我々と共におられる神

マタイ1:18-25

 先週から私たちは、マタイによる福音書をはじめから聞き始めましたが、夏を間近に控えたこの梅雨の時期に、イエス・キリストの御降誕にまつわる物語を、数週に渡り聞いていくのは、少々季節外れと感じるかもしれません。特に本日の聖書個所と、次回の占星術の学者が幼子主イエスの元を訪れる記述は、クリスマスに聞く聖書個所とするのが一番ぴったりくるものかもしれません。

 けれども、こんな時に、私が思い出すのは、以前、何度か行ったことのある栃木県日光市にあります「オリーブの里」という修養会や夏期学校にも使えるクリスチャンによるクリスチャンのための宿泊施設の近くに、「毎日クリスマス」という名前の老人ホームがあったことです。

 これは、オリーブの里には直接関係がなく、たまたま近くにある施設ですが、面白い名前だと思いました。そして、一度聴いたら忘れられないほどに印象深い「毎日クリスマス」という言葉が、ずっと頭の中に浮かんだり、沈んだりしながら、やがて、なるほどそうかもしれないという深い思いに誘われました。

 私たちの日々は、クリスマスに起きた出来事によって、決定づけられたものになっている。それは実に、御子イエス・キリストの誕生を語る今日の聖書個所が、まさに、23節を目指しているものであることによって、確かに毎日クリスマスなのだと言えると思うのです。

 今日の聖書の記述が目指す中心点である23節の言葉はこうです。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』/この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 マタイによる福音書は、イエスというお方がお生まれになったことが、私たち人間にとって何を意味するかをこのように語ります。インマヌエル、翻訳すれば、「神は我々と共におられる」と。

 今から80年前、橋本鑑という牧師がいました。浄土真宗親鸞聖人の称名念仏を他山の石として、自らのキリスト信仰においても、ごく短い言葉で、聖書66巻の信仰を要約し、神のお名前をひたすら呼ぶ福音の称名の可能性と必然性を模索したユニークな牧師です。早くして亡くなり、日本の神学会からも教会からもたいへん惜しまれた人物ですが、その橋本が私たちが繰り返し繰り返し、唇に上らせ、そのことによって、私たちの体と魂の全存在にすっかり刻み付けてしまうべき福音の一語として選んだのが、まさに、今日共に聞きました聖書に出てくるイエス・キリストの名を語る一語、「インマヌエル」でした。

 インマヌエル、神我らと共にいます。インマヌエル、罪人なる我らと共に神がいます。インマヌエル。

 さらに、この一語に、橋本は、アーメン、「その通りです。真実です。」という聖書の告白の言葉を付け足して、「インマヌエル・アーメン!」「神はわれらと共におられる。その通りです。」と、これこそが、旧新約聖書の全内容を一言の下に言い表すものだと言いました。

 橋本自身はまさに称名念仏のごとく、これを木魚を叩きながら唱え続けたようですが、そうでなくても、工場で働く者は、ハンマーで金床を叩きながら、事務員はペンの後ろで机を叩きながら、あるいは何も叩かなくても、心の中で、唱えればよいと言いました。止むを得ない事情で教会に行けない時も、病床で、職場で、家庭で、街頭で、寝ていても、起きていても、このインマヌエル・アーメンが唱えられるところには、教会の延長があるのだと言いました。 

 つまり、私たちに語られる神の言葉、私たちが伝えるべき神の言葉、教会を教会たらしめる神の言葉と、その神の言葉が指し示している神が人間にもたらしてくださった最大の恵みとは、このインマヌエル・アーメン、「神我らと共にいます。」ということだと言うのです。

 これは全くマタイによる福音書に沿って、私たちの信仰の要約として、ふさわしい理解であると言えます。マタイによる福音書は、その全体において、大きな枠組み構造を持っていて、それがまさに、「インマヌエル」の言葉なのです。

 すなわち、福音書の冒頭に属する本日の個所において、イエス・キリストというお方を、「神は我々と共におられる」ことを意味する存在であると語り、また、その福音書のほとんど真ん中に位置する、18:20において、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」と、この方が、その名によって集まる者といつでも共におられる神であることを約束する言葉が語られ、また、この福音書の最後の言葉である28:20では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されているのです。

