9月25日 ヨハネによる福音書6章41節~51節
先週は、北陸連長に属する親しい8つの教会の交換講壇がありました。同じ改革派教会の信仰に生きる教会間での交換講壇です。この教会には高岡教会の風間牧師がいらっしゃり、私は、小松教会に参りました。
元町教会のある方が、感想として、牧師というのは、個人ではなく、群れなのだという思いを深くしたという趣旨のことを仰ってくださいました。嬉しい感想でした。自分の説教が褒められる以上に嬉しい感想でした。
というのは、私も今週、全く別の場面ですが、似たような思いに強く捕らえられ、もう一度、イエス・キリストの福音を聴き直した経験を得たからです。
私は説教塾という牧師の学びのグループに加わっています。
この金沢元町教会が生み出した若草教会の初代専任牧師である加藤常昭先生が、主催する学びのグループです。
そこでの一つの合言葉は、「真似る」ということです。
加藤常昭という名説教家の説教を真似ようと200名以上集まった全国の牧師たちの集まりです。
その学びグループの新しい企画として、その内、どなたにも見て頂けることを検討していますが、「つねちゃんねる」という塾生限定のユーチューブチャンネルがあります。私もその責任者の一人です。そこで、塾生から匿名の質問を集め、それを加藤先生にぶつける40分の番組です。
先日、次のような趣旨の質問が届き、加藤先生に問いました。
説教をより良いものにしていくために、加藤説教を真似るというのが、口癖のように言われているけれど、真似るっていったい何を真似ればいいのか?喋り方を真似するのか?加藤説教の中で使われる言葉遣いや、エピソードを真似れば良いのか?
私の言葉で言い換えれば、猿真似でよいのか?という問いでした。自分が真似ようとすると、用語や言葉遣いを真似るだけの小手先になってしまう。猿真似になってしまう。それは、本当の意味で真似たことにならないのではないか?そのような意図がある質問だと思います。
加藤先生は、用語や言葉遣いもまた、小手先や、口先だけのものではなく、大切なことだと前置きをされながら、しかし、結局はこれだと一呼吸置いて言いました。
主イエスへの愛を真似てほしい。
加藤常昭という神学者、説教者が、イエス・キリストへのどんな愛に生きているか、イエス・キリストをどのように愛しているか、自分の説教からそれを学び取ってほしい。そしてその愛を真似してほしい。そうすると、必ず、君たちの説教は良くなるんだ。そういうことです。私がその牧師たちの学びのグループに入って、今年で10年になりますが、何となく、理解し始めていたことが、その言葉で、はっきりとしたように思いました。
しかし、ここ最近、私の身に起きた経験は、それでは終わりませんでした。
先週月曜日、私はこの学びの集いで一つの説教を分析する役目を与えられました。
加藤先生に続く説教塾の指導者の一人であり、かつて金沢長町教会の牧師であった平野克己先生の最近出版された『十字架上の七つの言葉』という説教集からどれでもいいから一つ取り出して、それを分析してオンラインの例会で発表してほしいと、説教塾の東京のグループから依頼されました。
一度、通して読んだ後、心惹きつけられた一つの説教を何度も何度も繰り返し読みました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」というルカによる福音書に記された十字架上のイエスさまの言葉の一つを説く説教です。
ゴルゴダに立った三本の十字架、主イエスの左右には、二人の犯罪者が十字架刑を受けています。
その内の一人が言いました。
「お前は救い主なんだろ?自分自身と我々を救ってみろ。」
平野牧師はその説教の中で言います。
「お気づきでしょうか?最も不思議なことがここで起こっている。何一つ奇跡が起こっていないかのような、それこそもうひとりの犯罪人が罵るように、何にも奇跡なんか起こっていないかのようなところに、本当に、本当に大きな奇跡が起こっている。/神の子イエスが、今、隣におられるんです。この方は、神の子です。神そのものである方です。」
平野牧師は、私たちが、神という存在は、我々を天から見下ろしており、我々から遠く離れており、結局、私たちの生活には何も手出しされない方だと思い込んでいる。そう勘違いしていると言います。
しかし、そうじゃない。大きな大きな奇跡を私たちの直ぐそばで行っておられるそれは、今まさに、死んでいこうとしている私の隣で、こともあろうに、主イエスも死んでいこうとしておられる。
私たちは死にます。私たちの捧げる祈りが聴かれたような奇跡が起こり、九死に一生を得たという体験をもしも、得たとしても、やがて死にます。
私たちは、いつまでも、「どうか奇跡を起こしてください。」と祈り続け、それが聴かれなかったら、神を恨んで死んでいかなければならないのか?
