8月29日 ローマの信徒への手紙13章11節から14節 大澤正芳牧師
コロナ禍のもと、ニューノーマルと言われる生活を続けています。コロナ以前には、もう完全には戻らないと言われています。まさに、ニューノーマル、新しい普通が作られようとしています。
その「新しい普通」は今のところ、煩わしいと言わざるを得ません。「目元のメークだけで楽だわ」とか、「ちょっとマスクの下でひげを生やしてみた」などという教会の仲間たちのユーモア精神にホッと一息つく思いですが、心も体もニューノーマルに追い付かないというのが正直な気持ちです。
けれども、この新しい生活様式も、悪いことばかりではありませんでした。礼拝の音声配信を始めたおかげで、何十年ぶりに家族と共に、自宅で礼拝を捧げることができたという話が届いています。消息を訪ね合う教会員の交わりも深まった面もあります。手紙や電話だけでなく、インターネットを駆使したやり取りによって疎遠になっていた方と改めて繋がりを与えられました。また新しい人との繋がりが生まれたり、この点に関しては逆戻りしないニューノーマルとして定着してくれたら嬉しいことです。
そんな思いがけない喜ばしい交わりの一つとして、この半年の間、じっくりと一つの聖書箇所を読み続けるオンラインでの説教塾セミナーがありました。
月に二回、三時間づつ、日本各地の牧師達、信徒達と共に学んだ半年間のセミナーでした。この長い期間を通して、たった一回の説教の準備をしてきました。
その一つの聖書箇所をじっくり学ぶにつれて、今を生きる全ての人々が、聴くべき時宜に適った福音の言葉が与えられたという思いになりました。そこには、新しい時の始まりを告げる言葉と、その時が来ることによって始まるニューノーマルな生活について語られているからです。
今日は、いつもの第Ⅱコリント書から離れ、この新しい時の始まりを告げるセミナーで聴き続けた御言葉を司式者に読んで頂きました。
それはこのような言葉で始まります。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」
パウロは、私たちに今までとは違う「時」が始まったことを告げます。今までのやり方が通用しなくなる新しい時が来たのだから、目を覚ましなさいと語りかけています。夜の業を捨てて、日中の歩みを始めなさいと。
ローマの信徒への手紙というのは、私たちは行いによらず、信仰によってのみ神さまから正しい者と認めて頂けると語るいわゆる信仰義認を教える大切な手紙です。しかし、思いがけず、私たちの生き方についても、よく語る手紙です。
特に、パウロは、今日の個所から少し遡った第12章から信仰に生きる人間の具体的な形となる生活を、ロマ書の内容的な結びである第15章に至るまで語り続けます。
けれども、徹底して知って頂きたいことがあります。聖書が、倫理道徳を語る個所を読んだ時に、ただ突き放されてしまったと感じたならば、読み方を間違えたのです。聖書の勧めは、私たちに最後の責任を押し付けるものではありません。
12:1を読んだだけで、そこからどんどん語られていく勧めが、聴く者を突き放す戒めではないことがわかります。この私たちに勧められる具体的な生き方を、実に、パウロという人は、「神の憐みによってあなたがたに勧めます」と語り始めるのです。
ただ「ああしろ、こうしろ」と言うのではありません。パウロは、私たちが自分で正しいと確信していることでも、実行することができないという人間の弱さをよく知っています。自分を含めた人間のどうしようもない惨めさを知っています。
そのパウロが、私たちの作っていくべき正しい歩みを語るとき、それは、自分の弱さのゆえに、わかっているけどできないことに、私たちが一人で向き合う必要は、もうないと告げているのです。
