9月20日 コリントの信徒への手紙二1章3節~7節
先週から「慰め」という言葉を巡って、聖書の言葉を思い巡らしています。3節から登場し、第Ⅱコリント書の冒頭に何度も登場する「慰め」という言葉、これは第Ⅱコリント書においては、いわば「福音」とか「救い」とか、教会が大切に語っている、「神さまが私たちに与えてくださる救いの恵みそのもの」を表す言葉として、用いられていると確認いたしました。
私たちが悩み悲しみにある時、神さまは必ず私たちを救ってくださる、その救いとは、ここでパウロが語るように、「神さまが私たちを慰めてくださるということである」と言い換えることが出来るのものなのです。私たちのしわくちゃになった魂を、神さまがアイロンで伸ばすように、丁寧に丁寧に、瑞々しく温かいその言葉で魂の皺の一本一本を、取って行ってくださるのです。
その神さまの慰め、4節以降に読み進めていくと、これはとても大切なことだと思いますが、私たち人間を通して、手渡されていくものだということが、語られていきます。このあらゆる患難にあって力となる慰め、それが神様の下さる慰めだからと言って、何もない所で、私たちの心の中に突然、降って湧いてくるものでなくて、人から人へ手渡されていくような種類の慰めであると語られています。
教会には「牧会」という言葉があります。牧場、牧畜の「牧」に教会の「会」で、「牧会」です。この牧会という言葉、教会にとって大切な言葉です。教会の働きを示す言葉です。教会の使命、牧師の務めは、何か?と言えば、煎じ詰めれば二つのこと、「説教」と「牧会」だと言われることがあります。
説教の働きというのは、今私のしていることですから、説明はいらないかもしれませんが、牧会の働きというのは、洗礼を受けたキリスト者であっても、明確に言葉として説明することが、出来ない人もいるかもしれません。
牧会って一体何かと思い巡らす時、この牧会という言葉が用いられる会話として、たとえば「あの牧師は、説教は下手だけれども、牧会が上手だ」というような言い方がされることがあることを思いつくかもしれません。きっとその場合は、「あの牧師は、説教は何を言ってるかわからないけれど、世話焼きで人柄も良いから、教会をうまくやっていけるみたい」という意味で使われていると思います。
日本語で牧会と言うと、おそらく、このように牧師の行う信徒のお世話のこと、牧師が、電話を掛けたり、手紙を書いたり、お見舞いに行ったり、時には、生活のお世話までしたり、そういう牧師のする信徒に対するお世話のことを「牧会」の中身と考えられがちだと思います。しかし、これは、少々、牧会ということを誤解した理解です。
牧会という日本語は、きっと英語のパストラルケア、羊飼いのケアという言葉の翻訳から、日本語の中に入ってきて、そのイメージから、神の羊である教会員の生活全般に関わるお世話のことのように考えられるようになったのかもしれませんが、元々は、牧会とは教会の長い歴史においては、たとえば、ドイツ語でゼーレゾルゲと呼ばれるもの、直訳すれば、「魂の配慮」と呼ばれていたものです。この金沢で翻訳された有名なトゥルナイゼンという牧師の『牧会学』という牧会の教科書も、もとのタイトルは、『魂の配慮についての教え』です。
牧会とは、「魂のケア」のことです。牧会とは牧師が信徒と作っていく人付き合い全般のことではなく、傷つきやすい魂のケアのことです。その点、本来は今日の聖書個所の鍵言葉である「慰め」という言葉と、よく繋がっていく言葉なのです。
このような働きは、精神科医や、カウンセラーのような方々の働きを思い起こさせるものですから、それこそ教会の中の専門家、牧師の専門的な働きのように思うかもしれませんが、そんなことはありません。
4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難にある人々を慰めることができます」とありますように、神様の慰めを頂いた人なら、誰でも、この慰めの業を行うことが出来ますし、この慰めの業に参加するように、召されているのだと言えます。
そして、キリスト者とは、福音に生かされる者、神の救いを頂いた者とは、もう一つの言い方をするならば、神の慰めを頂いた者だと、パウロはこの書の冒頭で言い換えて見せていたのです。つまり、私たちは皆、この慰めを頂いているのです。
