柔和な人々は、幸いである!

今日共に聞きます「柔和な人々は幸いである。」という幸いの宣言は、ひとまずは、よくわかる納得できる言葉であると思います。以前も少しお話ししましたが、私の父も、祖父も、時代錯誤なほどに、家父長的な家庭形成をした強面な人間で、柔和とは程遠い人たちでした。ですから、柔和な人々だけによって作られる柔和な人間関係というのは、私にとって憧れすら掻き立てられるものであります。子どものころに、敬語を使って話さなければならないお爺ちゃんではなく、優しいおじいちゃんだったらどんなに良かったかと思っていましたし、今日の聖書個所を妻と共に話しながら、たとえば優しい人に囲まれて生きたら、自分も優しい人間になれたに違いないと語り合いまして、そういう穏やかな人間関係の中で、自分も穏やかになれることは、これは、やはり、幸せだと思うと結論づきました。

 このような憧れにも似たことを語るということは、私が家族と作っている生活というのも、表面上どう見えるかはわかりませんが、恥ずかしながら、それほど、柔和なものではありませんで、お互いイライラしたり、喧嘩したり、仲直りしたり、しなかったり、子どもを怒ったり、強くしかりすぎたと反省したりしながら、子育て中の生活というのはそんなものだろうと、あと何年かすれば、少しは、落ち着いた生活が待っているという希望に支えられて、生きているような日々です。

 そこで改めて、今日の聖書個所と自分の生活を思い巡らしながら、何で、私たちが柔和に生きられないのかと考えてみますと、やはり、後半の言葉と関係があるのかなと思いました。

 「柔和な人たちは幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」

 地を受け継ぐというのを、たとえば、試しに自分の持ち分を確保すると言い換えてみても良いかもしれません。柔和で、穏やかで、優しい人は、自分の持ち分を確保することができる。たぶん、私たちはこのようには考えることができてないのです。私たちは、もしも、自分が柔和で、穏やかで、優しいだけであれば、自分の持ち分がどんどん削られていくことを知っているから、なかなかそうはなれないのだと思います。妻の要望に全部答えようとも思えば、自分の自由にできる時間は減りますし、子どもがぐずるのに、穏やかに付き合い続ければ、保育園には遅刻して、仕事には間に合わなくなる。柔和というのは、ただ一人、誰もいないところで柔和であるということではなしに、必ず、人間関係において発揮される態度、人との接し方のことでしょうから、いつもいつも、穏やかに優しく接していれば、相手によっては、一歩も二歩も、私たちの時間や生活に上がり込んできて、自分の持ち分というのは、どんどん削られていくことになると思うのです。

 柔和な人々は、地を受け継ぐ。ある説教者は、私たちの現実はこれと正反対であると言います。柔和な人々は損をし、貧乏くじを引かなければならず、押しのけられていく。反対に、ずうずうしい人、わがままな人は成功し、出世する、こんなわかりきったことはないではないかと言います。

 だから、逆にこうも言うことができるかもしれません。私が柔和でいられるためには、わたしにはある程度の、他人に割いても良いような自分の十分な持ち分というものがそもそも確保されていなければならないのではないかと。たとえば、子育てしながら思うことは、子育てにエネルギーを使うと、配偶者に対する配慮がどうしたって欠けてしまうということです。あるいは、家事に追いまくられれば、配偶者どころではなく、子どもへの優しさもおろそかになっていきます。同じように、たくさんの仕事を抱えているときは、柔和で穏やかではなかなかいられません。いつもイライラして、人にもつっけんどんな態度を取ってしまいがちです。でも、それを指摘されるのはつらいことです。たぶん、そんな時、私たちは、既に、最初の方で、自分への優しさを犠牲にしているということが十分にあるからです。だから、私たちはたぶん、自分に十分に時間があり、十分にお金があり、十分に体力があれば、多分、今よりももっと、柔和になることもできるのではないかと思うのです。余裕を持つこと、犠牲にしてすっからかんになっていた自分の持ち分を回復すること、それによって、はじめて柔和という気持ちも出てくるのではないかと思うのです。

