澄んだ目で生きる

今日は新共同訳聖書で、三つの小見出しのついた個所を一気に読みました。一節づつ、時には一節の半分を丁寧に見てきた主の祈りと比べると、だいぶボリュームがあると言えます。
 
それぞれが、重みを持った印象深い言葉であると思います。それぞれの言葉の前に立ち止まり、じっくりと腰を落ち着けて思い巡らすならば、私たちの人生に新しい気付きをもたらしてくれるような言葉の数々であると思います。
 
けれども、また、多くのマタイによる福音書の解説者は、ここをひとまとめにして語ることが多い箇所でもあります。おそらく、別々の言葉として伝えられていたものを、マタイという福音書の著者が、主イエスのお言葉を主題に沿って一つのところにまとめたのだろう。そしてそれには意味があると考えるからです。
 
つまり、この三つの印象深い主イエスのお言葉には、一つの主題、ただ一つ私たちに語りかけてくるメッセージがあると読むのです。そのただ一つ迫ってくる主題とは、シンプルに言えば、24節に極まると思います。三つの言葉を通して、私たちに迫ってくる一つの言葉、それは、あなたは神に仕えるか、富に仕えるか、どちらかなのだということです。富ではなく、あなたは神に頼りなさいと主イエスは仰います。

富に頼るべきでないという理由を語る主イエスの最初のお言葉は単純です。難しいところはどこにもありません。地上の富は、虫がついたり、さび付いたり、盗まれたり、絶対のものではないからだと仰います。
 
私たちであったら、続けてこう言うことができるでしょう。バブルははじけるかもしれない。インフレが起こるかもしれない。オレオレ詐欺に遭うかもしれない。銀行が破綻し、口座が凍結されてしまうかもしれない。
 
地上の富が絶対的なものではないことは、わたしたちも良く知っているつもりです。
 
「あなたの富のある所にあなたの心もある」と主イエスは仰います。これも難しいことではありません。よくわかることです。自分がこれは価値あるものと大切にしているものに私たちの心は、注がれています。地上の富に心を注いでいれば、その富が増えたり、減ったり、そこで心が激しく動かされます。絶対的なものではない地上の富を、絶対視し、そこに心を込めているのならば、がっかりすることになるということです。これはよくわかる。

けれども、主イエスが見定めておられる地上の富に頼ることの危険は、それ以上のものです。
 
24節の最後の言葉、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」の「富」という言葉には、マモンという言葉が使われています。英語のお金、マネーの元になっている言葉、マモンです。ここでは、興味深いことに、そのマモンがあたかも、人格を持った存在として描かれています。マモンという名前を持つ人格的存在として語られています。

人格というのは、自由な意思をもって行動する力と言い換えても良いかもしれません。主体性を持っているということです。つまり、私たちの意志に反した動きをする可能性があるということです。富は、自由な意思をもって行動する。しかも、富が自分の主体性を発揮する時、必ず私たち人間の主人となってしまうような動き方をする存在として描かれます。
 
この主イエスの言葉は、一度、よく考えてみるべきものだと思います。私たちは富やお金に人格があるとは普通考えていません。お金はお金、道具に過ぎません。それを生かすも殺すも、人間次第だと思っています。
 
けれども、主イエスはそのようにはお考えになりません。富には、人格的な力が潜んでいる。私たちの思わぬ動きをすることがある。それも悪魔的な人格であり、悪魔的な動きをする。その最たる特徴が、その管理者、所有者、主人であると思い込んでいる人間の寝首を掻き、気付いた時には、富が主人となり、人間がその奴隷となってしまうというところにあります。主イエスは富をそういうものと見ています。
 
だから、神に仕えるか、富に仕えるか、どちらを主人にするのかと問われます。もちろん、神に仕える方が良いに決まっています。富の奴隷になりたいなんて誰も思いません。それは誰でもわかる。しかし、誰にでもわかるけれども、その魅力、誘惑に打ち勝つことはとても難しい場合があります。
  
とても、興味深いことですが、富を意味するマモンという言葉は、聖書の中の言葉のアーメンという言葉と関りが深い言葉ではないかと推測する人がいます。アーメンとは、主イエスもよくご自分のお言葉が真実であることを強調するために使われた「信頼できる」という意味を持つ言葉です。私たちも祈りの最後にアーメンと唱えます。これは、この祈りはわたしたちの心からの願いです。私の確かな思いです。あるいは、あなたがこの祈りを確かなものとしてくださいますようにという願いを込めて、語る言葉です。富、お金は、確かさの象徴です。私たちもその確かさをよく知っています。
 
私の母方の祖母は、早くに夫を亡くしました。二人の子どもの上は、大学生、下は高校生でした。一番お金のかかる時期です。祖母はイチかバチか、株に財産を投じました。時代が良かったと言えます。二人の子供を大学を卒業させ、養うだけの利益を上げました。祖母は生涯、それを誇りにしました。祖母は私に言いました。夫は頼りにならなかった。けれども、お金に助けられた。お金は正直で嘘をつかない。お金の確かさを骨身に沁みてわかっている人でした。
 