 マタイによる福音書の初めと真ん中と、終わりに、「インマヌエル」のモチーフが現れ、そして、その約束は、「世の終わりまで」というオープンエンドの言葉によって、私たちの生きるこの時代にまで延長されているのです。イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事から今に至るまで、インマヌエルが消えてしまったことはないのです。この世界はインマヌエルの約束の中にあり続けます。

 それゆえ、毎日クリスマスというのは、クリスマスの出来事が、「神は我々と共におられる」というキリストにおける神の出来事の決定的な、隠れようのない事実の始まりであるという意味において、ユーモアのある奇抜な表現でありながら、真実を衝く言葉であると思うのです。

 インマヌエルという言葉を私たちは、毎日聞いて良いのです。この約束を毎日確信して良いのです。「神は我々と共におられる」。昨日も今日も明日も、「神は我々と共におられる」。

 今日共に聞いている聖書の言葉は、普通はクリスマスにこそ、ふさわしいと感じられる聖書個所だと話し始めて、毎日聞くべき言葉だと、ここまで聞いてきました。けれども、実は、クリスマスにおいても、どちらかと言えば、陽の当たらない方の聖書個所かもしれないということをも、ここで合わせて考えてみる必要があるかもしれません。

 教会学校に関わったことのある方や、教会員の方、あるいはミッションスクールの関係者の方は、おそらく、ページェントというクリスマス劇に親しみを持っておられることと思います。このクリスマスページェントは、マタイによる福音書とルカによる福音書が記録する主イエス・キリストの誕生の出来事を、両方の福音書から抜き出して、二つを一つに合わせて、構成されていることがほとんどであると思います。しかし、その中で、最初の受胎告知の場面は、ほとんどの場合、マタイからではなく、ルカから採られています。ページェントではたいてい、今日の記事は割愛されています。つまり、マリアが主役の受胎告知です。

 ところが、マタイによる福音書では、マリアに天使ガブリエルが現れたという記事はなく、ヨセフの夢に天使が現れたと語るのです。なぜ、ページェントでは多くの場合、ヨセフへの受胎告知が割愛され、マリアのものだけが取り上げられるのか?それは、物語があまり劇的なものではないからかもしれません。

 マタイにおけるイエス・キリストの誕生の情景は次のように描かれます。すなわち、婚約者マリアが婚礼の前に妊娠していることが明らかになった時、ヨセフは正しい人であったので、このことが表沙汰になってフィアンセのマリアが晒し者になり、罰を受けることを好みませんでした。そこで、ひそかに縁を切ろうと決心しました。ヨセフがひそかに縁を切ろうとしたのは、自分が恥を掻くことを恐れたからではありませんでした。マリアの為でした。当時、正式な裁判を経るならば、婚約中の女性が、婚約中の男以外の子を孕むことは、死罪に当たるものでした。それだけ、ユダヤの人々は、婚姻関係を重んじていたと言えます。婚約中も、ほとんど、法的には結婚と同等の責任をお互いに対して負ったと言います。婚約中に一方が死ぬと、わざわざ離縁状を出さなければその関係が解消できなかったほどだと言います。それゆえ、結婚の外で、あるいは婚約の外で、子を宿したマリアは、ヨハネによる福音書第8章で、姦淫の現場を捕えられ、石打刑にすべきかどうかと人びとの前に引き立てられ晒し者にされた女性と同じ立場に置かれる可能性があったことを示唆しています。

 けれども、ヨセフは正しい人であったので、それを望まなかったと言います。このヨセフの正しさは、注目に値する正しさであると言えます。ここで言う正しさは、律法への文字通りの忠実さとは到底言えるものではありません。神の律法に従うならば、罪を犯した証拠をお腹に抱えたマリアを告発すべきであったかもしれません。けれども、ヨセフはそれをしませんでした。これは主イエスの口を通して、4つの福音書中唯一、「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と述べ、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、前進が地獄に投げ込まれない方がましである」と語るマタイによる福音書の、徹底した律法重視の姿勢においてよく考えて見なければならないヨセフへの評価であると思います。

 マリアが、律法に従って裁かれることを回避したヨセフをこの福音書は正しい人の正しい行為だと見ているのです。これはたとえば、ホセア書6:6の「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」と語った預言者の理解を反映しているものと思われます。