憐みがある。神さまの憐みが、今、私たちに寄り添っている。その憐みが、為すべきことを為させ、すべきでないことを止めてくださる。だから、もう一度やり直していいんだ。立ち直っていいんだ。さあ、もう一度、一緒に立とうと勧めているのです。
だから、言葉そのものの意味において、キリスト者の生活とは、神さまの憐みが造る奇跡の生活です。キリストを死者の中から復活させた神さまの憐みの力が、私たちの死ぬべき体を用いて造る生活です(ローマ8:11)。
この奇跡的生活が、驚くことに、今や私たちみんなの当たり前となっているとパウロは今日の個所で語っているのです。
なぜならば、パウロは新しく始まる時を生きる新しい歩みを、眠りから覚めるべき日中の歩みとたとえているからです。太陽は全ての者の上に昇り輝くものです。善人の上にも、悪人の上にも昇るものです。皆がその恩恵に与れます。つまり、奇跡としか言いようのない人間として本当に正しい生き方が、今や善人にも悪人にも、誰にでもできるのです。そういう時代が始まっていると言うのです。
なんだか壮大なことを語っているようですが、新しい生き方を始めるために必要なことは、少しも大げさなことではありません。11節以下のパウロの言葉の展開を追っていけば、これが私たちの当たり前となるために必要なことは、たった一つのことだけのように見えます。
それは、今の時を知ることです。夜の生き方がふさわしい時は終わったのだ。新しい時が来たのだ。このことを私たちが知る時、当たり前のように新しい生き方が始まるとパウロは確信しているようです。
ここで勧められている新しい歩みとは、具体的には何でしょう。第12章からずっと語られている本当に具体的な生き方のことです。それを要約するならば、たとえば直前の8-10節に語られる「隣人を自分のように愛する」愛に生きることです。
ただ時を知ることだけで、新しい生き方が生み出されます。だから、このパウロの勧める隣人愛は特別な人だけができる生き方ではありません。朝は誰にとっても朝であり、昼は誰にとっても昼なのです。その時の始まりに気づきさえすれば、当たり前のように新しい歩みが生まれるのです。
しかし、また、12節で、こうも言われています。今は確かに目覚めるべき時ではありますが、正確には「夜は更け、日は近づいた」と言われる夜明け前であると。
新しい時が来たことを知れば誰もが日中にふさわしい歩みを始めることは当たり前のことです。それなのに、誰も彼もがまだ目覚めていないのだとすれば、それは見た目には、まだ空が暗いような世の中だからなのです。
パウロの言葉によれば、眠りから目覚めるべき時ではあるけれども、夜は更けている。夜はますます、深まっているとさえ言えるのです。外は真っ暗で、むしろ今までで一番暗くて、太陽の輝く兆しは少しもないのです。
けれども、かつて主イエスは仰いました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」マタイ16:2-3。
時のしるしを見分ける者は、今この瞬間の空の状況が、どんなものであっても、そこから素人には見つけることができない決定的な時の始まりを見分け、新しい生き方を始めることができるのです。
たとえば、釣り人は、まだ人々が寝ている間に、すっかりと準備を整えて出かけます。皆が寝巻きを着て、寝床で休んでいる間に身なりを整え出かけます。日が昇ってからではもう遅いからです。
パウロが、「あなたがたは今がどんな時であるか知っています」と私たちキリスト者に語りかける時、パウロは私たちを新しい時の始まりを知るこの釣り人のように見ているのです。
あなた達は知っているはずではないか?あなた達は、新しい時を知る者ではないか?今が、喜んで飛び起きて、愛の生活をするために、いそいそと身なりを整え始める丁度いい時間であることを知っているはずではないか?誰も彼もがその時の始まりに気付けているわけではないけれど、あなたがたは知っているはずではないか?