しかし、その確かさに無条件の信頼を寄せる時、富は、人間を支配してしまいます。ある説教者は、財産が多いか少ないかは関係ないのだと言います。金持ちは金持ちなりに富の奴隷となり、貧しい者は貧しい者なりに富の奴隷になる危険がいつでもあります。これもまた、例を挙げるまでもなく、私たちの実生活を振り返れば、富に目がくらみ、その奴隷のように突き動かされてしまう心は、大なり小なり誰にでも起こるし、誰にでもわかると思います。
 
けれども、そこでは、神を見失うということが必ずセットで起こっているのだと主イエスは仰っているのです。
 
22―23節は、三つのお言葉の中では、多少わかりにくい主イエスのお言葉であるかもしれません。
 
「体のともし火は目である」とは、馴染みのない表現ではありますが、目こそが、光を感知しうる器官だということです。つまり、目という体の部分がなければ、陽の光が私たちの体を照らしていても、照らされているわたし自身をあるいは世界を見ることはできないということです。これもまた当り前のことです。
 
目が澄んでいれば、自分が見え、目が病に侵されれば、自分が見えにくくなります。
 
原語を見ますと、この澄むという言葉は、単純という意味で、濁るという言葉は、斜めという意味があるようです。
 
そこで、目が単純でまっすぐに物事を見るということ、目が斜めに物事を見るという風に、この箇所を理解しても良いかもしれません。
 
単純に真っ直ぐ見る澄んでいる目とは、天を仰いでいる目です。斜めに物事を見る濁った目とは、神を見ながら、横目で、富を見る目のことでしょう。この斜めの濁った目とは、単純ではない複雑な目であると言い換えても良いかもしれません。
 
宝は地上にではなく、天に積めという言葉を、ある人はこういう趣旨のことを言いました。それは別にたくさん献金し、たくさん施し、天に功徳を積めということではないだろう。宗教的な善行に勤しめば、あるいは教会のために尽くせば、それだけ、天で受ける報いが大きくなるということでは決してない。そうではなく、あなたの富のある所に、あなたの心もあるということ、私たちが自分の命を支えてくれる、自分を養うお財布をどこに見ているかということだと言いました。
 
主イエスが澄んだ単純でまっすぐな目で天を仰ぎ見るように促すのは、そこに私たちの富があるから、そこに私たちの相続財産があるから、つまり、私たちを養うことをその御心としてくださる父がいて下さるからです。主イエスは、あなたを養うのは、あなた自身でも他の誰でもなく天の父だと仰っているのです。
 
そうであるのに、そのて天の父だけを見ずに、横目で、自分の財布を見る。それで一喜一憂する。それは、濁った目だと仰る。なぜ、天の父だけを頼りにしないのか?地上の富に確かさを求めるのか?
 
私たちにとって、とても耳の痛い言葉であると思います。そのような素直な信仰を持つことは難しいと思います。たまに、そういう信仰を生きた人の話を聞きます。それに憧れを感じます。しかし、それはあまりに楽観的であるとも思います。
 
澄んだ目とは、単純な目だと言いました。単純という言葉は、誉め言葉にもなりますが、その反対にもなり得る言葉です。自分の地上の富を考えず、天の父のみを見るという単純さは、愚かだとも思えるのです。
 
濁った目とは斜めの目だと言いました。それも、ただけなす言葉だとも言えません。世の中は、単純真っ直ぐではなく、斜めに見ていた方が、よほど真実に近いと思えるからです。主イエスよ、あなたの仰ることは、真っ直ぐ過ぎます。単純過ぎます。楽観的過ぎます。私たちは、今日の三つの主のお言葉の前に、そういう感想をどうしても抱かざるを得ないかもしれません。何事もバランスです。8割、神を見上げても、2割は、貯えの心配をした方がよい。いや、あるいは、6:4くらいがちょうどいいと私たちはどこかで思っています。
 
けれども、そのような私たちに仰る。あなたの目が濁れば、全身が暗くなってしまう。あなたの目が濁れば、光が降り注いでいても、見るべきものが見えなくなってしまう。バランスはとれません。富は人格的な力を持ちますから、私たちが2割の期待と思っていても、そこから自分で領地を広げることができます。そこで、私たちの目は完全に濁ってしまい、見るべきものが見えなくなってしまいます。
 
そこで見えなくなってしまう私とはどのような私か?次週の説教個所を先取りするようですが、鳥よりも価値があり、花よりも装って頂いている私たちであります。
 
神のまなざしにおいて、価値ある自分であることが見えなくなるのです。神が慈しみ深い父であり、私たちがその愛し子であることが見えなくなるのです。
 
だから、主イエスは、斜めの目ではなく、真っ直ぐな目で天を仰ぐように、命じられます。私たちが富の奴隷となり、卑しい者となることを神がお望みにならないからです。
 
マモンの力は本当に強いものです。その上に人生を築くことのできる確かさを持つものです。家族よりも確かであります。もしも、目を奪われるなら、目は濁り、どんなに光が射していても、もう見えなくて、私たちには取り返しがつかないかもしれません。
 