 ある意味では、これは人間による最大の憐みの行為であったと言えます。読者にとっては周知の事実であるマリアは聖霊によって身ごもったのだという事実をいまだ知らされていないヨセフにとっては、このことに勝る憐みの行為はなかったのだと思います。マリアを離縁するならば、そして彼女に姦淫の罪を負わせないと決断するならば、別れた後に、おなかの大きくなっていくマリアを見て人々は噂することでしょう。「何があって別れたか知らないけれど、どうやらヨセフはひどい男らしい。婚礼を挙げる前に、マリアを妊娠させた挙句、ポイと捨てたんだ。あいつは正しい人間だと思っていたけど、人は見かけによらないものだ。」もしも、ヨセフが、マリアを守るために、ひそかに離縁したならば、当然、ヨセフは、このような判断を黙って受け入れなければならなかったことでしょう。これは真に信仰者らしい決断であると言えると思います。

 ところが、ひそかにマリアと縁を切ろうと心に決めたヨセフは夢を見ました。天使が現れ、こう言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのです。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 この夢での天使のお告げを受けたヨセフは、24節、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付け」ました。

 ルカのによる福音書の受胎告知では、天使ガブリエルは、起きているマリアに直接現れました。けれども、マタイによる福音書におけるヨセフへの受胎告知は、夢での出来事でした。もちろん、聖書において夢はしばしば重要な役割を果たし、しばしば主なる神が私たち人間に語り掛ける際の一つの手段として用いられるといった描写があります。

 けれども、それはあくまでも夢です。その夢をどう受け止めるかは、夢を見た者の解釈一つに委ねられているとも言いえるかもしれません。その意味ではやはり、ルカによる福音書の受胎告知の物語に比べると、マタイの受胎告知の物語は、人に訴え、説得する力が弱いかもしれません。だからこそ、ページェントに採用されるような劇的な場面としては扱われにくいのかもしれません。

 しかし、またこうも言ことができるかもしれません。夢というのは、基本的には私たちの自由にできる範囲を超える人間の最も原初的な願いが反映される場であると言えます。それは私たちが、現代心理学において深く教えられてきた、もはや常識に属することです。一人の人の本当の思い、真実の思いというのは、その人から直接その気持ちを聞くよりも、夢を分析することによってこそ、明らかになるとさえ言われるのです。

 だから、どんなに一人の人が意識的に良い正しい人間であろうとしても、夢には隠し切れない負の感情というものが、露になってしまうことがあり得ます。口と行動では赦したと言っても、どうしても赦すことのできないこれは自分の意識を超えた無意識レベルの怒りや、憎しみが消し切ることなく夢という形で噴出してしまうということがあります。

 私たちは正直に考えて、やはり、ヨセフは相当無理をして、我慢の上に我慢を重ねて、マリアに対処しようとしていたと想像せざるを得ません。もしも、今日の聖書個所に天使の夢を見たという記述がなかったとするならば、私たちの想像は、ただ破れた愛を前にした人間の深い苦しみと痛みに向かうより他ありません。ヨセフの心は、どんなに深く苦しみ、また、どんなに悲しくマリアのことを眺めただろうかと。

 ヨセフが内心は悪い者であったというのではありません。彼が正しい人間であり、また、婚約者マリアのことをよほど大切に思い、彼女が厳しく裁かれるのを望まなかった人間であるからこそ、彼の内心はどれほど、深く苦しみで満たされていたことだろうと想像するのです。そんな彼の誰にも見られることなく、誰にも悟られることのない夢は、どんなに残酷で暗いものであったとしても、少しも不思議ではないし、それは彼の心の、誰にも見せられない秘密の小部屋に属するものだろうと思うのです。しかも、私たちはまた、私たちが想像するような仕方ないと思うヨセフの心の底での動きを、それでもやはり、その心を私たち人間をどうしようもなく捕らえている罪と名付けざるを得ないのではないかと思うのです。ところが、そのヨセフの最も深い人間の意志によっては制御しがたい深い所に主の使いはやって来て、神の言葉を届けるのです。