 聖書学者によりますと、この「柔和」というものは、アリストテレスが、この言葉を定義していて、「よく考えられ、コントロールされた怒りの制御」だと言っていることを教えてくれます。つまり、イラッとしても、一呼吸置くことができる。イライラの衝動のままに喋ったり、行動したりしない。これがギリシア的な柔和という徳の持つあり方です。なるほど、柔和とはそういうものだろうと納得できます。どんな人と付き合っていても、ピリピリせずに、どこか泰然自若に、ゆったりと接することができることだということができます。なんで、こんな風に、接することができるかというと、私は、ここで金持ち喧嘩せずということわざを思い起こしますが、心や体に余裕のある人は、柔和になれるだろうと考えたりします。そうしますと、やはり、優しさとか穏やかさというものは、肉体的、精神的な余裕と密接不可分な気がしてなりません。

 だから、今考えてきたような二つのことを合わせて考えてみれば、普通は、肉体的精神的に豊かであれば、柔和な心で人と接することができ、けれども、柔和であることによって、あれもこれも譲っていって、最後に、自分の余裕がなくなれば、人の心はイライラしてくる。それでも、なお、柔和であり続けるならば、その人は、自分の地を、自分の持ち分をやがて失うことになるというのが、我々の考える常識であると思います。だから、柔和によって、自分の持ち分が減りに減ったもう限界に達した時は、私たちは爆発してしまうということがあると思います。これだけは自分のものとして譲ることのできない確保しておきたい、プライドや、自由時間などの持ち分の許与範囲は人それぞれ違うとは思いますが、柔和には限界があり、それは、柔和が、我々の地を、つまり持ち分を削り取っていく性格を持っているからだと思うのです。

 それゆえ、「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」という主イエスの言葉は、やはり、わかりきったことではないと言わざるをえません。これは、日常生活のレベルだけではなくて、国家規模に移し替えて考えても、ますますそうだと私たち人間は考えています。今日は、衆院選の選挙日ですが、これをあからさまに、ここまであからさまなのは、私が選挙権を持って初めてのことですが、不安を煽り、これを一つの争点としている党もあるのです。穏やかな外交をしていたら、領土は保ち続けることはできないとみんなどの国も思っていることを私たちも良く知っています。だから、私たち人間は国境に高い壁を築こうという発想を致しますし、核兵器が持ちたくなります。柔和な人は、地を失うと信じているからです。私たちがここでよく考えてみなければならないことは、それでも、北風と太陽のように、穏やかな態度はやがて、人の心を和ませ、そのような柔和な生き方によって、皆が生きやすい社会が結局は実現されるのだという主張が、主イエスのこのさいわいの言葉を通して、語られているわけでは決してないということです。

 聖書が語る最も柔和な方である主イエスは、その優しさを貫いたところで、足の幅ほどの地をも失うことになられたのです。すなわち、柔和な人、主イエスのおからだは、十字架にかけられ、このお方の持ち分はこの地上にはまったくなくなってしまったのです。私たちはこのことを忘れることはできません。聖書は、「木にかけられる者はすべて呪われる。」(申命記2122、ガラテヤ313)と語りますが、地を失うことが、忌み嫌われたのは、地を受け継ぐということが、旧約以来の神の根本的な祝福であり、木にかけられた者の姿が、その対極にある姿だからであると言えます。柔和を貫かれた主イエスは足の幅ほどの地さえ失われたのです。とても厳しいことです。

 ところで、私たちは、今日主イエスが語られた祝福の言葉が、実は、旧約聖書に典拠を持った言葉であるということをまだ見てはいません。今日の柔和な者の幸いを語る主イエスの心には、詩編3711が、響いていたものと考えられています。そこには、こうあります。「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」とても、同じ言葉とは思えないかもしれませんが、前の口語訳を見ると、はっきりします。口語訳では、詩3711は、「しかし柔和な者は国を継ぎ/豊かな繁栄を楽しむことができる」とありました。つまり、ここで、用いられているヘブライ語の柔和と訳される単語がギリシア語でも、日本語でも、別の言語に訳されるとき、一つの言葉では表せない豊かな広がりを持つ言葉だということを意味しています。その言葉が持つ基本的な意味は二つあり、一つは口語訳が訳したように「柔和」であり、一つは新共同訳が訳したように「貧しい」という意味があります。

