来るために去るお方

2023年9月10日 主日礼拝 ヨハネによる福音書16章4節b~15節  大澤正芳牧師

この北陸の地、特に石川県は、キリスト教とたいへんゆかりの深い場所です。キリシタン大名高山右近がこの地で暮らした前田利家の時代や、明治維新の頃のトマス・ウィンや長尾家の人々とのつながりだけでなく、有名なキリスト教神学者でこの土地とゆかりを持つ者は、案外、多くびっくりいたします。

特に意識して調べたわけではありませんが、この七年間の間に私が発見しただけでも、何人もの人たちがいます。

組織神学者の高倉徳太郎、橋本鑑、熊野義孝、新約聖書学者の山谷省吾、ダンテの『神曲』やカルヴァンの『綱要』、アウグスティヌスの『告白録』を最初に訳した北陸学院出身の中山昌樹、これらの人々はみな、石川県、また金沢にゆかりのある人たちです。これらの人々は、金沢で生まれたり、第四高等学校で学んだり、そこで教師だったり、長く暮らしたり、そういう人たちです。

かつて、真宗王国と呼ばれ、伝道困難地の一つに数えられてきましたが、この土地は、キリスト教と無関係な地ではありません。この土地から、キリスト教信仰、キリスト教会の良いもの、深いものが、表れてくる、培われてくる、そんな風に神さまが定められた特別な土地だと、思わされることがあります。

その中の一人に逢坂元吉郎という人がいます。加賀の大聖寺に生まれ、当時七尾にあった泉が丘高校の分校に通い、第四高等学校時代は、哲学者西田幾多郎と親しく過ごし、生涯、交わりを持った牧師です。この人は、忘れられた神学者と呼ばれることがありますが、かほくにある西田記念館の館長の浅見洋さんがたびたび取り上げて紹介してくださっていますし、近年、改めて、手近な研究書が発表され注目を集めています。

私も北陸学院の宣教師であったトマス・ヘイスティングス先生に、逢坂に注目するように、数年前にオンラインでお話した時に促されまして、それ以来、少しづつ学んでいます。

この夏も、逢坂の著作を読み進めていました。また、逢坂に関する研究書も一つ読みました。そこでこんな趣旨の言葉に出会いました。

逢坂元吉郎という牧師、神学者は、現臨のキリストにこだわった人だ。

現臨のキリスト、現在、ここにおられるキリスト、今、ここで生きておられるキリスト。

その研究者は言います。

2000年前のキリストの事績、その歩みを一所懸命に学ぶことはとても大切なことである。また、やがて来られる再臨のキリスト、この再臨のキリストに希望をかけ、この世の苦しみ、今はその意味が分からない不条理な出来事が解決されることを、期待することも、もちろん大事なことである。しかし、かつてこの地上を歩まれたキリスト、またやがて来られるキリストよりも、私たちにとって切実で、気にかかるのは、今、ここにおられるキリストではないか?過去ではなく、将来ではなく、今、ここに、私たちと共におられるキリストの現在、そのことに目が開かれない限り、信仰の妙味、その奥義を味わったことにはならないのではないか。

そして逢坂元吉郎という人は、そのことに気付かされ、そのことを力を込めて語り、また、語っただけでなく、キリストの現臨を味わうこと、生けるキリストを自分の身をもって体験することを、実践し、勧めた北陸出身の神学者でありました。

私もそのことに深く共感しています。

私もこの教会で、皆さんと共に、知識としてキリストを知りたいのではありません。生けるキリストに触れたいのです。

私たちはヨハネによる福音書を読み進めていますが、ヨハネによる福音書というのは、イエス・キリストの福音、良き知らせが、まさに現実に今ここで味わわれるもの、つまり、今、ここにおられるキリストとして体験されるものであることを強調した福音書です。

キリスト教は言葉を重んじる信仰であり、この福音書もまさに、「初めに言があった」と、語り始めますが、まさにその神のロゴス、神の理が、「肉となって私たちの間に宿られた」と、この福音書はその冒頭から、キリストの受肉を語ります。キリストが肉となった。受肉したというのは、私たちの五感に触れることができるお方であることを意味します。それだから、受肉を語るヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た。」と続けます。見ることのできるお方となって、神の言葉、神の思いは、私たち人間の目の前に現れたのです。

このヨハネによる福音書の解説書として書かれたと考えられている、ヨハネの第1の手紙を読むと、さらに、この福音書の主張の核心がわかると思います。ヨハネの手紙Ⅰの冒頭で、ずばりこう言われています。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」

クリスマスと再臨の間にあって、今、この時を生きる私たちは、直にキリストには触れられないと思い込むことがあります。

けれども、そうではない。その声は聞かれ、その方は見られ、わたしたちのこの手で触れることのできるお方であると、ヨハネの第1の手紙は、ヨハネ福音書の冒頭と共に、主張しているのです。

