2月11日 ヨハネによる福音書21章15節~19節 大澤正芳牧師
私達金沢元町教会は、二か月後に牧師交代を迎えます。
明日、明後日には、八幡鉄町教会の松原望先生に来て頂き、長老会との打ち合わせ、また、牧師との引継ぎを行う予定でいます。
牧師招聘がどのように進んで行くものなのか、長老以外の教会員は、詳しく知る機会はあまりないかもしれませんが、それでも多くの方は、今回の招聘は今までと少し違うようだという印象をどこかお感じになっていらっしゃるかもしれません。
どこが違うのか?
分かりやすく言えば、牧師を招く主体であるのは、あくまでも私達金沢元町教会ではありますが、それにもかかわらず、その招きに応えて来て頂く牧師に対しては、何の注文も付けないというところです。
厳密に言えば、連合長老会の人事にお願いして、私達金沢元町教会にふさわしい牧師を送って頂くようにお委ねするのです。
私たちの辞任総会の時に陪席くださった井ノ川勝先生は、どのような牧師が良いかご要望があればと、あの席上でも仰ってくださいました。
けれども、小会である各個教会から、中会である地域連合長老会に何の注文も付けないというのが、教会としての常識的な姿勢であると思います。
もちろん、明日、松原先生が、金沢に来てくださった際の、長老会との懇談の時には、私たちの教会の状況を詳しくお伝えすることになるだろうと思います。
どれくらいの信徒がいて、どのくらいの礼拝出席者があり、どんな求道者がいて、どんな風に、伝道牧会をしてきたか、教会形成上のどんな課題があると、長老会は感じているか、ざっくばらんにお伝えすることは、必要です。
けれども、だからといって、キリストの福音の根幹に触れるようなこと以外は、牧師に注文を付けることはあり得ませんし、福音の根幹に触れるようなことが、揺らいでいる牧師は、そもそも想定されていないので、牧師への条件など、付けようはずもないのです。
ただただ、私達金沢元町教会を憐れみ、主が送ってくださる松原望牧師を、感謝を持って受け入れるのです。
私は、長老会の席上でこのようなことを、口を酸っぱくして言った覚えはありません。
これは、キリスト教会の常識の範囲のことですから、学びの際に、また、会議の際に、自然と語って来たとは思います。
けれども、この常識を、今回の牧師招聘において、本当に自然な共通理解として、長老会の中に、そして、教会全体の中に、醸成されている雰囲気であることを、牧師として嬉しく思います。
牧師の私も、教会の皆さんも、自覚的な改革長老派教会の牧師、信徒としての歩みは、それほど、間がないよちよち歩きの存在ではありますが、長老会、また教会は、本当に、長老教会らしくなってきたなと、このこと一つを取っても思います。私はこの成長を主に感謝しています。
7年前に赴任してから今に至るまで、私が感謝しているのは、金沢元町教会は、成長しようとする姿勢を持っていることです。
牧師が変わる毎に、色々、新しい風が吹き込まれ続けてきたと思いますが、その新しい風を受け入れ、そこから学ぼうとする姿勢があることです。
新しい牧師にとって、こんなにありがたいことはありません。
もちろん、牧師と教会の歩調が合うようになるのは、長い時間がかかり、長い時間をかけても、完全に一つになることはないかもしれません。
しかし、それでも、反発や、疑いではなく、聴こうとする姿勢、学ぼうとする姿勢を採ってくださるというのは、ありがたいことです。
聴く耳があり、変わる余地があることこそ、聖書と説教の御言葉によって絶えず改革され続けていく改革派教会の姿勢にふさわしいものであると思います。
今日、私たちに与えられた聖書の物語、今、まさにこのような私達金沢元町教会に向かって、生ける神がお与えになり、主イエスがこの牧師交代の時のためにお語りくださっている言葉だと、私は感じています。
12弟子の一人、一番弟子とも目されるシモン・ペトロと、ご復活の主イエスとの慰めの対話です。
主イエスがご用意くださった焼き魚とパンの朝食を終えた後、ご復活の主は、シモン・ペトロにお尋ねになりました。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
ペトロは答えます。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
ペトロの答えを受けて、主イエスが再び、お語りになりました。
「わたしの子羊を飼いなさい。」
この問いと答え、それから、再び語られる主イエスのお言葉は、シモン・ペトロを教会の牧者としてお立てになるためのやりとりのように見えます。
先週私たちは、ここで小児洗礼式を行い、そこで、両親と、それから教会員が、主の前に制約の言葉を語りました。
それと、同じように、一人の人を教会の牧者として立てる時、誓約をいたしますが、ここでも、主イエスは、一人の人に御自分の小羊、すなわち、教会を牧することをお委ねになる時、誓約をお求めになるのです。
主は御自分の大切な子羊を託すにあたり、何を約束することをお求めになったのか?