「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」すなわち、「その子の父親となりなさい。

 これは、全て、ヨセフの夢において起こった出来事です。そして、それは実体のない場所という意味での夢ではなくて、ヨセフの心の最も深い場所で起きた出来事であるという意味があるのだと思います。誰にも言えない誰にも見せられない私達人間の心の一隅に神が来られ、そこでヨセフとお会いになり、目に見える世界の裏にある神のまなざしにおける真実の世界の姿が告げられ、神がご自分の大きな大きな御計画の中にヨセフを招かれるのです。

 今日一人の方が洗礼を受けられます。洗礼を受けるとは、御自分ではまだぴんと来ないことがあるかもしれませんが、神にお会いして頂いたから、洗礼を受けるのです。神が来られ、私たちに会ってくださり、私たちの生ける主であることをお示しになったから、その願いが起こされたのです。その意味で、洗礼を受ける誰もが神にお会いした者だと言えます。

 私は、鎌倉雪ノ下教会で、洗礼とは、正確に表現すれば、洗礼入会式と言わなければならないということを丁寧に教えられてきました。すなわち、ただ一人で信仰者となるのではなくて、教会という群れに加えられる式だといういうことを正確に言い表しているのです。今日、洗礼を受けられる方は既にそのことを身をもって経験されていることと思います。

 ただお独りで、この洗礼入会式に至るまでの信仰の歩みを続けて来られたのではありません。聖書の分かち合いのグループに入り、信仰の友に支えられながら、励まされながら、今日という日を迎えられたのです。その意味で、信仰とは、個人の事柄ではなく、共同体に関わるものだということが良くお分かりだと思います。私たちの主の日の礼拝のことを公同の礼拝、公の礼拝と言うように、信仰とは、最も公のことであるのです。

 けれども、同時に、私たちは次のことも受け止めておく必要があります。神が私たちにお会いになられるのは、私たちの最も深く暗いところでもあるということです。誰にも見せられない誰にも言えない心の小部屋に神は、入って来られるということです。主は、深い悲しみや憎しみや恐れや不安や、そんな負の感情でいっぱいであるかもしれない私たちの心の暗闇にまで来られる。そして、そこで何を告げられるのか?インマヌエルを告げられるのです。

 教会の仲間にも見せることのできない暗い部分をまして神にお見せできるだろうかと思いに誘われることがあるかもしれません。しかし、神は私たちの無意識に属する原初の獣のような心の底にまで来られるのです。私たちの存在の最も深いその所で、インマヌエル、神は我々と共におられるという出来事が起こるのです。

 しかも、私たちはヨセフの物語を通して知ります。私たちの心の底で私たちに出会われる神は、私たちの意思によって、なんとか作り出した正しさをやすやすと乗り越えて、もっと憐み深いことを私達に行わせるのです。心の底で起きた神との出会いが、人間の歴史を変えてしまったのです。本当に危ういことだと思いながら、しかし、本当に光栄なことに、神は人間ヨセフを用いて、ご自身の大きな計画を進められたのです。

 マリアの母の胎に宿った子は、自分の民を罪から救う方です。イエスというお名前は、「主は救い」という意味があります。これもまた非常に大切なポイントでありながら、今日はもはやタイムリミットが来ていて、これ以上深く掘り下げることはできません。ただ一言だけ申します。

 これはまさにヨセフ自身の身に起きたことであり、私たちが、洗礼を受けるように導かれた時以来、私たちの内に起きていることではないでしょうか?

 最初にご紹介しました橋本鑑は言いました。旧新約聖書全体の要約は、「インマヌエル、神われらと共に!」「インマヌエル、神われら罪人たちと共に!」だと。「われら」とはただの「われら」ではありません。罪人である「われら」です。

 同じ一つの約束で囲われたこのマタイによる福音書の終わりは、このインマヌエルの約束を世の終わりまでという時間の広がりの中で語るとすれば、この福音書の冒頭のヨセフの物語に語られたインマヌエルの約束は、その夢において、すなわち、その深さにおいて、しかも、一人の人間の悲惨と罪の深さの中で語られた約束であると言えます。その約束は広く深いのです。つまり、私たちがもう、この約束から漏れることはないのです。だから、私たちは安心して生きることができるのです。

 「インマヌエル、神はわれら罪人と共にいます」この幸いな約束の中に、私たちは、私たちの存在の底の底から、また、この命が果てるまで、いやその死の後も世の終わりまで、完全に入れられ、歩んでいくのです。

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