本日の礼拝において、二人の洗礼入会者が与えられます。北陸学院中学校で聖書に触れ、しばらく教会からは離れていましたが、神の不思議な導きにより、御言葉によって助けられ、今日の日を迎えられた女性と、まだ生まれて一年と経っていない幼子が同時に洗礼を受けます。
洗礼を受けると、お二人は今日からキリスト者と呼ばれるようになります。キリスト者とは、キリストの者という意味です。この者の命は、他の誰のものでもなくキリストのもの、神のものですとこの洗礼は物語ります。お二人の命は、これからご自分のものではない、神のものです。神が主です。それは、こう言いかえても良いかもしれません。お二人の命の責任者は、お二人の所有者であられる主イエス・キリストの父なる神です。神がその命に責任を取ってくださる。
この洗礼入会式には、これは少し珍しいことかもしれませんが、二人の受洗者の親も立ち会いまして、その様子を目にすることになります。既に成人された志願者のお母さまを、乳飲み子を育てる私たちと同じように考えるのは、失礼な所もあるかもしれません。子供は既に成人した独立した一個の人間であると当然、お感じだと思います。けれども、いくつになっても子を思う親の心は、変わらぬものでもあるとも思います。命のある限り、子の幸せを願い続けますし、そこに責任を感じるとも思います。
しかし、今日、子どもの洗礼を目にする私たちは、その重荷を降ろして良いのではないかと思います。私たちの子どもの命の責任者は、私たちではなくこの二人の主であり、教会の主であり、世界の主であられる父なる神さまだからです。親の役目は子供がキリスト者と呼ばれるようになることによって決定的には終わっていると言って良いと思うのです。
だから、今日聞きました聖書にシメオンという人物が登場しましたが、そこに書かれた彼の言葉、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉は、私たち自身のための言葉と共感することも許されると思います。一つの使命を、神にお返しし、終えるのです。
シメオンという人は、エルサレムに住んでいた人で、25節に拠りますと、正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていたと言います。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた人だと言われています。ただ一人自分の慰めを求めたのではなく、自分が属する民族の全体、イスラエルの民が慰められることが彼の望みでした。慰めを待ち望んでいたというわけですから、この時、彼は慰められていなかったと言って良いと思います。自分の民のことで悲しんでいたのです。聖霊に導かれて生きる者が、悲しんでいるというのは、おかしなことのように聞こえるかもしれません。けれども、聖霊に満たされ、真の信仰に生かされる時、悲しみに目を閉ざすということがむしろなくなるのだと私は思います。慰めがないということをも、まっすぐに見つめることができるようになる。どんなに目を閉ざしたいことでも神が見ろと仰るならば、それを直視し、まっすぐに語るのが預言者らしいことなのだと思います。霊に導かれ、霊に言葉を与えられる預言者こそが自分の民の中にあって、言葉にできないようなもやもやとした不安、嘆きや悲しみ、呻きに形を与えることができるのだと思います。この民は慰められていない。この民は悲しみの中にいる。シメオンが見つめていたのは、神御自身が見つめておられたそのような現実です。
けれども、彼には約束が与えられていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という神の言葉です。お前が生きている内に、救い主が来られるんだ。お前が悲しんでいる悲しみが慰められる日をお前は必ず見るんだという神の言葉を頂いていたということです。真の信仰に生きる者が、悲しみをまっすぐに見つめることができるのは、その悲しみが最後の言葉ではなくて、このように最後にやってくる希望を見せて頂いているからだと思います。悲しみを打ち破る慰めが来るのです。
お生まれになって程ない生後40日ほどの主イエスが両親によって神殿に連れられてきたとき、シメオンは霊に導かれました。 「両親はその子を主にささげるため」と書いてありました。私たちが今日ここですることと似ていると言えます。その幼子イエスの元に導かれたシメオンは、おそらく聖霊に促されるままに、母マリアよりその幼子を受け取り抱き上げると、神をほめたたえて言いました。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
その腕に抱くことを許された幼子こそ、神がシメオンに約束してくださった希望でした。この幼子こそメシア、救い主、イスラエルの民の救い、慰めを与えてくださるお方。幼子イエスを抱いたシメオンの賛美の声は、とても明るく広いものです。彼がこの幼子の中に見た救い、それは、彼が待ち望んだ自分の同胞イスラエルの民の救いに留まるものではありませんでした。もっと大きいもの、万民のための救い、全ての者の慰めであることを神の霊によって教えられました。それゆえ、彼は明るく深く神をほめたたえたのです。もう、大丈夫だ。メシアが来られた。この世界を光が照らしたのだと教えられたのです。
日本の第1世代のキリスト者に内村鑑三という人がいます。この人の著作で岩波文庫から『後世への最大遺物』という小さな本が出ています。遺物というのは、遺していくものの意味で、自分が、次の世代に遺していける一番大きな贈り物は何かということを、語っています。次世代の人々のために残せるもの、内村は、お金、事業、思想、教育と挙げていきます。けれども、それらのものは何一つ遺すことができなくても、誰でも遺すことのできる、しかし、最大の贈り物があると言います。
