イースターおめでとうございます。主イエスのご復活を日曜ごとに祝うために集められている私たちですが、今日は改めて、私たちのための主のおよみがえりを覚える年に一度の記念日です。
しかし、今年は特に、イースターのための特別な聖書の箇所を選びませんでした。先週に引き続き、マタイによる福音書の山上の説教の続きを司式者に読んでいただきました。これも、改革派の伝統を重んじる教会らしいことだと思います。季節ごとの聖書日課を用いず、一つの書物を丹念に読んでいくという姿勢を改革派教会は大切にしてきたからです。
けれども、思いがけず、イースターにふさわしい御言葉を神が与えてくださったと信じます。今日耳を傾けました神の御言葉は、キリストの十字架と復活が私たちに与えてくださった明るい顔で生きられる私たちの根っからの自由を語る箇所であると思うからです。
悲しみと喜び、死と命、私たち人間にとって、真逆に見えるこの二つのことが、キリストのゆえに一つなぎのものになったと私たちは信じています。あるいは、こう言った方が正しいかもしれません。人間の悲しみは神の喜びにもう覆われてしまった、それが、イースターのできごと、キリストの来られた後の世界のリアルな姿ということです。
今月22日の教会総会の承認を得るまではまだ案ですけれども、本日より括弧つきで週報に記しました2018年度の主題聖句、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」もまた、同じ方向を向いた御言葉であると思います。いつも喜んでいなさいとは、私たち人間の喜びの時には、例外はないということです。私たちの全ての時が、神の喜びの時に飲み込まれてしまっている。消えない喜びが、私たちの誕生から終わりまでを、包み込んでしまっていることを前提とした神の言葉であります。それが、主イエスという方が来られて以降、新しくなってしまった私たち人間の現実です。
そのような受難と復活、レントとイースター、悲しみと喜び、絶望と希望、そのような普通は、繋がりのないものが、神のゆえに、一続きのものになったキリストのできごとが、今日与えられました主イエスのお言葉にも露わであると思うのです。
断食と、明るい顔、今朝与えられた主イエスのお言葉においては、この二つの合い入れないものが、一繋ぎのこととして語りだされるのです。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」
これは、普通ではない命令であります。
なぜかと言えば、聖書の信仰において、断食は、苦しみと悲しみの表現であったからです。たとえば、旧約に記されるダビデ王は、自分の息子が重い病にかかると、断食して泣いて神に息子の回復を祈りました。また、旧約ヨナ書においては、神による裁きの宣告を受けたニネベの町の全住民が、神の前で自分の罪を嘆き悲しみ断食したという記述があります。
私たちも悲しみと苦しみのために食事も喉を通らないという経験があるかもしれません。絶食までにならなくても、ストレスによって食欲が落ちるというのは珍しいことではありません。そのストレスの極まった所で、食べるのも忘れて悲しむということが起きる。断食は、悲しみの極みにある人間の自然な姿であると言えます。断食とは元来、神さまに自分はどんなに苦しみ悲しんでいるかを訴える深い祈りの姿であると言えます。
だからまた、断食というのは、苦難の表明であると同時に、悔い改め、神への方向転換のしるしでもありました。神の御前に今までの自分の生き方が間違っていたと認めるならば、ただ、口先だけで、それまでの自分の生き方の過ちを認めるのではなく、食事も喉を通らないほどの存在を懸けた激しい悔い改めこそが、ふさわしいと言えます。それは、洗礼者ヨハネという人が荒野に表れ、悔い改めのしるしである洗礼を授け始め、けれども、形ばかりに悔い改めを表明する者たちに向かって、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と厳しく語った言葉と一致しています。言葉と行為が一致してこそ、全存在を挙げた悔い改めになります。口でだけなら、何とでも言えるというわけです。