そうじゃない。神さまは、遠くにおられない。こともあろうに、私の隣で一緒に死んでいかれる。死に至るまで、死の先まで、最後の最後まで、私と対話を続けてくださる。
こういう神が私の神であること、そのことが、私たちを地獄のような不安と痛みからわたしたちを解放してくださったのです。
平野牧師は、若者が好きな人を思い出すときに、幸せな気分でいっぱいになるように、私たちは主イエスのことを思うと、もっともっと胸がいっぱいになってしまうという趣旨のことを最後に語ります。
極めつけは、先週、加藤先生が、東村山教会でした最後の説教です。東村山教会のユーチューブチャンネルにありますから、ぜひ、お聴きください。
御自分の遺言説教のようなものだと言いながら、御自分の葬儀の時に読むことになっているペトロの手紙の言葉を説きながら、こういう風に言います。
自分は、若い頃から、映画の場面ででもイエスさまの姿が出てくると、胸がドキドキしてしまって、顔を上げることができなくなるようなことが度々あった。
神を愛するということ、イエス・キリストを愛するということは、単純に言えば、このお方が好きだということだ。
しかも、こういう風に、イエスさまのことが好きなのは、自分だけじゃないんです。
あちらにも、こちらにも、自分と同じようにイエスさまを愛している人たちがいる。
中には、自分の伝道を通して、自分の説教を通して、イエスさまを愛するようになった人がいる。
その不思議にしみじみと打たれる。
あなたも、イエスさまが好きですか。あなたもですか。あなたもですか。
これが教会です。このために仕えているのが教会です。このために仕えるのが説教です。
私のようなものがこの講壇に立たされ、何を毎週日曜日ごとに語っているかと言えば、生きるヒントをお分かちするためではありません。
聴く人を成長させるための言葉ではありません。
イエスさまを好きになってもらいたい。そのために、イエスさまをご紹介する、それだけです。
それが、2000年間変わることのない教会の説教の務めです。
だから、私は、牧師というのは、個人ではなく、群れなのだという思いを深くしたという交換講壇の感想は嬉しく思うのです。自分の説教が、褒められるのよりも、ずっと嬉しい。
なぜってそこで同じ声が響いているからです。私たち教会を集め、教会を造り上げ、教会に牧師を立てさせ、語らせている一つの声が響いているからです。
「わたしは命のパンである。」「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べるものは死なない。」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
男だけで5千人、女と子どもを合わせたら、1万人以上いただろうと言われる給食の奇跡が、この直前に行われていました。その奇跡に魅了された人々が主イエスの後を追いかけてきました。私たちの王になってください。もう二度と飢えることがないように、パンをください。もっともっとください。だから、王になってください。
しかし、どんなにそのパンが増えても、それはどこまでいっても、しるしであると主イエスは仰いました。
パンだけでなく、ヨハネによる福音書の最初の奇跡で行われたただの水が上等なワインに変わるという奇跡が行われるならば、それは、しるしではなく、神の恵みそのものであるかと言えば、それもまた、しるしであると、ヨハネによる福音書は呼びます。
病人が癒されること、悪霊が追い出されること、それもまた、しるしです。
私たちが思いつくありとあらゆる願望、これがあれば、自分は幸せ、これがあれば自分は一人前、これがあれば、自分は満たされたと言える、ありとあらゆる欠乏、欲望、願い。
たとえ、聖書に語られないどんなものを願い、渇望したとしても、そしてそれが与えられたとしても、それは、しるしです。神が私たち人間に与えようとされる、私たちに備えてくださった恵みそのものではありません。
神が私たちに与えてくださった恵みそのもの、それは、イエス・キリストです。
「わたしは命のパンである。」「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」わたしがパンそのものだ。あなたたちの命そのものだ。