主イエスの牧師任命のための式文はどのようなものであったのでしょうか?
それは「この人たち以上にわたしを愛しているか」という、ただ一点でした。
主イエスが、ペトロに求めた牧者としてのただ一つの約束、それは、誰よりも、主イエスを愛していると、主にお答えすることでした。
ある人は、他の人たちに比べて、その比較から、「この人たち以上にわたしを愛しているか」という問いは、違和感を覚える問いかもしれないと言います。
他の誰かの比較ではなく、主と自分の関係こそが大切であるはずだからです。
そして、21:20以下の今日の聖書箇所に続くもう一つの物語では、他の誰かとの比較ではなく、あなたと私の関係だということを、ご復活の主イエス自らが、重んじておられるのです。
けれどもまた、その聖書学者は、違和感を覚えるかもしれないが、言わんとすることは明白であると言います。
ただひたすら、主イエスを愛する。そのことだけに打ち込む者が、牧会者として主がお求めになる条件なのです。
それが、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」という問いの明瞭な意図だと言います。
それゆえ、あまり、このような翻訳を採る者は多くないのですが、私たちの持つ日本語でも、そう読み取ることが可能であるように、「あなたは、この人たちのことを愛するよりも、わたしのことをもっと愛するか?」と翻訳することも可能なのです。
弟子たちの中で、一番主イエスを愛するということが尋ねられているのではなくて、主イエス御自身のことを一番に愛するかということが問われているということです。
私は、牧師にとって、いいえ、教会という群れが歩んで行く上で、最も大切な問いがここに現れていると思います。他の誰かではなく、主イエスの思いを一番とするのです。
日本基督教団議長を務めたこともある鈴木正久という牧師が、よく呟いていた言葉として、私の恩師から幾度となく聞いた言葉があります。
「牧師は風呂屋の番頭じゃない。」
何十年も前の表現であり、今は、このような表現は、あまり適切ではないかもしれません。
けれども、言わんとすることは明らかです。
冷たい牧師だ。冷たい教会だと、非難されることがあるのです。
そう言われないように、そう陰口を叩かれないように、教会に集まってくる人たちの空気をいつも読み取り、それを第一にしてしまう誘惑があるのです。
集まる人々のニーズと空気を読み取って熱すぎると言われれば水で薄めて、冷た過ぎれると言われれば湯を足して、しかし、それは牧師の第一とすることではありません。いいえ、牧師に限らず主の教会の第一として良いことではありません。
他の何を捨て置いても、主イエスの御心に集中し、それによってこのお方を愛するかどうかです。
主イエスがお求めになるのは、その一点です。
牧師である私は、また、万人祭司として、主の教会を形作っているプロテスタント教会の長老方、また主のお身体の一部である教会員の皆さん、つまり、羊であると同時に、お互いの牧会者でもある皆さんは、主イエスにそう問われるならば、何とお答えになるのでしょうか?
そして、その私たちの答えに主イエスは満足してくださるでしょうか?
主イエスは、ペトロに対しては、「わたしの子羊を飼いなさい」と応じてくださいました。
主は、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というペトロの答えに満足してくださったと言うことができます。
けれどもまた、たいへん印象深いことに、同じようなやり取りが、この後、二度続き、合計三度、繰り返されました。
もしも、一人の牧師の就任式の際に、教区から派遣されてきた司式者が、ほとんど変わらない誓約の言葉を三度繰り返すとしたら、一体どうなるでしょうか?
問われる者も、周りで見ている者も、頭に血が上り、動悸を激しく感じ、眩暈がして来るくらいのことが起きてもちっとも不思議ではないと思います。
この司式者は、この牧師の誓約の言葉を疑っているのではないか?だから、何度も何度も問うているのではないか?