それゆえ、荒野に暮らし、ラクダの毛の衣を着て、イナゴと蜂蜜だけを食べていたという洗礼者ヨハネの一種の異様な風体と生き方は、まさに、存在を掛けた悔い改めた者の姿であったと言えると思います。悔い改めのために衣食住のすべてが、それまでの生活とは違ったものになったのです。このヨハネとその弟子たちにとって、断食というのは、とても大事な事柄であったようです。ヨハネは、「悔い改めよ。神の国は近づいた。」と人々に向けて叫んだ人です。天の国は近づいてきた。神という支配者が間もなくやって来られ、今までのものを取り壊し、新しい秩序を立てられることを告げたのです。そのヨハネの生き方全体は、まさに、既にある社会の常識を疑問に付し、その価値観を相対化してしまうしるしでありました。今や、彼の異様な有様こそが、最もふさわしく見えるようになる新しい何事かが起きようとしていると告げるのです。
それは、一般的な信仰深いという価値観に納まるものではなかったと思います。今、我が家では、寝る前に、ジーザスバイブルストーリーという旧約から新約までの聖書の物語を語る絵本を読みますが、最近の長女のお気に入りは、この洗礼者ヨハネの記述です。そこでは、こういう風にヨハネの姿を描きます。
「本当のことを言うと、この人ちょっと変わってた。村のみんなからずっとはなれて、ひとりで砂漠に住んでいた。らくだの毛皮でできた、チクチク、ゴワゴワした、なんとも着心地の悪そうな服を着て、顔中ひげだらけ、かみの毛はのびほうだいのもじゃもじゃ頭。それに、ごはんはイナゴとはちみつだけしか食べなかったというから、本当に変わっている。バッタの大きなイナゴを食べやすくするために、はちみつをつけたんだろうね、きっと。」
この部分を、せがまれて読むと、娘はケラケラ笑います。それで気づかされます。ヨハネの姿というのは、人に誉めてもらえる信仰深さの限度を超えてしまっているんだな。これは、ダビデ王が、種の前に飛び跳ねて踊って喜んだゆえに、奥さんからバカにされたのと同じ信仰者の姿、神様の前に泣いて泣いて祈ったために、部下たちを不安がらせたダビデ王の、人間ではなく、神様だけを相手にしている姿と同じものだということに気づかされます。それこそが、主イエスが、今日の個所を含めてその前後で、何度も、人ではなく、隠れたところを見ておられる天の父を相手にしなさいと仰ったことだと思います。人にどう思われようとも、悔い改めにふさわしい実を生活挙げて結ぶのです。
さて、主イエスというお方は、生まれ故郷のナザレから出てきて、この洗礼者ヨハネの下で、洗礼を受けた方です。その後、歴史上に残る40日間の荒野の断食を経て、この洗礼者ヨハネと全く同じ言葉によって、御自分の宣教の活動を始められた方です。
マタイ4:17に、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝えられ始めた。」とある通りです。
ところが、主イエスというお方は、洗礼者ヨハネとは違い、ご自分では40日の断食をされたにもかかわらず御自分の弟子たちに命じる方ではありませんでした。むしろ、断食に対して、当時の常識からすれば、あり得ないような距離を取られました。もしも、行いにおいてこそ、その人の信仰が見えてくると言うならば、そして、その信仰のゆえに、断食を重んじた人がいたとするならば、主イエスの信仰は、断食という形ではなく、正反対に、主イエスの作られる食卓の中にこそ見えていました。
主イエスは、本当によく食卓を囲まれました。しかも、主の食卓には、徴税人や罪人たち嫌われ者が招かれました。これを見た人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と、文句を言わずにはおれない食卓を作りました。しかし、それは主イエスにとって、どうでもよい食卓ではありませんでした。飲み食いと信仰とは関係ない、だから誰と食事を共にしようか気にしないと言われたのではありません。その罪人と共なる食卓は主イエスにとって本当に大切な食卓であったのです。そのため、主イエスの食卓を伝え聞いた人々は、そこにいつでも集められたメンバーを見て、食卓の主である主イエスを指して、「見ろ、大食いで大酒のみだ。徴税人や罪人と同じ種類の人間だ」と悪口を言うほどでありました。
ある時、洗礼者ヨハネの弟子たちが、主イエスの元を訪れ、尋ねました。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」洗礼者ヨハネの弟子たちには、そのことがとても訝しく思われました。自分の先生と同じ言葉で宣教をしているイエスというお方です。けれども、二人の作る生活には決定的な違いが生じています。ファリサイ派をはるかに凌駕する異様なまでの禁欲に生きる洗礼者ヨハネとその弟子たち、一方の主イエスと弟子たちは、人徴税人と食卓を囲むことを大切にし、「大喰らいの大酒飲み」と悪口を言われている。両者共に、普通ではない生活を始めている。でも、表れているのは真逆の姿です。