けれども、23の後半にこういう言葉があります。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどのものだろう。」
 
不思議な言葉です。目が濁れば、外からの光は見えないと言われてきたのに、ここで突然、内側の光について語られます。不思議な言葉です。
 
神も富も見る濁った私たちの目、神と富を見る時にこそ、バランスよく現実が見えていると、思い込んでいる私たちの目は、本当ならば、どんな光を投げかけられようとも、それに気付くことはできないかもしれない。
 
一度、横目で富を見てしまえば、創世記のアダムとエバのように、後戻りできない腐敗に取りつかれてしまう私たち人間であるかもしれない。そうなれば、主イエスが何を語られようと、私たちは富の奴隷であり続けるしかないはずです。
 
けれども、そうはなりませんでした。主イエスにおいて光が、私たちの内側に侵入しているからです。
 
「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。それはどんなに恐ろしいことだろうか。けれども、あなたの中には光があるね。だから、立ち直ることができるね。あなたの目は、あなたの内にある光によって、まっすぐ天を仰げるようになるね。」
 
マタイによる福音書4:16にこのようにありました。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射しこんだ。」
 
主イエスの誕生を語る言葉です。世に住まわれたキリストこそ、私たちの間に宿られた私たちの心にまっすぐに、入って来られる光です。

私たちは、自分が富の誘惑に決して打ち勝つことはできないことをよく承知した上で、なお、富と奴隷として開き直る必要は少しもありません。人間にはまったく別の道が拓けています。

富と同様、もちろん、それ以上に神さまは人格的存在だからです。これはむしろ、おかしな言い方です。人格が自由な意思決定を意味するならば、神様こそが、人格そのもの、私たちの人格に立ち向かい、むしろ、それによって私たちを人格とする、人格そのもの、主体そのものでいらっしゃいます。
 
石原吉郎というキリスト者の詩人がいます。私の生まれる前に亡くなっている方ですが、最近、教会の外で、サカナクションというロックバンドの作詞作曲兼ボーカルの山口一郎という人が、自分が影響を受けた詩人の一人として名前を挙げて、少し話題になりました。
 
その石原の詩に「最後の敵」という詩があります。その後半の一連にこういう言葉があり、私も深く心を捕らえられてきた言葉です。
 
 彼はやって来るだろう
 かんぬきよりもかたくなな
 ぼくらの腕ぐみを
 苦もなくおしひらいて
 その奇体なあつい火を
 ぼくらの胸に
 おしつけるために
 
最後の敵とはキリストのことです。イエス・キリストを最後の敵と呼ぶのは、私たちにはためらわれることです。けれども、そこには、深い真実があるとも思います。
 
私たちの目は簡単に濁ってしまうからです。横目を使いだしてしまうからです。神にのみ仕えているつもりがいつの間にか、集中力が切れ、気が散って、横を見始めるのです。そうすると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、私たちにとってもっと良いものを約束してくれる宝に見えるものが現れるのです。その大きな一つが富です。魔力的魅力を持って迫り、いつのまにやら、私たちは、その奴隷になってしまう。自分の力で、その関りを断ち切ることはできない。それが、奴隷だということです。そして、神を敵としてしまう。そこから抜け出ることができない。
 
けれども、マモンは、人間よりも強くとも、神よりも強くはありません。神さまはマモンに占領された私たちを奪い返されます。キリストは、そのようなわたしたちの強張った腕組みを苦も無く押し開かれるお方です。
 
それはちょうど、イースターの朝にお甦りになったキリストが、二階座敷の閉ざされたドアを押し開き、堅くカギの閉ざされていた部屋の内側に恐れ、隠れていた弟子たちのいた部屋のド真ん中に立たれたのと同じです。
 
それゆえ、私たちは、自分の神の子たることを忘れ、富の奴隷に成る時も、何度もやり直すことができます。キリストが私たちを奪い返しにやって来られ、キリストの光が、マモンの閂を押し開き、私たちの内に侵入して来られるからです。
 
「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどのものだろう。」けれども、光があるのです。富に目が眩んだ私たちの内にキリストの光が既に輝いています。この光に促され、何度でも立ち直ることができます。キリストが一緒にいらっしゃるから、視力を回復し、正気に立ち返り、やり直すことができます。

宗教改革者ルターが、主イエス・キリストを信じる者の全生涯が悔い改めであると言った時、それは何度失敗しても、何度でもやり直せるということを言っているのだと思います。
 
光なるキリストが、私たちを助け起こし、もう一度、天の父をのみ、まっすぐに仰ぐようにしてくださいます。この光に促され、富に守ってもらわなければ生きられない自分ではない、神が愛のまなざしを注ぎ、生かすことを御心としてくださる神の目に価値ある自分であることを見つけ直すのです。そしてそのような光に生かされる私たちは、既に、世の光と呼ばれる者とされており、まさに神は世をマモンから解放するために、私たちをもご自分の僕として用いられるのだということを弁えることが許されているのです。
 

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