エフェソの信徒への手紙4:7-16
今日与えられました聖書の御言葉は、私達は未熟なままではなく、必ず成熟する、私達は、キリストの満ちあふれる豊かさに達すると言います。このような私達の成熟が具体的にどのようなものであるのか、エフェソの信徒への手紙は様々な具体的な姿を描きますが、一言で言い表すならば、たとえば32節を、読んで見れば、はっきりとわかります。この私達の愛が、キリストが十字架で私達に示された愛に達するようになる。それは、キリストが私達にそうしてくださったように、隣人を赦すことができるようになると言います。
確かに、私たちは、齢を重ねて行くことによって、熟練していくこともあります。苦手な人と上手くやって行く方法を身につけたり、人前では、感情の赴くままに振る舞わないなどという作法を身に着けて行くでしょうし、欠けの多い自分と表面上は折り合いをつけることにも馴れていくことでしょう。しかし、同時に、いよいよねじ曲がって行き、自分を支配し続ける悪癖、頑固さ、忍耐のなさというものに、翻弄されたりするという部分もある、それが人間ではないかと思います。そのような私たちですから、今日の聖書が語る、父なる神さまを信じる者は、やがて、あのイエス・キリストというお方の満ちあふれる豊かさに達するということを、俄かには信じがたい気がいたします。
しかし、例外はないと聖書は語ります。13節に、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」と書いてあります。「わたしたちは皆」とあります。皆、成熟した人間になるというのです。キリストご自身の豊かさに皆、到達するというのです。このパウロの確信は、第4章の7節~10節において、主イエス・キリストの地上への降誕と、昇天の出来事に根拠が置かれています。今日は予告よりも少し長く聖書を司式者に読んで頂きましたが、私たち皆がキリストの成熟に達することができる根拠が、ここを含めて読むことによってはっきりすると思ったからです。
イエス・キリストというお方はなぜ、地上に来られたか、このお方が何故、死んで陰府に降り、三日目に復活された後、天に昇られたか?その理由は、誰もこの方の恵みから漏れることのないためであると語られています。10節で、「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」と語られています。なぜ、「私たちは皆、キリストの豊かさまで成熟する」とはっきり言うことができるかと言えば、天に昇られたキリストは、地に降りてきてくださった方でもあるからです。私たち捕らわれ人を引き上げるためだと言われています。「自分は地に住む人間であり、延ばすべき良いところは備わっていない」と嘆く者たちに賜物を分け与えてくださるのだと言われています。
この御言葉によると、私たちが成熟するのは、自分の中に元々備わっている良さを伸ばしていくことによるのでは全くありません。だからこそ、キリストの成熟まで達することができます。キリストが下さるものによってのみ、成熟するからです。ですから、私たちは、自分の内側を覗き込んだ時に感じる絶望や諦めに留まったままではありません。自分の有様を顧みて、自分は、このように成熟し、キリストのような愛に生きることができない、無理そうだと、自分のことをカッコに括る必要はありません。誰よりも深い陰府に降られ、誰よりも高い神の右の座に着かれたキリストの、訪れなかった場所がないからです。キリストは、私たちの元をも訪れ、御自身の元に迎え入れてくださいました。
私達は、キリストのように人を赦すことができるようになり、人を愛することができるようになります。それが聖書の約束です。そして、エフェソの信徒への手紙を読み進めて行くならば、この成長は非常に具体的な日常の生活に関わることだということが分かってきます。いちいちどこと挙げることはしませんが、エフェソの信徒への手紙が、私達に語るキリストに結ばれた者の新しい生き方とは、日をまたいで怒りを持ちこさない生き方、悪い言葉を口に出さない生き方、自分の夫に仕える生き方、妻をキリストのように愛する生き方など、私たちが生きている日々の具体的なことです。
神は、どのように私たちを成熟させて下さるのか?その道筋は、11節以下に記されています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体に造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの豊かさになるまで成長するのです。」
11節に記された使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師という職務は、お気づきのように御言葉を語る者のことです。原語では、ハッキリとしていますが、この人たちは、キリストが、私達に与えたものだと書いてあります。このような人々をお与えになった目的は、聖なる者たちを奉仕に適した者とするためと語られています。「適した者とする」という言葉は、「完全な者にする」というのが、元の意味です。「成熟した人間」という言葉と響きあう言葉です。キリストが私達の内に備わったものではない、私達を完成・成熟に至らせるキリストからの贈り物は、御言葉を通じて与えられるということだと思います。だから聖書が大切です。説教が大切なものとなります。御言葉が、未熟な私達を完全な者に整えると御言葉自身が約束しているからです。