何度でも申します。
教会の語る福音、良き知らせとはこれ以外ではありません。
イエスさまがくださる罪の赦しじゃない。罪が消し去られて、堕落前のエデンの園のアダムとエヴァのように、不死の命、死なない命が与えられることが恵みではない。私たちが、イエス・キリストの十字架の贖いによって、堕落前の完全な人間へと成長していけることが恵みそのものであるのではない。
全然違います。本当に違います。私はそう思う。
死なないで永遠に生きられるなどという秦の始皇帝が求めたような人間の夢も、神に罰せられ地獄に行くことを回避するという天国の夢も、キリストによって聖化され、栄化され、完全な人間に近づいていける、完全な人間になれるという望みも、神の恵みそのものではないと私は思います。
それらを否定するつもりはありませんが、それらは全部恵みのしるし、しるしであって、実体ではない。
神のくださる恵みそのもの、それは、「わたしだ」とイエスさまが仰る。
「わたしが命のパンだ」と仰る。
わたしが命のパンだと仰いながら、聴こうとしない人々に、ずんずんと迫られる。
わたしが与えるパンとは世を生かすための私の肉であると仰いながら、御自分を十字架に付ける者達に、その身をお任せになってしまわれる。
御自分を罵る者と一緒に死に、地獄に降ってくださる。
こともあろうに、神の子が。
なぜか?なぜ、そんなことをされるのか?
神の憐み、神の慈しみと言わず、単純にこう言いたいと思います。
このお方は、私たちのことが大好きだからです。
天の父と主イエスが、その心を一つにされて、私たちのことを大好きだからです。
その結果、罪が消えたとか、永遠の命を頂いたとか、正しく生きられるようになったとか、乱暴なことを言えば、二の次、三の次の事柄です。
罪を考えなくて良いとか、永遠の命を信じなくて良いとかそういうことではありません。
私たちは罪深いんです。とてつもなく罪深いんです。だって、イエスさま自身よりも、その実りが気になるから、私たちの罪深さは、無視できない現実です。
「わたしが命のパンそのものだ」という言葉が気に入らず、しるしの方に興味関心がある、それが我々人間の罪の姿です。
神の裁きが怖いから?天国に行きたいから?永遠の命が欲しいから?幸せになれるから?
だから、イエスさまを信じると言っているのは、人間の罪深さの中でも、特級クラスの罪深さだとわたしは思ってしまいます。
そんなものよりも、もっともっと大きな奇跡、大きな恵みがあります。
神の独り子イエス・キリスト、このお方が、わたしがあなたのパンとなる。わたしがあなたの命となると御自身を、このわたしに向かって差し出しておられるのです。
目の見えない恋人に向かって、愛する者が「わたしはあなたの目になりたい」と求婚しているかのように、足腰の弱った妻の車いすを押しながら、夫が「僕はこれから君の足になろう」と言うかのように、神の独り子が、私たちに向かって、「わたしはあなたの命のパンだ。」と仰っているのです。
そのお方は全力を傾けて、命さえ注ぎ尽くして、このわたしの命のパンとなってくださったのです。
その意味は、主イエスは、私たちに向かって、あなたにとってかけがえのない者となるのだと、御自分を差し出しておられるということです。
これが恵みのしるしではなく、恵みそのものです。
今日お読みした主イエスの御言葉というのは、どれほど情熱的な言葉か、わかると思います。
「つぶやき合うのはやめなさい。」
つぶやきとは、自分の内側に向かってぶつぶつと喋ることです。
自分の心の中に、自分の常識の中に、自分の世界の中に閉じ籠っていって、自分の価値観、自分の思惑の範囲の中でだけでしか、主イエスの言葉を聴こうとしない態度です。
そういう人は結局、主イエスと対話しているようでいて、実は、自分で自分をどうにかしようとしているだけなのです。
けれども、主イエスは、つぶやき合うのはやめなさい。人と話し合っているようでいて、結局は自分の中に引き籠ろうとする人々を引きずりだし、御自分と面と向かい合わせようとされるのです。
それこそまさに神の業です。神の力業がここに発揮されます。
44節の「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」というお言葉があります。