私は、先週、7節の「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」との御言葉に注目しながら、この御言葉を10節に結びつけました。キリストの不在は、キリストが天で忙しく私たちのために働いてくださる証拠だと申しました。肉眼で見えないからと言って、主イエスと共に生きた12弟子よりも、私たちのキリストとの繋がりは薄いなどということは言えない。保育園に預けられている子ども達は、自分は預けられている間、親は自分を忘れてしまっていないか?自分は放っておかれているのではないか?と、思い込むことがあるかもしれません。けれども、そうではない。子どものために家族のために、離れている間も、保護者は一所懸命に働いているのです。

十字架とご復活の主イエスが天に昇られ、私たちの肉眼には見えないということもまったく同じことです。

クリスマスと再臨の間の中間の時代は、私たちのための主イエスの御働きが弱まっているとか、限定的であるとか、そういうことはあり得ません。今こそ、私たちのために父の右の座で主イエスは、お働きになっておられます。

先週は、そのようにお話しいたしました。けれども、これはまだ、語り足りないところがありました。この肉眼で見えなくなるということと矛盾するようですが、実は、主イエスは天に去って行かれることによって、実は、もっとわたしたちに近づいて来られるのです。そのように言わなければなりません。不思議なことですが、主イエスは去るからこそ、今、わたしたちと共におられるとも、どうしても言うべきなのです。

今日、私が、先週と同じ聖書箇所を読みながら、語りたいことは、このことです。

そしてそれはヨハネによる福音書が、これまでも語ってきたところであり、今日の聖書箇所の主イエスの言葉の背後にある前提だと言って良いことです。典型的には、14:18で語られていました。主イエスは、こう仰っていました。

「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」

わたしは去って行くので、この世はもうわたしを見なくなる。しかし、あなたがたはわたしを見る。この世が見ないとは地上にある一人の人間としての主イエスの姿は、肉眼ではもう見えなくなると言い換えて良いでしょう。しかし、そのような姿では、しばらくの間は、主イエスのことを見なくなるのだけれども、それにもかかわらず、私たち主の弟子たちにとっては、この方を「見る」という感覚、このような身体的な言葉でしか言い表せないような実際の見る体験、具体的に主イエスと出会う体験が与えられるということでしょう。

わたしは去って行く。しかし、それはあなたがたのためになる。なぜならば、去ることによって、わたしはあなたがたのところに戻るからだ。戻るために、私は去る。去ることによって、あなたがたのところに来る。

いくつかのところに散らばっているヨハネによる福音書中の、主イエスが「天に去る」とお語りになる言葉を、一所に集めてみると、全く禅問答のようですが、確かに、「去ることによって、わたしは戻ってくる」とこの方は仰っているのです。しかも、それは西洋絵画に描かれているので、多くの人が教会の信仰の常識として知っている世の終わりにおける最後の審判のためのキリストの再臨を指しているのではありません。再臨前の、今、現在における生けるキリストとの出会いの体験として語られ、約束されているのです。

十字架とご復活の主イエスが天に去ると、この方は、私たちの元に、戻ってくる。そして、福音書が語る12弟子たちとの寝食交えた親しい歩みの時よりも、このお方は、わたしたちにもっともっと近くに体験されるようになる。そうお語りになってらっしゃる。不思議な言葉です。不思議な言葉ですが、嬉しい御言葉です。心強い御言葉です。だから、何はともあれ、主の御言葉を受け止め、単純に喜びたいと思います。

主イエスは本当に近くにおられます。2000年前よりも、今の方が、もっと近くにおられます。主は、わたしたちと共におられます。

一年位前、我が子にどうして今、イエスさまは見えないのかと聞かれたことがあります。あまり深く考えて答えたわけではありませんが、その時、私はほとんど直感的に次のように答えました。遠いから見えないんじゃないよ。近過ぎるから見えないんだ。自分のお顔、自分の目で見える?自分のお鼻、自分の目で見える?見えないでしょう?近過ぎると見えないんだよ。

この答え、北陸学院小学校の娘のクラスでも、ちょっと話題になったようです。目から鱗だと、担任の先生が、愉快そうに報告してくださいました。とっさに答えた言葉ですけれども、わたしもなかなか良いと思っています。皆さんも是非、考えてみてください。お子さん、お孫さんにそう答えてみてください。イエスさまが目に見えないのは、天に昇られ、遠くに行ってしまわれたからではありません。だって、天に昇られたことによってこそ、むしろ、イエスさまは私たちの近くに戻って来られると仰っているからです。だから、イエスさまが今、目に見えないのは、遠くにいるからじゃありません。別の理由によります。この別の理由は、色々複雑な言い方もできるでしょうが、シンプルに、近過ぎるから見えないというのは、それほど間違った答えではないとわたしは思います。わたしたちは、今、与えられている、こういうイエスさまとの親密な結びつき、つながりを信じて良いのです。