私たちプロテスタント教会の大切な自己理解として万人祭司という言葉があります。プロテスタント教会においては、私のような牧師だけが、特別な聖職者というわけではないのです。みんなが神様から祭司の務めを与えられている。これを今日の御言葉から言い換えるならば、万人祭司である皆さんは、万人牧会者なのです。そして皆さんが牧会者であるという事を具体的に言えば、人の魂を配慮し、慰めに至らせる者であるということです。
このようなことを聞かされるとどうも、たいへんな役割を与えられてしまったという思いになるかもしれません。自分は教会で慰めを頂くということはわかるけれど、慰めを得たい、慰めが欲しいと思って礼拝に集っているに過ぎない自分が、単に受ける側ではなく、慰めをもたらす側であるのだということは、どうもちょっとまだ準備不足が否めないと思われるかもしれません。
けれども、私たちが慰め手となるために必要な準備は特別なことではありません。パウロの語るところによれば、私たちが苦難の中にあること、また私たちが神に慰められたこと、それがあらゆる苦難の中にある人を慰めることになるのだと言います。
6節に、「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」とあり、また7節の後半で、「あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」と言われます。
パウロの苦しみが、コリント教会の人々の苦しみとなり、パウロの慰めがコリント教会の人々の慰めとなり、また逆に、コリント教会の人々の苦しみがパウロの苦しみとなり、コリント教会の人々の慰めがパウロの慰めとなる。
そのようにして、お互いの苦しみと慰めを伝達しあう人間の交わり、しかも、慰めを分かち合う分だけ、苦しみをも分かち合わなければならないのではなく、その苦しみも、結局、慰めに至ることになる、全てが慰めになだれ込む、互いの魂の慰めに資するような交わりが、パウロとコリント教会の間にあると言うのです。
コイノーニアという言葉を聞いたことがあるでしょうか?教会の中でギリシア語そのままで使われる事もありますが、「交わり」という意味の言葉です。共に生きるという事です。
元の意味は「何かを共有する、分かち合うことによって成り立っている交わり、共同体」という意味があります。
教会とはエクレシア、直訳すれば、「呼び出された者たち」という意味ですが、どうして呼び集められたかというと、コイノーニアに生きるためだと言うこともできます。
分かち合って生きる為、共有して生きる為、何を分かち合うのか?苦しみと慰めです。
今日の聖書箇所にも、このコイノーニアという言葉が隠されています。新共同訳聖書ではちょっとわかりづらいですが、より直訳的な岩波訳では、7節後半に、「あなたがたが苦難を共にする者であると同様に、慰めを共にする者でもある」という言い方がされます。ここに「共にする者」「共に分かち合う者」、コイノーノイという言葉が使われています。
パウロとコリント教会の信徒は共に分かち合う者なんだ。そういうコイノーニア、交わりを造っているんだ。苦しみを共有し、だから慰めの共有に至る。それが神が私たちを呼び出し造られる共同体、だから、ある人は、教会のことを「慰めの共同体」と呼びます。
つまり、パウロがここで教会の交わりとはどういう交わりであるかと語っているかと言うと、自分の受けた苦しみによって、互いに慰めを与え合う交わりだということができると思います。
自分の苦しみが人を慰める、また他者の苦しみがわたしを慰めるなんてことは、少し新鮮な考えであるように思います。他人を助け、援助することができるのは、元気な人、力のある人であり、苦しんでいる人、悲しんでいる人なんかじゃないと思うかもしれません。弱く、傷つき、貧しさに生きている者には、そんなことできないと普通、考えるかもしれません。対話によって人の魂を癒すことができるのは、円満な性格の人であって、悲しみや苦しみによって、深い折り皺のようなものが魂に刻まれてしまっているような自分は、人の悲しみを慰めることはできないと思うことがあるかもしれません。
しかし、落ち着いて考えてみれば、決してそんなことはないのです。たとえば、自助グループというものがあります。同じ病気を抱える人、同じ弱さを抱える人、同じ悲しみや苦しみを抱える者同士が、集まるグループです。同じ弱さを共有する者にしか届けることが出来ない慰めがあるのです。