地にある教会は、誰も彼もが眠りこける暗闇の中にある時にも、熟練の釣り人のように早くも目覚めるのです。まだ暗いけれども、眠りから覚めるべき時が来たことに、いち早く気付いた者として目覚め、一番鶏のように胸を張って、大きく息を吸い、新しい時の始まりを、しゃきっとした声で告げます。
さあ、救いの時が来た。まもなく、神がやって来られ、総決算を始められる。この世界の凸凹を正す神の救いの日がやってくる。もうその足音が聞こえている。だから、闇の行いを脱ぎ捨てよう。色々な気晴らし、憂さ晴らしによって、もう自分をごまかすだけの日々を送らなくてもいいんだ。恐れずに愛に生きることができるんだ。収穫は大きいんだ。
神が全てのものの全てになってくださる日が、もうすぐこの世界の唯一の現実になるのだから、損をしてしまうとか、馬鹿を見てしまうとか、もう気にせずに隣人を自分のように愛して良いのだ。私たちが損得計算をしなくても、神さまが絶対に悪いようにはされない。だから、損得抜きの愛に生きて良い。それが今の時に一番ふさわしい生き方だと、パウロは宣言するのです。教会は、この世の闇がどんなに深く見えるときも、この時の知識にふさわしい、新しい生き方に導かれてきました。
かつてドイツにボンヘッファーという牧師がいました。ナチスに抵抗し、ヒトラー政権を転覆させようとした罪に問われ、銃殺されました。亡命の機会はいくらでもありました。しかし、殺人者がトラックのハンドルを握っているのを無理やりにでも止めずにはおれないと、クーデターの計画に加わりました。しかし、実行前に、この計画が暴かれ処刑されることになりました。
牧師がクーデターの計画に加わったということに、キリスト教会でも賛否両論があります。しかし、それがユダヤ人をはじめとする迫害された者たちを自分自身のように愛する愛の連帯であったことは疑うことはできません。傍観していても、生粋のドイツ人である彼の身に危険が及ぶことはなかったからです。彼は、ドイツ人としてドイツの罪の責任を負い、ユダヤ人の隣人となりました。
そのボンヘッファーの強制収容所での最後の朝、彼は、次の聖書箇所を読んでいました。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え(て下さったのである。)」(Ⅰペトロ1:3)。そして処刑上に引かれていく最後、囚人仲間にこう告げました。「これが最期です。―わたしにとっては生命の始まりです」。
キリストのゆえに、私たちが損得計算をしなくても、良いのです。今や神さまが隣人を愛することによって生じる凸凹に責任を持ってくださることが、暗闇に輝く光なるキリストにあって確かな約束となっているからです。だから、損得抜きの隣人愛に生きて良い、死を越えて、主なる神様にお委ねして。その言葉を聴いた一人のキリスト者の歩みでした。
もちろん、私たちは、神こそが全てのものの現実となってくださるこの総決算の日が、何年何月何日に来るというようなことを一切知りません。
しかし、私たち教会はただ一つのことは知っています。それは、イエス・キリスト、このお方が私たちのために来てくださったということです。このお方が太陽のように、この地に来られ、善人にも悪人にも、神の憐みを注いでくださったということです。私たちと一つとなり、私たちの完全な兄弟となってくださったということです。十字架に至るまで、陰府に至るまで。そして神は、この私たちと一つとなってくださったお方を、死人の中から引き上げてくださったということです。その全ては私たちのためでありました。
キリストは、私たちのために、私たちの味方として、私たちのための小さく小さくへりくだってくださった太陽として来られ、今も、私たちと共にいてくださる。
新しい時は本当にもう既に始まっているのです。14節で、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と、パウロが言うことが許されるほどに私たちに近く、私たちと一つになってくださるイエスさまの近さは、遠い将来の約束ではなく、今、私たちの生きるこの時の現実です。それはまだ隠された現実です。教会だけが知っている現実です。しかし、だから、私たち教会は、この方の共におられる時に適った愛の歩みを始めることができるのです。
古い時は去りました。どんなに暗闇が深くとも、それは、キリスト以前の闇とは全く異なるものです。終わりの見えない暗闇ではありません。クリスマスと終末の神の憐みの時によって区切られた時の間です。この時の間を、私たちは、今、主の良き力に囲まれて、主イエス・キリストを身にまとって、主のお与えになる隣人と共に歩んで行くのです。
そこに奇跡の生活が造られます。気晴らし、憂さ晴らしを捨てて、隣人を自分自身のように愛する損得を忘れた愚直な愛の歩みが始まります。それがどんなに割に合わない歩みに見えても、これこそが、本当のニューノーマルな生き方です。
私たち教会は、この新しい時の始まりを、主の憐みによって、今ここで一番鶏のように告げるのです。
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