。共に一つ所に集まり、礼拝をお捧げるするに勝ることはありません。
ヒネマ・トーヴ、「見よ、主の家族が共に集まる」姿は、麗しいものであり、恵みであります。けれども、考えてみれば、その集いを喜びとして改めて告白しなければならなかったほど、神の民の歴史は、共に集まることの困難の連続の歴史であったとも言えます。今、朝の祈祷会でも読んでいます使徒言行録は、迫害によって、エルサレムにいることができなくなったキリスト者たちが、逃亡していく先々で、福音を語り、それが福音がローマ帝国全体に広がるきっかけになったことを記しています。
私たち会堂に集まることが難しくなったキリスト者たちが、礼拝を確保するために苦肉の策で始めた礼拝のオンライン配信によって、思いがけず御言葉が、ネット上に溢れ始めています。同じ地区だけでも、元町教会、金沢教会、小松教会と。自ずと、私たち教会の語る言葉が、人目に触れる機会が増えるでしょう。
宗教改革は、メディア革命だったとも言われます。印刷技術が確立し、聖書の御言葉や、改革者たちの言葉を記したパンフレットが流布し、その力ある言葉が多くの人の元に届いたのです。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザヤ52:7)皆さんがご家庭で礼拝を捧げるために、その生活の場でパソコンを開くとき、皆さんのその行為は、良い知らせを伝える者の足となり、御言葉なる主イエスがご家庭に入っていくのです。
したたかな御言葉が、そこで、礼拝を捧げる私たちを越えて、病める者、疲れ果てている者、不安に苛まれる者、絶望する者、思わぬ人を慰め、力づけ、勇気づけるということが世界中で起きるに違いありません。神は、人と人とを分断せずにはおれないこの厄介なウィルスの悪質さを逆手に取り、この悪から、必ず良いものを生み出してくださるに違いないと予感するのです。
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