本当は、性格円満な人よりも、悲しんでいる人、苦しんでいる人の方が、ずっとずっと魂の慰め手として、慰めを手渡していくことが出来るのです。だから、パウロは私たちが受ける苦しみや悲しみ、私たちが経験してきた苦しみ悲しみを、単にネガティブなものとしてみていないのです。その苦しみ、悲しみは、人を慰める力となるのです。
ところが、その一方で、こんなことも考えなければならないかもしれません。確かに、自分の苦しみの経験、悲しみの体験は、人の慰めのために役立つことはあるかもしれないけれど、またもう一方から言えば、私たちが苦難の中にある時に、人の苦労話が耳に入らないし、慰めなんかにならないということも起こり得ます。
私を慰めようと傍らに寄り添ってくれる人が、自分の中に、今私が経験している苦しみ、悲しみと似たものを見出し、「私の時はね、、、」なんて語り出されたら、いよいよ孤独が増していくことがあるということは、私たちもよくわかることではないかと思います。
悲しみを分かち合い、それによって慰めを分かち合おうとしても、人間は本当は誰も私と同じ人間ではなくて、私は私一人で、誰にも理解されず、共有されないまま、その苦難を背負っていかなければならないということがいよいよ明らかにされるだけだということも起こり得ると思います。同じ境遇を通った人に話を聞いてもらったり、言葉を交わし合うことは、魂を慰め、配慮することに繋がりますが、私たち人間には、本当に本当に、深い深い所では、言葉も届かず、心も通じ合えないという地点があると思います。
神の呼び集めて下さる教会が、神がお互いを集めて下さったという安心感があるからこそ、どんな苦しみや悲しみも、赦しの元に安心して、共有できると考えることが出来たとしても、もしかしたら、安心して、どんな苦しみをも語り合うことのできる交わりだからこそ、最後の最後の地点では、隣人と分かち合うことはできない、全く孤独であることが、明らかになってしまうかもしれません。
人から人へと手渡されていく、神の慰めは、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」というけれど、それは少々、言い過ぎなのであって、実際は、「ほとんどすべての苦難に際してわたしたちを慰めることが出来る」と言い替えた方が、精確だと思われるかもしれません。
しかし、これまで、第Ⅱコリント書が語るように、神の慰めは人から人に手渡されていく、しかも、隣人の慰めのために、私の悲しみが用いられるということを、丁寧に語ってまいりましたが、本当は、最も大切なことに、ここまで触れずに来てしまったのです。
最も大切なこと、今まで語ってきたすべての前提であること、それは、私たちの共有する悲しみと慰めというのが、隣人の魂を配慮するものとなり、しかも、私も経験したことのない他者の苦しみ、本当は、どんな苦しみだって共有できているとは言えない、一人一人の人間が自分で背負っていかなければならない苦しみ、悲しみを、慰めることが出来るのは、その苦しみが、5節で語られる「キリストの苦しみの満ち溢れ」になることによってなのです。
ここからもう一度、これまでの同じ時間を用いて語らなければ、十分に語ることが出来ないようなことですが、残念ながら、もうそのような時間はありません。でも、いつもここで語っていることと違うお話をするわけではありません。いつもいつも同じ知らせを告げているだけとも言えます。
キリストの苦しみが満ち溢れたのです。どこで?十字架においてです。十字架で流されたキリストのお体から血が流れたように、その十字架から苦しみが流れ出ているのです。
キリストの十字架から、キリストの苦しみがとめどなく溢れ出てきます。どこまで溢れているかと言えば、その十字架から溢れ出てくる苦しみが、パウロの足元を浸し、膝上に達し、腰、胸、いいえ、彼の全体をその中に巻き込んでしまっているのです。
パウロだけじゃありません。教会に集められた人というのは、満ち溢れなだれ込んできたキリストの苦しみに、巻き込まれてしまったも者たちのことであります。
私たちは、苦しみ、悲しみを本当は誰にも共有することが出来ないことを深く絶望しながら耐えているようですが、それでいながら、どこか、そうであることに不健全な甘さを感じているようなところがある者でもあります。自分の悲劇的状況の上に、どっかり座り込み、誰にも邪魔されたくないと自己憐憫の喜びを隠れて味わっているところがあります。