もちろん、ペトロも同じでした。
だから、17節、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と、主イエスに三度問われた時、三度も問われるのかと、悲しくなったとあります。
しかしまた、彼が三度も主から同じことを尋ねられて、うんざりしたり、いらだったりせず、ただただ、悲しくなりました。でも、よくわかります。
ペトロは、主の問いに対して、繰り返し、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えましたが、この答えは考えてみれば、ちょっと情けない答えだと私は思います。
なぜならば、ペトロは、「はい」と答えますが、直ぐに、「あなたがご存じです」と付け足すのです。
三度問われ、三度とも、「あなたがご存じです」という言葉を付け足します。
私はいつもこの箇所を読む時、胸を張れずに、伏し目がちでいる弱ったペトロの姿が思い浮かびます。
直前の箇所で、主に愛されている弟子が、湖の岸辺に立って話しかけてきた人物がご復活の主イエスであることに気付くと、上着をまとって、水の中に飛び込んだペトロ、恥ずかしくて、主イエスの前に真っ直ぐに立てないペトロの姿が、ここにはあるような気がするのです。
この人は、主イエスが十字架にかかる前、主が御自分の受難の道のりを予告された時、「あなたのためなる命を捨てます」(13:37)と、主の予告に逆らって、自分の意志の固さを表明していたのです。
けれども、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」という主イエスの予告の言葉通り、大祭司の庭で、三度主の弟子であることを、否定したのです。
だから、ペトロは、三度、主イエスにその愛を尋ねられても、「はい、わたしはあなたを誰よりも愛しています」と、すっきり、きっぱりと答えることができない。
自分の心を問われているにもかかわらず、「あなたがご存じです」と、最終的な判断を主イエスに委ねずにはおれない。何度尋ねられても、それ以外の答えようがないということではないかと私は思います。
そしてそれは、ペトロだけじゃありません。
私たちも同じです。私たちもまた、主イエスを愛しています。
この時に至るまで、私たちは、毎週、説教壇から、すべてのキリスト者は献身者であること、偶像崇拝とは、仏像や、神像を拝むことではなく、神ならぬものを神とすること、神以上に、大切にするものを持つことであることを、喜んで聴いて来たのです。すなわち、喜んで礼拝を捧げている者たちです。
私たちも、ペトロと同じように、ペトロと何ら遜色なく、主イエスを愛する主の弟子です。
けれどもまた、その主への愛についてさえ、こう言わないわけにはまいりません。
シモン・ペトロと全く同じように、「誰よりもわたしのことを愛するか」、「あなたは、この人たちのことを愛するよりも、わたしのことをもっと愛するか?」と問われるならば、本当は、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」としか答えようがない。
それは、教会経験が浅いからとか、修道士や修道女のように、わかりやすく自分の全ての時間と、全ての力を、主に捧げて生きているわけではないからというわけではありません。
私はもう一度申し上げますが、私たちの信仰生活もまた、まるごとの献身以外にはありえないのです。
私たちプロテスタント教会の理解では、在家、出家の区別などありません。すべてのキリスト者は、召命と献身に生きる他ない、まごうことなき主の弟子です。
しかし、そのまごうことなき主の弟子、後に、全キリスト教会の首位権を持つとまで考える者が現れるほどのシモン・ペトロと遜色のないその主の弟子をして、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」としか答えようがない。
むしろ、信仰者としての歩みを重ねれば重ねるほど、そうとしか答えようがなくなる。
そういうものだと思います。
つまり、私たちは、いつも、悲しくなる可能性にこの身を開いているのです。
主イエスを心から愛する。主イエスを他の何にも勝って愛する。
考えてみれば、これは牧師に限らず、すべてのキリスト者の基本のキです。
今年洗礼を授けられたばかりの人も、何十年と長老職を務めたような人であっても、これがなければ、教会生活は始まらない基本のキです。
しかし、この基本中の基本すら、自分の手の内にはない。自家薬籠中の物ではないというのが、キリスト者なのです。
主よ、この私のあなたへの愛ですら、私の内に確かだと言えるものではありません。あなたがご存じです。あなたの内にだけ、あなたを愛する私の愛の確かさがあります。
こう答えられるだけです。
見ようによっては、考えようによっては、と言うよりも、普通の常識的な感覚で言えば、本当に情けない。本当に頼りない。
しかし、本当のことを言えば、こんなに確かなことはない。
なぜならば、この私の主イエスへの愛、この私の神への信仰は、この私の内にではなく、主の内に確かさを持つものだからです。