次週は、北陸連合長老会の交換講壇があり、ハイデルベルク信仰問答を念頭に置きながら、北陸8つの教会で礼拝が捧げられ、説教がなされますが、昨年度の問答にも、今年度取り上げる問答の箇所にも、次のような印象深い言葉が語られています。

「この方の一部であるわたしたち」。

「御自分の部分であるわたしたち」。

すなわち、宗教改革時代に作られたプロテスタント教会のハイデルベルク信仰問答においても、キリストは頭であり、私たち教会は、この方と合体して、この方の体とされているというキリストと私たちの近さ、近いどころか一体の信仰が、当たり前の前提とされています。

だから、教会を迫害していたサウロに、イエスさまは仰いました。

「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」

イエスさまとわたしたちは一つの体なのです。わたしたちにしたことはイエスさまにしたことだとイエスさまは仰います。

このことが実現するのは、具体的には、聖霊によると、今日の聖書箇所からは、続けて聴き取ることができるでしょう。主イエスが天に昇られることによって、聖霊、神の霊がこの地上に降ってくる、送られてくる。その霊が、わたしたちを頭なるキリストに結びつけられたキリストの体にしてしまう。近いどころか、一体としてしまう。しかし、もしも、これだけを聞くならば、私たちが、今、ここで与ることができるというキリスト体験は、まだ、ふわふわしていて、捉えどころのないもののように感じられるかもしれません。

じゃあ、実際にそれはどこで体験されるの?どう確かめられるの?それはただ、信じられるだけなのか?そうであるならば、それは、やっぱり体験じゃないんじゃないか?聖霊によると言います。それならば、キリストとの一体体験とは、感情がものすごく揺さぶられるような経験のことだろうか?宗教的エクスタシーとして、体験されるということなのか?

けれども、聖霊において、生けるキリストを体験する、キリストとの一体に生きる体験を与えられるというのは、特別に霊的な人しか体験できないような宗教的エクスタシーに関係のあることではありません。主なる神さまは、私たちの誰もが、生けるキリストを体験するように、また、この生けるキリストと私たちの心と体の全存在が、実際に結びついてしまうように、そしてそれが体験されるように、具体的な秩序をお与えになりました。

それが教会による、教会が建てた者による福音の説教と、またその教会が建てた教師によって執行される洗礼と聖餐の聖礼典です。

自由な神の霊は、あちらこちらに無秩序に吹くのではなく、肉となった御子と同様に、その謙遜のゆえに、あえて、土の器に過ぎない人間の語る福音の説教と、ただの水、パンと、杯という物質に過ぎないものを用いての聖礼典を選び、わたしたちに差し出され、その担い手である見える教会を用いて、生けるキリストの現臨を今、ここにあるものとしてくださいます。

私たち貧しい土の器である教会に福音の説教と聖礼典を託され、神の息、命の霊は、それを用い、生けるキリストと私たち人間を出会わせ、それどころか、生けるキリストとわたしたちを合体させ、キリストの元気、キリストの命に満ち溢れた、キリストの体の部分としてしまうのです。福音の説教、洗礼、聖餐の聖礼典、これらが神の恵みが具体化される聖霊の通り道です。神があえて選び取って、差し出してくださった通り道です。

今日の13節後半で主イエスがお語りになります。

「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

私たちの信仰は、単なる思想ではありません。だから、語られ、聴かれるだけではありません。それは起こることことです。つまり、出来事となり、体験されることです。聖書を読むことがキリスト教ではありません。聖書から思想や、処世訓を受け取ることがキリスト教ではありません。聖書の証しするキリストに出会うこと、このお方に触れられることこそが、キリスト教の奥義です。週毎の福音説教において、月毎の聖餐において、キリストはあなたとはっきりと出会われ、キリストははっきりとあなたに触れられます。この聖霊による霊的かつ、具体物による身体的ふれあいによって、キリストの命を、いいえ、キリストご自身を人間は頂くのです。

このようなキリストとの一体を、心だけでなく、体にも深めていくために、ここに集められている皆さんです。キリストは皆さんに触れたい。どうしても触れたい。だから、教会を建て、教会に説教、キリストの祝福の言葉を授け、聖礼典を託されたのです。

天に昇られることによって、キリストは、今近くに来られ、わたしたちに体験されるキリストとなっておられます。このような近さにおいて、キリストは皆さんのもの、皆さんはキリストのものです。

 

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