ところが、そこにキリストの苦しみが満ち溢れてきて、私たちが他の誰のものでもなく私たちのものだとその上でとぐろを巻いていた苦しみと悲しみをお取り上げになり、「それは私のものだ」と仰るのです。私たちの苦しみと悲しみを、全部ご自分の十字架の上に載せてしまい、父なる神に棄てられ、私たちでさえ、味わうことのできない、私たちの担うべき苦しみと悲しみの一切の深さを、完全な深さにおいて担い尽くしてくださったのです。
「これは私だけの苦しみ、これは私だけの悲しみで誰とも共有できない。誰にもわかってもらえない。いいや、誰にもわかると言ってほしくない」と、ハリネズミのようになって、誰にも近寄らせない魂の深い深い場所、本当の私がいる場所に、十字架のキリストが入って来られ、私の荷を取り上げてしまい、十字架の上に丸ごと載せて、「これは私のものだ」と仰り、私の傍らにあり、「わたしはあなたの味方だ。あなたは私のものだ。」と仰る。
長く、細かい解説を一切省略して言えば、これが、5節でパウロが、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」と言ったことであると思います。
マタイによる福音書11:28以下の有名な主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉が、次のように続くことを驚く人がいます。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
重荷を降ろすつもりであったのに、主イエスの元に行くと、新しい重荷を負わされることになるのか?キリストの元に逃れて行っても、別の苦労を背負い込むだけか?
そうではありません。主イエスの元に重荷を降ろすとき、私たちの歩みに決定的な変化、決定的な慰めが訪れるのです。
それは、主イエスの元に下した重荷は、主イエスのものになってしまう。荷札に私の名前が記されていたのに、主イエスのお名前に書き換えられてしまうということです。
降ろす前は私たちの荷であったものが、背負い直すときは、主イエスの荷に名義変更がなされているのです。もう私たちの苦しみ、私たちだけの悲しみなんてないのです。むしろ、主イエスの苦しみ、悲しみをこの世にいる間、一時的に背負わせて頂くだけです。
この主イエスのゆえに、私たち人間がそれぞれに背負う苦しみ、悲しみは、相互通行不可能なものではなくなり、また同じ慰めを共有できるのだと、はっきりと言えるようになりました。
苦難がなくなるわけではないということを、残念に思う人が万一あるかもしれませんが、それは、この慰めが、ただ私一人を慰めようとするものではなくて、今もまた、共有ということを語りましたように、この慰めが世の終わりに至るまで、次から次へ、私たちの手から、別の人の手に引き渡され続けていくこととも、少し、関係があるのではないかと思います。
主イエスのなさり方を思い出してみればいいのです。主イエスが、この私たちのことを、私たちの一部分や、大部分ではなく、全部、完全に、100%余すところなく、お救いになるためには、天の高みに坐したままでいることはできなかったのです。天より降って来なければならなかったのです。貧しい者の一人となり、神に呪われた者となり、改革者ルターの言葉で言えば、最大の罪人のようにならなければ、私たちの弱さと貧しさを共有しなければ、私たちをお救いになることはできなかったのであります。私たち教会はこの主イエスの救いを味わい、手渡していくように、呼び出されたのです。
第Ⅱコリント書で私たちが学ぶことになる一つのリフレインは、キリスト者は、自分勝手に、人に先んじて、富んだ者になってはいけないということです。王様のようになることはできないということです。それは、この福音の慰め、教会に託された神の慰めが、人から人へ、私たちから次の人へ、手渡されていくものであり、しかも、それが手渡されていく道のりが、私たちの強さや、富によってではなく、悲しみを共有することによってこそ、受け取り、また手渡すことが許される慰めであるからではないかと思います。
そうであるならば、私たちは、欠け多く、弱さを抱え、罪を抱え、悲しみがなくなってしまわない毎日を送っているとしても、それは、主イエスの印のついた苦しみ、悲しみ、主イエスご自身が十字架でお引き受けになった主の苦しみであることを弁えて、初代のキリスト者たちと共に、使徒たちと共に、主の名のために苦しむを受けるほどの者とされていることを喜び、いよいよ慰めの福音を語る者とさせて頂きたいと願います。
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