8月18日(日) 申命記6章4節~9節 マルコによる福音書12章28節~31節 松原 望 牧師
申命記6章4~9節
4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
マルコによる福音書12章28~31節
28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
「 説教 」
序
先週(8月11日)の礼拝では、神の民であるイスラエルの民が神を信頼する訓練を受けるために40年の荒野の生活を始めることになった経緯をお話ししました。
それから40年が過ぎ、イスラエルの民はいよいよ約束の地カナン(今のパレスチナ)へ入っていく時が来ました。このとき、モーセがイスラエルの民に語ったのが申命記です。申命記全体がモーセの語った言葉です。この申命記の中で、モーセは荒野の40年間の試練を振り返り、それらの試練にどういう意味があったかを語っています。これが申命記の大きな特徴です。
この申命記では出エジプト記にあった「十戒」がもう一度記され、さらに多くの戒めも記され、出エジプト記から民数記までに記されている戒めと重なっている部分も多くあります。これがこの書物が「申命記」という書名になっている理由でもあります。この書物が昔ギリシア語に翻訳された時、「第二の律法」という意味の署名がつけられ、それが18~19世紀に中国語に聖書が翻訳された時、「繰り返し命じる」という意味で「申命記」という書名がつけられたと言われています。そして、聖書が日本語に訳された時、中国語の聖書にある書名をそのまま用いて「申命記」となっています。
この申命記はモーセの世を去る場面で閉じられていますが、この申命記全体を通してモーセがイスラエルの民に語っているという流れになっています。ですから、申命記はイスラエルの民に語りかけるモーセの決別の説教だと言えます。
申命記の第二の特徴は、この申命記の後に続くヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下は申命記の信仰に密接に関係しているということです。このことからヨシュア記から列王記までを申命記的歴史書と呼ぶことがあります。士師記とサムエル記上の間にルツ記がありますが、これは別の扱いになります。
ヨシュア記から列王記まではイスラエルの歴史が記されていますが、列王記下の最後はイスラエルの民の国はバビロンという国に滅ぼされ、主だった人々がバビロンへ捕囚となって強制移住させられた出来事で閉じられています。これらの歴史書の一番の目的は、神から約束された地に入った神の民イスラエルは、なぜその約束の地カナンから追い出されることになったのかを歴史をたどるという形で説明することにあったのです。なぜイスラエルの民の王国は滅んだのか。バビロン捕囚はなぜ起こったのか。イスラエルの民の歴史を信仰の面から解釈をし直したのがヨシュア記から列王記までの歴史書なのです。
ヨシュア記から列王記までを通して、イスラエルの民が約束の地から追い出されたのは、申命記に記されている戒めと警告に従わなかったからだと告げています。
申命記に記されている戒めと警告とは、どんなことだったのでしょうか。そこで、まず今日の聖書である申命記6章4~9節を見ていくことにします。
1、申命記6章4~9節の重要性
主イエスはすべての戒めのうち第一の戒めはどれかと尋ねられた時、申命記6章4~9節を引用し、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えられました。そこで、まずこの申命記6章4~9節については話しておきたいと思います。
① 申命記6章4~9節はその最初の言葉「聞け、イスラエルよ」(ヘブライ語は「シェマー・イスラエル」)から「シェマー」と呼ばれ、特別に大切な言葉として重んじられて来ました。シェマーと呼ばれる聖句は他に申命記11章13~21節や民数記15章37~41節があり、日々の祈りや安息日の礼拝の時に朗読されてきました。
② 常にこの言葉を思い起こすようにと、現在でもフィラクテリー(申命記6:8、マタイ23:5では「聖句の入った小箱」)を身につけたり、門や部屋の入口に付けて出入りする時、メズーザー(これもシェマーという聖句が入った小箱)を触れるようにしています。これらのフィラクテリーとメズーザーの中にシェマー(申命記6:4~9)を書いた紙が入れられています。
フィラクテリーをお見せすることはできませんが、メズーザーはこの教会の1階の牧師室のドアの柱にかかっていますので、ぜひ見ていただきたいと思います。長さ10センチ足らずの金属製のものです。前任の大澤先生か、その前の堀江先生か、あるいはさらにその前の三輪先生がつけてくださったのではないかと思います。メズーザーの大きさ材質は様々で、エルサレムのホテルの部屋の入口にかかっていたメズーザーは、20センチほどの木で作られていました。そして表には「全能の神(エル・シャダイ)」の頭文字、シンという英語のダブリューに似た文字が施されています。
このように、礼拝の時や個人で祈る時、家や部屋にこの申命記6章4~9節の言葉が用いられていることから、ユダヤ人にとってこの言葉がいかに大切なものとして扱われているかがわかります。ですから、主イエスがこの言葉を最も重要な戒めだとおっしゃったのもよく理解できるのではないでしょうか。
当時から、これほど大事に扱われていたにもかかわらず、この戒めの重要性をあまり認識していなかったのか、律法の専門家である律法学者が「どれが第一か」と尋ねることの方が不思議に思われます。「灯台下暗し」と言います。ひょっとすると、あまりに身近であったために気づかなかったのかもしれません。