主よ、あなたがあなたへの愛をくださるならば、わたしはあなたを愛することができます。主よ、あなたがあなたへの信仰をくださるならば、わたしはあなたを信頼することができます。
主よ、どうか信仰のないこの貧しい者を憐れんでください。
だから、主とペトロの三度のやり取りは、ペトロを悲しませるものではありましたが、その悲しみは、ペトロをその根本から癒すやり取りであったと思います。
自分で握りしめるセルフコントロール、自分を奮い立たせる自己啓発の生活から、手を開き、この自分を主に掴んで頂く祈りの生活の開始です。
私は、この金沢元町教会が、開かれた教会であり、学ぶことに熱心であり、牧師が変わる毎に、新しく聞き直そうという姿勢を持ってきたことを、ありがたいことであり、まさにこの教会の生まれである改革長老教会らしい姿だと最初に申し上げました。
開かれている、学ぶことに熱心である、変わることに柔軟性があるということは、別の言い方をすれば、貧しいということなのです。
自己充足的、自己完結的でなく、幼子のように、乳飲み子のように、いつでも助けを必要としているということなのです。
そして、キリスト者とは、教会とは、神の御前に常に、そのような貧しさに生きる者であります。
そしてそこにこそ、主の子羊を養う道が拓かれる。つまり、主の大切な所有であるお互いを、愛する道、本当の意味で隣人への愛に生きる道が与えられるのです。
私にとって忘れがたい大切な書物の一つに、ローマ・カトリック教会の神父であるヘンリー・ナーウェンという人の、『イエスの御名で』という小さな本があります。
その小さな本は、今日私たちが聴いているヨハネによる福音書21:15以下の物語が、通奏低音となり、展開されて行きます。
ナーウェン自身が権威と権力のある有名大学の人気教授から、ラルシュ・コミュニティーという障碍を盛った人たちの生活の場へ、一人の働き手、仲間としての新しい生活を始める道のりと、葛藤、霊的道のりを辿るその小著の中で、自分のコントロールを手放していく歩みの内に、今日の18節の主の言葉を聴きながら、私は決して忘れることのできない言葉を語ります。
ナーウェンはまず次のような趣旨のことを言います。
私たちはふつう、こう考えるだろう。
「あなたが若かったときは、他人に依存して生きていたので、自分の行きたい所に行けなかった。しかし年をとると、あなたは自分で決断し、自分の行きたいところに行き、自分の運命を支配できるようになる。」
しかし、主イエスのお考えは違うのだと。
そして、言います。
「成熟とは、むしろ自分の行きたくない所に、喜んで行けるようになる、ということです。イエスはペテロを、ご自分の羊の指導者に任命したすぐあとに、しもべとしての指導者は、自分ではどこかわからない、望まないような苦難の場に導かれるという、厳しい真理を突きつけられました。」
もちろん、それは、頼りにならず、何でも人に決めてもらわなければならな依存的な人間になれというわけではないとも言います。
そうではなく、主「イエスに導かれる所なら、どこへでも従う用意ができているほど、イエスを深く愛している人のこと」、主「イエスと共にあれば、どこであってもいのちを見いだし、しかもそれを豊かに見出せることを、つねに信じている人のこと」だと言うのです。
18節で、主イエスがお語りになったのです。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
私はナーウェンの黙想と重ね合わせながら、この主の御言葉から、キリスト者の成長、それも愛の成長とは、この世的な強さと豊かさに向かうことではなく、弱さと貧しさを引き受ける力と教えられてきました。
もう一度、申しますが、このような力は、私たちの内にあるものではなく、主の内に根拠を持つもの、主から頂く力です。
その弱さと貧しさの中に働く力とは、この世の多くの者が追い求める強さの中の力よりも、もっとずっと力強いものです。
なぜならば、福音書記者が19節で、このように語る通りの力だからです。
19節「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」
そうです。主がペトロに与える主への愛、主への信頼、主の召しに応えるところに造られる、そして主がくださるその力によって作られる主がくださる隣人と共に生きる歩みは、行きたくないところに連れて行かれるようなペトロ自身が経験しなければならなかった死に至るまでの極めつけの貧しさにおいても、神の輝きを露わにするものとなるのです。
ペトロを召された主が、この私たちをもお召しになります。
「わたしに従いなさい」。つまり、わたしの愛に生かされながら、わたしに従いなさい。わたしの子羊を養いなさい。
この主の招きの内に造られる、ここにいるお一人お一人の幸せな歩み、これまでも、これからも変わらない金沢元町教会の伝道牧会の光栄な歩みです。
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