主イエスは、どう理解して良いのか戸惑う洗礼者ヨハネの弟子たちに答えました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」
ある聖書学者はこういう趣旨のことを言います。悔い改めには、生活全体の全面的転換が必要である。気持ちばかりでただ悔いているのでは価値がない。洗礼者ヨハネもそのことを語っていた。主イエスにとっても、主イエスの言葉を聞いた者の生活が変わるというのは当然のことであった。けれども、主イエスには洗礼者ヨハネと異なる点があった。主イエスにおいては、悔い改めは喜びであった。なぜなら、方向転換は、神が罪人の方に向かれることによって起こるからである。方向転換は、神の赦しから生まれるからだ。
神はわたしたち人間が作ってきた歴史を喜んではおられない。私たち人間ひとりひとりが作っている歩みを真っ直ぐなものとは思っていらっしゃらない。神は私たち人間がめちゃめちゃにしてしまった世界にあるべき秩序を決定的に回復しに来られる。神の国が来る。神が、王として、支配者として来られる。人間の生き方は全く違ったものにならなければならないのです。
けれども、世界の秩序を回復するために来られるその神は、私たちの天の父だと主イエスは語られるのです。この神の御前で、言葉を重ねて弁解しなくてよい。天の父は、祈る前からあなたがたの心をよくご存じだ。神を必死になって振り向かせようとしなくてよい。神は、あなたたちにその御顔を向けられている。そういう父が来られると仰るのです。
悔い改めというのは確かに全存在を挙げての方向転換です。今までのあり方が間違っていたことを認め、すっかり考え方も生き方を改めることです。そこには当然罪の厳しい自覚が伴います。
福音、良い知らせとしての悔い改めを求める主イエスのお言葉に従うときも、この罪の自覚は、薄れるものではありません。むしろ、山上の説教の主イエスのお言葉は、ファリサイ派、律法主義者という律法の正しさの専門家と言うべき人々の想像をはるかに超える神の正しさの聳え立つ基準を突き付けたのです。
今日の御言葉の直前の14-15節でも、主の祈りの第5の祈りを改めて説く言葉を主イエスはお語りになっています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
これと同じ言葉を、2週間前に説いた時、やはり、この祈りは難しいという声を説教後に聴きました。どうしても人を赦すことができない。赦したと思っても、赦しきれていない心がどうしても自分の内に残り続けていること、そういう自分であることを認めなければならないことに困惑していると聴きました。あの人を赦すことができたら、私の人生は本当に変わるに違いないということがよくわかっていても、そうできたら本当に良いのに、それこそが、神の真っ直ぐな御意志だと分かっていても、どうしてもできない。
人を愛しなさいと言われながら途方に暮れ、人を赦せるか?と問われ、立ち尽くし、神の問いの前に、「神よ、この私を憐れんでください」と叫ばざるを得ないのです。ここには確かな断食の心があります。神の御前において、自分が人をどんなに赦すことのできない者であるかを、徹底して悲しまざるを得ません。
主イエスのお言葉を本当に聴こうとするとき、主イエスのお言葉が私たちの心に届いてくるとき、私たちは、光に照らされて、正気になって、幻想でないリアルな自分を知ります。神の真実を、自分の真実とはできない自分、偽善者である自分です。あなたはキリスト者なのに、人を赦せないのか?あなたは、神の子なのに、神の言葉よりも、罪の思いに屈するのか?そう問われてもどうしようもない。どうにもこうにもならない。
私たちにとって、本当の断食ができるかどうかなんて、そこではもう何の意味もありません。どうにもならない自分を嘆いている。断ち切れない負の連鎖の中で、自分も隣人も、傷つける他ない自分です。そこで、ダビデでの姿と自分の姿が重なっている。洗礼者ヨハネと自分の姿が重なっている。そこに私たちの日々の有様がある。
今日の聖書を読みながら、私たちは偽善者にならないように気を付けようなどとのんびりとしたことは言ってられません。私たちの現実というのは、自分が偽善者そのものであることを嘆くほかないという地点になるのではないかと思うのです。ところが、神の喜びの外にあるような私たちのリアルな姿は、キリストにおいて神が私たちを取り扱われる基準とはなりませんでした。