具体的には、御言葉の役者達の働きによって、私達の信仰と知識が整えられていきます。皆が信仰と知識において一つとなります。信仰だけではなく、また、知識だけでもありません。ここでは、信仰と知識の二つが挙げられています。しかし、この二つのものは別々のものではなく、御言葉の役者の働きは、私達の神の子、イエス・キリストに対する信仰と知識を一つのものとするために用いられます。
私はこのことはとても大切なことであると思います。ここで言う信仰とは、信頼と言い換えるとよりわかりやすいかもしれません。つまり、説教とは、イエス・キリストを紹介する言葉だと言われますが、説教によって、イエス・キリストを紹介される時、その紹介によって、この方のことを知れば知るほど、この方を愛し、信頼するようになるのです。主イエスがどのようなお方として私たちと今共にいてくださるのか?主イエスは、今、私たちに何をしてくださっているのか?説教によって紹介されましたこの生けるキリストを知れば知るほど、このお方に対する私達の愛と信頼は深まっていきます。パウロはそのようにキリストを知り、そして、より深くキリストを信頼するようになった者を成熟した人間と呼んでいます。
ここで私たちがだんだんと感じてくることは、成熟した人間、完全な人間とは、自分の足で一人立つことのできる人間のことではないのではないかということではないでしょうか。神が御言葉を通して、私たちを整えようとされている成熟とは、独立独歩の人間になることではなくて、キリストに信頼しきっている人間のことだと思います。自分の足で建てる。自分で何でもできる。パウロはそのような成熟を語りません。キリスト者の成熟とは、いよいよ自分の業を離れ、神をより頼むことです。だから、それは、この世における成熟の概念の真反対かもしれません。
それゆえ、キリストが御言葉によって整えて下さるわたしたちの成熟とは、キリストが乳飲み子を指して、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と仰ったことと、まるで同じことであることが分かります。幼い子ども、乳飲み子が、自力ではなく親に生かされているように、神様に頼り切って生かされるということ、神の幼子となること、それが私たちの成熟です。
だから、私たちが成熟していくためには、エフェソの信徒への手紙が語っている、善い業、正しい生き方を聞いた時に、その言葉に、尻込みし、一生かかっても自分はそういう人間にはなれそうにないと、がっかりしている方がむしろ良いと思うのです。それだからこそ、自分ではなく、神様に頼ることになるからです。ふさわしくない者を、神は愛してくださいました。神はキリストにおいて尻込みする者、自信のない者に向かって、「もう、あなた達の罪は、全部、贖った」と仰って下さいます。「あなたたちは、キリストの命に生かされる新しい者だ」と仰ってくださいます。それが、私たちの新しいアイデンティティであり、このキリストにある神の恵みの言葉が、私たちを必ず成長させるのです。
私たち人間の成長と成熟に関して、これ以外の人間の知恵を私たちは、必要としません。人間の評価は真に風のように移ろいやすいものです。今日私を高く評価してくれた者が、明日は、批判の言葉を語りだすかもしれません。人だけではなく、私たち自身の自己評価も同じです。他人と比べて安心してみたり、劣等感を覚えたり、自分は成熟していると思ったり、未熟だと思ったり、そういうあやふやな所で一喜一憂して生きなければならないのではありません。神の赦しの言葉と、その愛のまなざしにおいて、私たちは、成熟の土台を得ます。
この神の言葉を聴き続けるならば、キリストにある神さまの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るならば、必ず信頼が生まれます。握りしめていたどうしようもない自分の力を手放すことができるようにさせられていくでしょう。そして、私達に代わって、キリストが私の人生を引き受けて、私たちを先導して生き始めてくださいます。そのように神に頼り切る私達が、どんなに無力でちっぽけな者であったとしても、キリストの豊かさまで成長していくことは、当然のことです。キリストが私たちに代わって、私の命を生き始めてくださるからです。
そのような私たちは、15節に語られるように、愛に根ざした真理を語るようになるのだと思います。人の悪いところ、欠点を数え上げて裁くのではなくて、私達を今生かしてくださっているキリストの赦しを、隣人にも語るようになるのだと思います。実を言えば、それは既に、私たちがキリストにしていただいていることです。この身で経験していることです。その私たちを赦し愛すキリストの赦しと愛が、私たちを超えて、必ず溢れ出していくのです。それこそが、愛に根差した真理を語る私たちの新しい生き方です。神に生かされる私たちが、今度は、人を生かすのです。