これは、不思議なことであると思います。私たちが最初に確認しました感覚では、柔和とは、むしろ、豊かさに近いものだと思えました。柔和とは余裕があること、余裕があるため、人の攻撃や、不満がぶつけられても、すぐに仕返しに転じないこと、そんなニュアンスを含んだ人間の性質であるとするならば、それは、心にも体にも、豊かさがある者こそが、言い換えるならば、精神的、あるいは物質的に、人に分け与えられるほどの、十分な豊かさを持つ者こそが、積極的に、この柔和の徳を実現することができると考えました。柔和であることは、素晴らしいし、できれば、自分もそうなりたいと願っても、余裕がないから、心も体も時間も、貧しいから、イライラをぶつけてしまう、柔和でいることができない、私たちはそういう風に思っています。けれども、聖書がここで語る柔和さとは、貧しさと一つであるような人間のあり方です。

 そうなると、主イエスが柔和という言葉を語られるとき、ギリシア語が用いられているからと言って、心の豊かな人にこそ実現することのできるギリシア的な柔和を祝福していらっしゃるとは、どうも言えないのではないかと思います。主イエスが、祝福なさっている、柔和とは、旧約聖書の伝統に連なり、貧しさと一つであるような柔和、自分の持ち分を失ってしまっている者に表れている柔和ではないだろうかと思うのです。

 そう思いまして、色々な翻訳を見比べてみますと、無教会派に属した塚本虎二という人の翻訳と、前田護郎という人の聖書翻訳には、この柔和な人の幸いを語る主イエスの祝福の言葉を思いがけない言葉で訳しているということを見つけました。前田訳はこうです。「さいわいなのはくだかれた人々、彼らは地を継ごうから。」塚本訳はこうです。「ああ幸いだ、”踏みつけられてじっと我慢している人たち、””約束の地なる御国を相続する”のはその人たちだから。」

 主イエスが祝福された柔和な人々というのは、いったいどういう人たちであるのでしょうか?

私たちがこういう風に考えることも許されると思うのは、この祝福は別に心の広い人を祝福する言葉としか読めないのではないということ、そうではなくて、声も挙げられずに、苦しみに耐える人々を主イエスが祝福される言葉だと理解することもできると思うのです。事実、主イエスが、この山上の説教を語り始められたきっかけは、群衆を見られたからです。群衆が主の目に留まったからです。その群衆とは、直前の424によれば、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」とその周りの者たちでした。豊かで健やかな者ではなく、貧しく病んだ者です。私たちは柔和ということを人間の気高い品性、徳の一つと数えることもできるでしょう。心や体の健やかさを備えているから、やられてもすぐには仕返しをしない余裕がある。これは立派なことです。けれども、私たちが、やり返さないという状況は、それだけに留まらないと思うのです。

 「くだかれている」、「踏みにじられてじっと我慢している」

 もう、爆発寸前、でも、爆発することもできない。私の持ち分は、地はどんどんどんどん失われていくばかり。子どもによって、配偶者によって、親によって、職場の上司によって、取引先の相手によって、隣人によって、私の地は完全に奪われていくかもしれない。それなのに、心と体と状況のあまりの貧しさゆえに、反撃できない。残された道は、自暴自棄に陥る以外は、ないということがあるかもしれない。けれども、それさえ、許されずにじっと耐えているということがあります。しかし、主イエスはまさにこの人間の貧しさを、柔和と呼んでくださっているのだと思います。そして、その貧しさに生きざるを得ない人間に、「あなたたちは地を受け継ぐ」と祝福を語ってくださいます。