キリストにおいて来られた神は、私たちの断食的状況を喜びに変えてしまわれました。神の真実をこの私の真実とはできない偽善者である私たちに、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと主イエスは、命じられるのです。あなたは、私の喜びの宴の客だと主は言われる。
頭に油をつけ、顔を洗ったものの姿とは、宴に出で行く者の晴れ姿です。ここで有名な詩編第23篇の言葉を思い出すことができます。「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。/わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」
イエス・キリストのできごとは人間の世界を越えたことです。それが人間世界からはみ出しているということは、この方において、私たちのプラスマイナスの決算報告は辻褄が合わなくなるからです。大きな大きなマイナスで決算が終わるところで、突然、わたしのための食卓が整えられるのです。
断食が、喜びに変えられる。なぜ、そうなるのか?私たちの側では、全く辻褄が合わない。しかし、断食をするときは、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと命じられた主イエスを仰ぎ見るとわかる。そこには受難を通った復活者、レントを通ったイースターの主がおられるからです。
「悔い改めよ、神の国は近づいた」と言って、キリストにおいて、この世に来られた神が、ほかの誰でもなく私たちに代わって高い代価を支払われたのです。私たちのマイナス、大きなマイナス、主イエスの命を必要とした恐るべき私たちの罪のマイナスです。けれども、その大きな大きなマイナスよりも、神は豊かであられました。私たちのマイナスは、主イエスの命を飲み尽くすことはできませんでした。そのお方は、三日目にお甦りになられました。神の御子の命の代価を必要とした私たちのマイナスであったにもかかわらず、その私たちの貧しさは神の豊かさを凌駕しなかったのです。それがレントとイースターの出来事です。
それだから、私たちはいつも喜びます。神に期待し願うことを止めません。どんな状況にあっても、感謝に至ります。
私たちの悲しみ、私たちの絶望は、キリストにおいて神に引き受けられ、キリストの命に飲み尽くされてしまったからです。
それは、私たちが生まれるずっと前、2000年前にもう決着がついてしまったことであり、負の連鎖を隣人と自分自身にもたらすどうにもならない自分は、もう、支払いを終え、神の食卓に着いているのです。この食卓で、この神の御前で、なお、流れる涙があればそれを流し、なお、自らの心に責められるべきところがあれば、責め続ければ良いのです。しかし、もう、宴の扉の外にはいない。どんなに自分が、この宴にふさわしくなく、あるいは準備が整っていない部外者であると思っても、神のほうが方向転換をし、あなたの所にやって来られ、食卓を整え、あなたの頭に香油を注がれたのです。だから、あなたのいるのは、宴の外ではなく内側です。これはもう、2000年前に、主イエスの十字架と復活において実現されたこと、手配の済んだことです。悔い改めて洗礼を受けるということは、私の愛する神学者バルトという人の言葉でいえば、「単純に悪い眠りから目を覚ますということ」です。悪い眠りから目を覚まして自分がいるところを発見すること、自分は故郷から遠く離れた豚小屋にいるのではなく、父の家の中にいることに気づくことです。
今から聖餐を祝います。この一年、聖餐の度に聞いてきた招きの言葉があったことにお気付きでしょうか?詩編34:6以下のお言葉です。
「主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。/この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。/主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。/味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」
この食卓は、私たちのために主が整えてくださった目に見える食卓です。今ここで、主は私たちの頭に油を注がれ、顔を洗ってくださると信じるのです。そのようにして主を仰ぎ見る私たちの顔を主は輝かせてくださるのです。ここで主の恵み深さを味わうのです。神の霊に連れ帰られ、キリストが整えてくださった食卓へと、この罪人を迎え入れてくださった父の家に、私たちは生涯留まるのです。
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