10月27日(日)主日礼拝 エレミヤ書31章31節~34節 ヘブライ人への手紙8章6節~8節 松原 望 牧師
エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
ヘブライ人への手紙8章6~8節
6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。
「 説教 」
序、
聖書において「契約」という言葉はとても重要で、この言葉が数多く使われていることもその重要性を示しています。聖書を区分している旧約聖書、新約聖書という言い方も、「旧い契約」「新しい契約」という意味で、同じように「契約」ということの重要性を示しています。
契約ということで特に重要なのが、出エジプト記24章に出てくる契約です。この契約により、イスラエルの民は「神の民」になったからです。
その時の状況を振り返ってみると、まず、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民のもとへ神がモーセを遣わし、エジプトから脱出させました。エジプトを出たイスラエルの民はシナイ山で十戒を授けられ、神の民となる契約を結んだのです。これが先ほど申し上げた出エジプト記24章に出てくる契約です。その時、モーセは動物の血を器に取って、半分を祭壇に注ぎました。その後、契約の書を読み上げて、人々は「主なる神が語られることをすべて行い、守る」と誓約しました。そこで、器に残っている動物の血を人々に振りかけ、「この血は、主なる神がこれらの言葉に基づいてあなたがたと結ばれた契約の血である」と宣言したのです。
この時用いられた血には、命という意味があります。すなわち、この時結ばれた契約には、命を懸けて契約を守るという責任があることを意味しているのです。先ほど司式者に読んでいただいたエレミヤ書31章32節の「彼らはこの契約を破った」というのは、この命を懸けて守ると約束した誓いを破ったということです。
1、神がイスラエルの民を神の民に選んだ意図
そもそも神がイスラエルの民を神の民に選び、契約を結んだのには、はるか以前からの計画がありました。
創世記3章から11章にかけて人間が罪を犯し、その罪の重荷と悲惨な状態から救おうと神が計画を立て実行し始めました。それが創世記12章に記されているアブラハムの選びです。神はアブラハムの子孫を通して、地上のすべての人々を救う計画を立てたのです。
すべての人々を救う神を証し、伝えるためにアブラハムとその子孫は選ばれたのです。そしてその使命を彼らが遂行することができるようにと、彼らを祝福し、保護する保証をも与えました。
後に、エジプトで奴隷になったアブラハムの子孫、すなわちイスラエルの民は、モーセを遣わした神によって救い出され、そして、正式に神の民となる契約を結び、その使命遂行のため、以前から約束されていたパレスチナへ移り住むことになりました。この間も、イスラエルの民は、神に何度も背きましたが、神は彼らに繰り返し警告を与え、忍耐強く導いていきました。イスラエルの民は、神からの祝福を受け、王国を建設し、エルサレムに神殿を建てるまでに成長していきます。その一方で、彼らの神への裏切りは繰り返され、そのエルサレムの町で異教の祭儀が行われるようになり、神はこれを厳しく警告し続けました。
聖書が告げるイスラエルの民の歴史は、神の彼らへの祝福を綴った歴史でしたが、それと同時に、その神に背くイスラエルの民の罪を綴ってもいるのです。
2、神の民イスラエルの罪
まず第一には、異教の神々を王国内、特に神殿があるエルサレムの町に持ち込み、異教の祭儀が行われるようになったことです。これは十戒の最初にある「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」という第一の戒めに背くことです。
第二に、神に背いた結果、イスラエルの人々の社会において不法がまかり通っていきました。預言者アモスが「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス書5章24節)と警告したにもかかわらず、「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」(イザヤ5:7)と預言者イザヤをとおして、神は嘆いておられます。他にイザヤ10:1~2。
第三に、神に仕える祭司たちが私腹を肥やしていました。(サムエル上2:12以下、8:1以下、ホセア4:4~10)
第四に、王や人々を惑わす偽りの預言者が存在し、イスラエルの民が神の御心からどんどん遠ざかっているにもかかわらず、「神に守られている」「平安、平安」と偽りの預言をし続けました。(イザヤ28:7、エレミヤ8:11、ミカ3:5~7など)
イスラエルの民の罪を数え上げれば、きりがありません。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
神はイスラエルの民に二つのことを告げていました。それは、アブラハムの時にすでに告げていたことでした。第一は、神はイスラエルの民を祝福するということ、第二は、イスラエルの民は地上のすべての人々に神の救いと祝福を伝えるという使命です。
この第二については、預言者エレミヤを通して「『立ち帰れ、イスラエルよ』と、主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。』もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(エレミヤ4:1~2)と言われています。
また、預言者イザヤも「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(イザヤ43:21)と神の御言葉を伝えています。
すなわち、全ての人々に神の救いと祝福の計画を伝えることがイスラエルの民に与えられた使命であり、そのために彼らは選ばれたのです。そして、その使命を遂行するために、神はまずイスラエルの民を祝福し、守り、導かれたのです。イスラエルの民への祝福は、使命を遂行するための保護を目的としたものでした。