さて、申命記6章4~9節が最も重要な戒めであることを確認するために、この言葉が申命記という書物の中でどういう意味があるのかを見ておきましょう。
2、カナンの地に入った後、エジプトから脱出させてくださった神を忘れてはならないとの警告をする申命記
先ほど、申命記6章4~9節を読んでいただきましたが、そのすぐ前の6章1節にこの申命記に記されているのは、イスラエルの民がこれから入っていく約束の地で守らなければならない戒めだと言われています。
これまで、出エジプト記やレビ記、民数記の中に数多くの戒めがありました。申命記には、それらの戒めと重なるものも多くありますが、申命記は、この場所で、これから語られる戒めは特に、約束の地に入ったら守らなければならない重要なものだと警告されています。そして、その直後に来ているのが、今日の6章4~9節のシェマーと呼ばれる聖句です。
このシェマーの「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉が重要なことは言うまでもありません。主イエスもすべての戒めの内「どれが第一なのか」と問われ、この言葉を引用し、続けて「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を告げ、「この二つにまさる掟はほかにない」とまで言っています。ですから、「神を愛しなさい」という戒めが大切なことは確かです。
そのうえで、このシェマーと呼ばれる言葉が、申命記の中に記されていることに、見落としてはならない重要性があります。それは、「我らの神、主は唯一の主である。」(4節)という言葉です。この言葉に、申命記という書物自体の重要な意味が込められているのです。
旧約聖書全体が神はひとりであるという信仰を言い表していますが、特に申命記はそのことを強調しています。神を「唯一の主」と呼んでいることもそうなのですが、「ほかに神はいない」(申命記4:35、39、5:7、32:39)という言葉があり、神はただひとりであることを強調しています。
なぜこのように強調するかと言いますと、カナンの他の神々と混同させないためです。
旧約聖書は他の神々の存在を認めるような言い方をするところもありますが、申命記は「神は主なる神おひとりで、他に神は存在しない」ということを強調しているのです。
カナンではバアルという神を信じる他国民もいました。カナンに入っていったイスラエルの人々の中には、そのバアルという神とエジプトから脱出させてくださった主なる神との区別があいまいだったこともあったようです。
そのことは、たとえば士師記にギデオンという士師が登場しますが、彼はエルバアルという名前で登場するようになります。バアルという言葉には「主人」という意味があり、エルバアルは「主なる神」という意味にもなります。このことから士師たちの時代には主なる神とバアルという神の区別があいまいだったとも考えられるのです。エジプトから脱出させてくださった神を拝んでいるつもりでバアルを拝んでいたこともあるのではないかと推測できるわけです。そうしますと申命記やヨシュア記から列王記までが神が唯一であることを強調する理由も納得できます。
3、申命記の十戒の特徴
出エジプト記の十戒の安息日の戒めは神の天地創造をその戒めの根拠にしているのに対し、申命記の十戒の安息日規定では、エジプト脱出を思い起こすためとしている。
「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:12~15)
このように、エジプトから脱出させてくださった神を礼拝するために、安息日を守るようにと戒められています。私たちが信じる神はエジプトから脱出させてくださった神であることを強調しているのです。
十戒の冒頭にある「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という言葉は出エジプト記の十戒と同じですが、この冒頭の言葉が神の自己紹介であり、エジプトからの脱出を強調しているのです。
4、列王記から
イスラエルを統一したダビデ王の息子、ソロモンはエルサレムに神殿を建て、その領土を広げ、経済的にも豊かになり、文化の華も大きく開いたようです。歴史の中では絶頂期にあったと言えます。しかし、列王記はソロモン王を異教の神々をエルサレムに持ち込んだとして、厳しい評価をしています。
ソロモン王の後、ヒゼキヤ王やヨシヤ王が宗教改革をしたようですが、焼け石に水で、根本的な解決にはならなかったとしています。特にヨシヤ王の時には、神殿から律法の書が見つかり、それが申命記だった可能性がありますが、その律法による改革も全うすることができず、ヨシヤ王以後、まもなく国は滅んでしまいました。
荒れ野で神を信頼する訓練を受けたイスラエルでしたが、約束の地で、その豊かさの中で、しだいに神への信頼を失ってしまったという警告が申命記とヨシュア記から列王記までの歴史書に記されているのです。
5、国は滅びましたが、神の民イスラエルは、やがて捕囚の地バビロンから帰ってきました。
彼らは自らの努力で帰ってきたわけではありません。神が彼らを憐れんだからにほかなりません。もう一つ重要なことは、神がアブラハムに約束したことを守るために、彼らをもう一度神の民として用いたということです。
神の独り子イエス・キリストが彼らの子孫として地上に現れたのは、神がアブラハムに約束した御計画を守ったのであり、その約束通り実行したのです。
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