ひっぱり上げる。引きずり寄せるというニュアンスが含まれる意味を持つ言葉だと言います。綱引きで、ぐいぐい引っ張り、強い力で手繰り寄せてしまうようなニュアンスです。
そうなれば、面と向かわずにはおれません。いつまでも、しるしを命のパンであるかのように錯覚し続けることはできません。両手で私たちの顔を挟み、グイっと御自分の方を向かせ、「わたしがあなたの命のパンだ」と、目と目を合わせて、語ってくださる主イエスなのです。
47節にこうあります。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
ここで言う永遠の命とは、単に私たちの寿命が永遠に延びて行くというようなことが中心ではないということは明らかであると思います。
もちろん、44節後半が語るように、終わりの日の甦りについても語られています。
しかし、はっきり言っておく。これだけは、よーく聴いてほしいとイエスさまが釘を刺して仰った、信じる者に与えられる永遠の命とは、わたしの寿命が永遠に引き延ばされるということではなく、命のパンであるイエスさまと生き始めるということです。
やがて、読むことになりますヨハネによる福音書17:3にこうあります。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
知るとは、知識として知ることではありません。知り合うということ、友人となるということ、家族となるということ、この方を主とし、その僕となるということです。
つまり、切っても切れない深い人格的な結びつきを持つということです。
だから、信仰が大切です。なぜなら、この場合、信仰とは、神の存在を信じるとか、罪の赦しの客観性を信じるとかいうことよりも、家族を信じる、友達を信じる、恩師を信じると、私たちが普段使いする意味での信じるということ、つまり、信頼するということにより近いからです。
その時、私たちは、かけがえのないキリストと、かけがえのない関係を始めるのです。
そしてそれは、主イエスがここで「永遠の命を得ている」と仰るように、もう既に、今ここで、始まっていることなのです。
この世にある教会とは、この世と何も変わらず、主イエスにそっぽを向き、神にそっぽを向いていた者たちの集まりです。
けれども、ある時、神に引きずり寄せられたのです。
ある時、ある所で聴いた主イエスの物語を、このわたしを目指して起きた出来事であることを悟らされ、主イエスにときめいた者達の集まりであります。
そして、この私たちをときめかせるキリストにある神の愛は、他の誰とも変わらないような、今日の箇所のユダヤ人と何も変わらないような、それよりも、もっとずっと神の遠くにいた私たちが引きずり寄せられて、それで落ち着くことはありません。
この激しい神の人間追及、主イエスによる人間の追跡は、燃え上がっており、燃え広がっていきます。
今やその愛に燃やされた人を通し、群れを通し、あちらでも、こちらでも、キリストの愛が、押し寄せて行きます。
我々は一人ではありません。我々は群れです。
この教会は、一つきりではありません。あちらにもこちらにも燃えている炎の一つです。
キリストの情熱、神の情熱、いいえ、熱情の神、熱情のキリストが、教会のある所、私たちの遣わされるところどこにおいても、そこで出会ったお一人お一人に、「わたしがあなたの命のパンだ」と、御自分を差し出し、また、手繰り寄せておられるのです。
今日は、三年ぶりに御言葉の分かち合いをいたします。今日聴いた説教をグループになって語り合います。
何を分かち合うのか?皆さんの主イエスへの愛です。
どんなに主イエスに愛されているか?どんなに主イエスを愛しているか?語り合うのです。
あなたも主イエスを愛しているのですか?あなたもそうですか?
それが、お互いへの慰めの語りあいになるのです。
その言葉が教会の内側に向けば、牧会となり、また外に向けば、伝道の言葉となるのです。
そのように、主イエスの名によって集まる者たちがいるところ、そこに主はおられます。
そこに教会があります。この世にキリストの体が、確かにあるのです。
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