祝福するという目的のための手段は、目的そのものと考えるようになったイスラエルの民
しかしイスラエルの民は、自分たちが祝福されているということだけに目を留め、神の祝福をすべての人々に伝えていくという使命を忘れていったのです。それは地上のすべての人々を救うという神の計画を台無しにするものでした。そこに、彼らの罪があるのです。
3、預言者たちの警告
- 全ての民を神の祝福へと導く使命を思い起こせとの警告
預言者は、神に立ち帰れと警告し、全ての民を神の祝福へと導く使命を思い起こせと告げています。
エレミヤ4:1~2「『立ち帰れ、イスラエル』と、主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。』もし、あなたが真実と公平と正義をもって、「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」
- 神殿に対する間違った信頼への警告
また、預言者はまことの信仰を失いながら、誤った安心感に浸っていると警告しています。
エレミヤ7:4「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」
エレミヤ7:9~11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」
神殿は神がイスラエルの民と共におられることを示す象徴でした。しかし、イスラエルの民が異教の神々を拝み、自分たちを守り導いてきてくださった神から遠ざかっています。神に背いているにも関わらず、神殿があるから神は自分たちを守ってくれると誤った安心感に浸っていたのです。もはや、神殿は神が共にいてくださるしるし、保証ではなく、単なる迷信に陥ってしまっていたのです。
ですから、預言者たち、とくにエレミヤをとおして、神は神殿を自ら破壊すると宣言したのです。(エレミヤ7:14、26章)
4、契約は破られたとの宣言
預言者エレミヤは、神との契約は破られたと宣言しました。これは、エレミヤ個人の見解ではありません。神がエレミヤを通して告げた宣言です。
エレミヤ11:10「彼らは昔、先祖が犯した罪に戻り、わたしの言葉に聞き従うことを拒み、他の神々に従ってそれらを礼拝している。こうしてイスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖と結んだ契約を破った。」
エレミヤ31:32「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」
神の契約は破られたという宣言の後も、なお、神は地上のすべての人々を救う計画を捨ててはいません。モーセを通して結ばれた契約に代わる新しい契約の約束をします。それが、エレミヤ書31章31~34節です。
5、新しい契約の約束
新しい契約の約束によって、神は地上のすべての人々を救う計画を捨ててはいないことを示しています。
この契約は、イスラエルの民のためだけでなく、地上のすべての人々のために神が必要と決断し、その実行にとりかかっておられるということです。そもそも、神との契約は、神からの恵みよって与えられるものであって、人間の要求によるものでありません。たとえ、要求したとしても、それは与えられるはずもありません。最初のモーセを通しての契約も神の恵みによるのであって、イスラエルの民が何か良い働きをした結果ということではありませんでした。エレミヤの「契約は破られた」という預言を、彼らは聞こうとも受け入れようともしませんでした。しかし、彼らが受け入れる受け入れないに関わらず、彼らが神に背き、神の「契約はあなたがたによって破られた」という宣言は、翻しようのない現実です。
とは言え、イスラエルの民にとっても、新しい契約の約束は、喜ばしいものです。ただ、新しい契約が結ばれる時は、神の独り子イエス・キリストの到来を待たねばなりませんでした。
6、新しい契約の成就
新しい契約については、今日司式者に読んでいただいたヘブライ人への手紙8章6~8節に記されています。
新しい契約は主イエス・キリストの到来、特にキリストの十字架の出来事によって成就しました。主イエス・キリストは十字架にかかる前の夜、弟子たちにそのことを予告し、使徒パウロはそれをコリントの信徒への手紙の中に記しています。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:24~26)と宣言されました。
ここで言われている「キリストの肉」、「キリストの血」とは、十字架にかかられたキリストを指しています。これが新しい契約であるというのです。
7、キリストの名による洗礼は、神との新しい契約関係に入る事
ローマ書6章には、キリストの名による洗礼を受けることは「キリストに結ばれる洗礼」を受けたことなのだとあります。それは、キリストの死にあずかる洗礼を受けたことなので、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされたのだと告げています。
新しい契約に生きる者とされた私たちには、イスラエルの民と同じように、神の祝福を受け、保護されています。それと同時に、新しい神の民とされた私たちは、神の民としての使命を与えられているのです。それがマタイ福音書28章18~20節の「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉であり、使徒言行録の1章8節の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という言葉です。
神は、罪深き私たちを救ってくださるとともに、光栄ある神の計画に参与するという恵みにもあずからせてくださったのです。私たちに「一人でやり遂げよ」と言われてはいません。私たちを送り出してくださる神が、いつも共にいてくださり、その使命を果たすに必要な守りと導きを与えてくださっているのです。その神を仰ぎ見つつ、従っていきたいと思います。
コメント