それは、「この世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずること」、「失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずること」、「この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということ」、これが誰にでもできる次世代への最大の贈り物だと言います。いくらやりそこなっても、いくら不運に見舞われても、もう一度勇気を奮い立たせて、人生に立ち向かう。その姿が、後世への最大遺物なのだと言うのです。「人生は生きるに値する、あなたの未来は明るい。」私たちがそう言える時、私たちのその姿は、次世代への大きな贈り物になります。
私はシメオンの言葉はそのような種類の言葉であり、次世代への貴い贈り物であると感じます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」慰められることを待ち続けていた人が、民の置かれた状況を憂いていた人が、今は、安らかに去ることができると言います。それによって自分が去った後の世界に希望があることを告げているのです。彼がこのような贈り物を遺すことができたのは、ただ一つの理由に拠りました。その目で主イエスを見たからです。主イエスを見ると、このままでは心配で、死んでも死に切れないということがなくなるのです。
シメオンは、安心して、去ることができます。彼は、安らかな喜びの内に、この幼子を預けられた夫婦を祝福するのです。死に行く者がするそのような祝福はこれから生きていく者にとって、どんなに大きな慰めであり、励ましであるかと思います。
ところが、私たちはここで全く見逃すことのできない記述にぶつかります。幼子イエスに湛えられている救いをその目で見、腕に抱いたゆえに、今こそ安らかに自分はこの世を去ることができると、次世代をこの神のくだった救い主に委ね、マリアとヨセフに代表されるこれからの後の者たちを祝福したシメオンは、祝福に次いで語ったのです。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
私たちが不思議に思うのは、主イエスを目にしたシメオンの安らかさと、神への賛美、祝福と、この34節以下に記されたマリアへの言葉が、同じ人の口から時を置かずにほとんど同時に語られた言葉だということです。この幼子はやがて反対を受ける。この幼子のゆえに、あなたの心は剣で刺し貫かれる。これが、マリアへの祝福の言葉と共に語られた幼子の将来を語る言葉です。これは、とても祝福の言葉とは思えない。呪いの言葉だという他ないものです。
多くの人は、このシメオンの言葉の内に、既に、この生後40日ほどの幼子イエスの将来が見えているのだと言います。この幼子の行く手に待っていたのは十字架でした。イスラエルの救い主として来られたお方は、ご自分の民に受け入れられなかったのです。主イエスの前に、明らかになった人々の心の中にある思いとは、罪の思いでしかなかったのです。主イエスは反対を受け、十字架への道を歩まれたのです。それは、確かに母マリアの心を剣で刺し貫くような出来事した。
それは、何よりも、シメオンが慰められることを求めていたその民が、最も大切な所で完全に躓いてしまったと言って良い出来事です。待ち望まれたメシア、救い主を、その民が自分たちの頑なな心、罪の心のゆえに、その方だと気付かずに、十字架につけてしまったのです。確かに、シメオンの預言通り、多くの人々が地上を歩まれ、十字架にお架かりになったこの方に躓き、倒れてしまったのです。
果たして、これが慰めのできごとなのだろうか?むしろ、なぜ、そのような自分の民の決定的な挫折の将来を神によって見せられたシメオンが、安らかに、祝福を遺して去ることができたのかと思います。けれども、そこにこそ、見えていました。この子は、イスラエルの多くの者を倒すが、また、立ち上がらせるのだということが。
私たちの日本語の聖書のみを読むと、この幼子は、ある者を倒し、また、ある者を立ち上がらせるのだと読んでしまうかもしれません。倒れる者もあれば、立ち上がる者もいるという風にです。
けれども、ここでは原文を見るともっと単純に、「多くの人を倒し、また、立ち上がらせる」と書かれています。つまり倒されたその人が、また立ち上がらされるのです。だから、倒されることはちっとも悪いことではありません。この幼子はただ倒すのではないのです。立ち上がらせるために倒すのです。この幼子に倒された者は、また、起こされるのです。たとえば、ここで主イエスがルカ22:32でペトロに対して語られた、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉を思い起こしても良いかもしれません。主イエスに躓いて倒れた者が、また、主イエスに起こして頂くのです。
そして、また、ここで用いられる「立ち上がらせる」という言葉は、聖書を読む者にとって、忘れがたい、大切な言葉であることも気付かないわけにはいきません。この言葉は、主イエスのおよみがえりを聖書が語るときに用いるお言葉です。それゆえ、ここにはただ、十字架が見えているのではなく、復活をも見えているのだとある人は言いました。
しかも、それはただ、主イエスの十字架と復活ではありません。主イエスによって倒され、かつ、起き上がらせる者の姿も見えていると。私たちがこのように主イエスによって倒され、また、よみがえらせて頂く場所とは、どこでしょうか?それは洗礼においてです。すなわち、私たちの洗礼のできごとそのものが見えているではないかと言います。
使徒パウロは言いました。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3-4)
なぜ、シメオンの抱く幼子の十字架に至る道が、慰めであるのか?私たち人間の心にある罪の思いを明らかにするその存在が安らかさをもたらすのか?母の胸を剣で貫くような将来が祝福であるのか?