 とても印象深いことに、主イエスは、「地」を受け継ぐと約束されるのです。天ではありません。もしも、これが、天であったらどんなにわかりやすかったことでしょう。地上では苦しくとも、天では大きな報いがあると、12節では、語られています。これならたいへんわかりやすい。でも、ここで受け継がれると約束されているものは、「地」です。

 私たちは、こう問わざるを得ません。柔和でへりくだった者だから私の元に来て学びなさいと仰りながら、十字架にかかり、足の幅ほどの地も失われた方の約束の言葉には、いったいどんな現実味があるのでしょうか?このお方は、軍馬ではなく、ころばに乗った王であったゆえに、自分の土地を完全に失ってしまわれたのではなかったか?しかし、私たちは、このお方が、十字架で死なれたままではなかったのだと聞かされました。このお方は、三日目におよみがえりになり、天地の支配者となられました。

 マタイ2818で、ご復活の主イエスはこう宣言されます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。

 聖書の語る私たち人間の希望は、肉体を離れた魂が、やがて、天で永遠に生きるというものでは決してありません。主イエス・キリストがおよみがえりになられたように、私たちも新しい命によみがえるということです。これはとても大切な教えであると思います。私たちは天に目を注ぎますが、地を諦めてしまうことは、これによってできなくなります。天もちも神のものであり、柔和なキリストのものだからです。

 柔和な方がご復活されたという聖書の告知は、この地も、やがて、新しいものに、よみがえるという約束を含んでいるのです。すなわち、ずうずうしい者、人を押しのける者によって、支配されていた死んだような地はよみがえり、柔和な者の地となるのです。

 私たちはそのような地を望みます。私たちだけではなく、世界自身がどんなに新しくされることを願っているかと思います。使徒パウロは、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」ことを、呻きながら待ち望んでいると、見做しました。そのような、新しくされた地、私たちの生きるこの地上の将来を、たとえば、預言者イザヤは、次のように描写しました。

 狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。(イザヤ6525)

 力あるものと貧しい者が、共に平和に生きるようになる地上の将来です。これは、実現しそうのない幻に見えるかもしれません。けれども、未だ将来に属するこの地上の将来の一番の急所は、既に、実現していることに気付く必要があります。

 すなわち、真に富んでおられたお方、神の御子が、既に柔和を貫いてくださったのです。主イエスが、その優しさによって私たちの貧しさに寄り添ってくださったのです。そのお方は富んでおられたのに、誰よりも力があったのに、とことんその柔和を貫かれることによって、ご自分の豊かさを失われました。ご自分の持ち分を足の幅ほどの土地も失われてしまいました。それは私たちの貧しさの底なしを明らかにする出来事であったかもしれません。

 けれども、このお方は、死んだままではありませんでした。神は、このお方を三日目に死人のうちよりよみがえらされ、天と地の一切の権能をお授けになりました。そして、このお方は、世の終わりまでいつも私たちと共にいると約束してくださいました。そのお方が仰います。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」オオカミ、獅子、蛇が貧しい者と共に生きるようになるどころではないのです。神の御子が、天と地の全権を与えられた方が、貧しい者と共に生き始められたのです。  

 信仰を持てば、心が豊かになるわけでも、柔和に、寛容になれるわけでもないと思います。けれども、私たちの貧しさをこのお方が祝福されるなら、私たちは貧しいままで生きることができます。打ち砕かれたまま、踏みにじられてじっと我慢したままでも、決して滅びることがありません。その貧しさにおいて、天地の全権を持った主イエスの祝福を聞くからです。だから、今は、この柔和とは言えないような貧しさを、それを柔和と呼んで下さる方に、喜んで差し出すのです。自分自身を丸ごと差し出すのです。

 どのような砕かれた経験、踏みにじられた経験においても、主イエスがその私たちを持ち堪えてくださるからです。天地のいっさいの権能を与えられ、やがてそのことを、全世界に露わにされる柔和な王、主イエスが、今、既に、私たちの持ち分となっていてくださるからです。この方が、共に生きてくださるからです。

 

 

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