最後になお、驚きをもって気付かされることは、この成熟の約束は、教会への約束、つまり共同体への約束だということです。12節に、「キリストの体を造りあげてゆき」とありました。16節にも、「体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく」とありました。つまり、13節、14節の語る人間の未熟、成熟とは、一人の個人としての人間の成長ではなくて、キリストを頭とした信仰者共同体が問題となっていることがわかります。
そして、そのことに気付くとき、私たちは、私たち自身に対する新しい洞察も得ることになると思います。やがて、頭であるキリストの成熟度へと達していくキリストの体である教会、それは私たちの近共同体のことでありますが、この教会の群れは、たとえ、それが、終わりの日の成熟に未だ達していないとしても、既に、キリストの体なのです。その群れが、やがては、キリストに似た者に、その身の丈に到達するほどに、神が育ててくださるということは、約束であり、すなわち将来のこととして語られながらも、それにも関わらず信仰者の群れである教会は、既に、何の留保もなく、キリストの体とここでも呼ばれています。そして、そのことを私たちは既に信じています。自分がキリストのような人間とはかけ離れた未熟な者だと思っていても、その自分が既に、キリストの体と呼ばれている教会に結びあわされていることを知っています。
パウロが度々語ったことでありますが、私達が神に見つけ出され、教会に招かれ、教会に組み入れられました。そして、その神の思いを知り、洗礼を受けたキリスト者たちが、はっきりと教えられていることは、どんなに未熟な私達であっても「私たちは、実はもう既に、キリストの体なのだ」と神によって言い切られているということです。これによって、本当にこの聖書個所の全体が、良くわかってまいります。キリストの体になるということは、自分が選ぶことではありません。16節の冒頭にあるようにキリストによることです。キリストが私達一人一人を御自身の体の節々として選ばれ、しっかり組み合わせ、がっちり結び合わされ、ご自身の体としてしまわれたのです。
だから、教会に属する者は、誰も、別の一人に向かって、あるいは自分に向かってあなたはキリストへの信頼が足りないから、自分は愛が足りないからだからキリストの体とは程遠いとは言えません。
この群れに生きる者は誰でも、自分のことを、既にキリストの体の部分と言うことが許されています。そして、また、「キリストの体の部分とされた」と神に言って頂いているこの私は、事実、キリストの体の一部として、そこにいるだけで、この世におけるキリストの臨在を担っているのです。これは、驚くべきことです。すなわち、愛に生き得ないことを未だ嘆いている私達が、隣人にとって神よりの恵みの贈り物と既にされているということです。今現在の私の欠けが、キリストの体である教会を未熟な者としてしまうという以上に、私がキリストの者として教会の一員であることは、私が隣人のためにキリストの体の部分として贈られているということを意味します。そのことによって、事実、一人一人の存在が、キリストの体である教会を、欠けなきキリストの体としているのです。
既に、神によって、キリストの体となり切っている私達です。その恵みを知った私たちが、事実、頭に結び付けられ、それだからお互いに結び付けられている私たちが、お互いに対する愛を言葉と行動において具体化しないことは、かえってとても不自然なことなのです。このキリストの愛は、さらに、今の教会の身の丈を越えて、外へと出て行くのだろうと思います。なぜならば、この体は、キリストの体ですから、キリストの愛の及ぶ所まで、成長しないはずはないからです。
ですから、この教会の愛の交わりを作り出してくださっている私たちの頭であるキリストは、失われたままの者たちを探し出すために外に向かわれるに違いありません。この方は、失われている者たちをご自身の元へと連れ戻さないわけには行かないと思うのです。そして、その方の体とされている私達もその方が行かれる所に、必ず付いていくことになると思うのです。
そしてキリストが失われているご自身の体に連れ帰るために、出て行かれる場所とは、他のどこでもなく、私たちが、今日ここから出て向かう所なのだと思います。キリストの体の部分である私たちが向かい出会う全ての人が、まさに、私たちを通して、キリストと出会うのです。それは、もう一度申しますが、そうならなければならないという努力目標でなくして、神の恵みの約束に基づく既にそうである事実です。 このキリスト臨在の事実に基づき、この事実を後追いして、私たちは、この一週間も出会う全ての人に、キリストの愛の言葉、人を建て上げる真理の言葉をごく自然な言葉として語らせていただくことでしょう。キリストが必ずそうさせてくださるのです。
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