自分の罪に倒れる外ない私たち人間のその罪を突き抜けて、人間の作ってしまう不幸な歴史を突き抜けて、この幼子が、私たちを救うからです。この方が、その十字架と復活を通して、罪に死んだ者を、起こしてくださるからです。どんなに私たち人間の作り出す闇が深まっても、もう、大丈夫だ。イスラエルを代表する人間の罪が、救い主を受け入れないほどに、どうしようもないものでも大丈夫だ。この幼子が、その罪の人間を徹底的に倒し、命によみがえらせてくださるから。だから、「私は安らかに去ることができる」とシメオンは言うことができるのです。人間を照らし、立ち上がらせる神の祝福は、人間の作り出すどんな闇よりも、強いのです。
だから、このシメオンの歌は、ただ、親や、年を重ねた者のための歌ではありません。全てのキリスト者の歌です。私たちは自分の死を先取りした存在です。洗礼の時に、主イエスと共に死に、主イエスのくださる新しい命によみがえらせて頂いたのです。シメオンの歌は私たちキリスト者の全ての歌です。事実、このシメオンの歌は、ヌンクディミティスと呼ばれ、多くの人によって節が付けられ、どの讃美歌よりも長く広く歌い継がれた歌の一つとなりました。このヌンクディミティスは、ある教会の伝統では、晩の祈りの言葉として毎日読まれるようになりました。眠りに就く前に、このシメオンの歌をキリスト者である大人も子供も共に祈るのです。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」こうやって毎日眠りに就くのです。このように祈ることが許されているということは、素晴らしいことだと思います。
前任の堀江先生と、私も所属している説教塾の主宰である加藤常昭先生が現役の牧師であった頃、礼拝の最後に牧師によって告げられます祝祷を、ある時から、長老会で話し合い、祝福という言葉に変えました。それは教会員とのこんなやり取りがきっかけとなったと言います。ある日曜日、一週間ぶりにあった教会員がこう言ったそうです。「先生、私は先週いろんなことがあって先生がせっかく祝福を求めて祈ってくださったけれども、先生のお祈りは私には効かなかった」と。加藤先生はそれはとんでもない誤解だと言いました。「牧師が祝福を求めて祈ってくれたのならば、今週いいことばっかりだと思っても、そうはいかない。そうじゃなくて、むしろ祝福を受けたその週にあなたが死ぬかもしれない。死ぬっていうのは人間一般の考えだととんでもない災いだと思うかもしれないけれども、あなたは祝福されて死ぬ、祝福されたまま死ぬ、死ぬ時に神様の祝福が逃げちゃったっていうことはない。私が告げる祝福は死に勝つ祝福なんだということです。私が死に勝つ祝福を持っているのではない。神の言葉はいのちの言葉だ。お甦りになった主イエス・キリストが告げてくださっているいのちあふれる言葉だ。それを私があなたがたに告げている。あなたがたはいのちの祝福の中に立って家に帰る。この祝福の言葉はそれほど強いもの、したたかなものなんだからよく信じていただきたい。」そして、祝祷を、単純に、祝福と式次第に書き記すようになりました。
今日二人の者がキリスト者となりました。今日から公に自他共に神のものと呼ばれるのです。最初に申し上げましたように、私は親としての自分の仕事の一番大きな部分は終わった気がいたします。主に献げたのです。たとえ、仮にこの子が成人する前に、自分の命が終わっても、神の恵みに委ねることができます。しかし、この恵みは、私だけに与えられたものではありませんし、洗礼を今日受ける者だけに与えられた祝福ではありません。ここにいる全ての者が十字架と御復活の主イエスのゆえに、既に、今ここで包まれている祝福です。私たちの全てが、たとえ、人間的に言って、明るい未来が待っていなくても、キリストのゆえに、祝福が生涯離れないことを信じ続けることが今日、許されています。
クリスマスは、この祝福を思い起こす時です。もしも、今クリスマスを過ごす私たちの予感している将来が、暗いものでもちっとも構いません。私たち人間の罪の歴史のど真ん中に御子は生まれてくださいました。御子が倒し、また、立ち上がらせてくださるのです。このお方を記念するのがクリスマスです。
私たちは、洗礼において、既に死んで、この方と共によみがえったのです。この祝福、この命は、たとえ、死においても、傷つくことのない確かなものなのです。
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