愛の証、誇りの証

4月18日 コリントの信徒への手紙Ⅱ8章16節から24節まで

新型コロナウィルスの県内での感染状況が落ち着いていたので、讃美歌を増やし、座席を増やし、聖餐を再開したばかりですが、今日からまた、元の警戒態勢に戻らなければならなくなりました。そのことを私もとても残念に思っています。

 

 教会とは、神によって呼び出された群れ、集会のことですから、人が肩を寄せ合い、膝を突き合わせることは大切なことだと思います。いくらインターネットが発達しても、集まらないで済むということにはなりにくいと思います。

 

 普段は離れて生活していても、パウロが、コリント教会を訪れたように、また、エルサレム教会の人々の具体的な生活を支えようとしたように、血の通った人格的な交わりは教会に欠かせないことだと私たちは考えます。

 

 それは神様ご自身が、私たちとそのような親しい交わりに生きてくださることを反映することにもなると私たちは信じています。

 

 ある時、主イエスは、二羽一組、数百円程度で売られる小鳥の一羽さえも、天の父の許しがなければ地に落ちることはないと仰ってくださいました。

 

 原文では、父の許しと語るどころか、「父なしでは」となっています。小鳥の一羽が空から落ちるときにも、父なる神様は、その一羽の小鳥に付き添うというのです。

 

 主イエスは、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と仰ってくださいました。主イエスにおいて表された父なる神は、どこまでもどこまでも、私たちに付き添ってくださる、傍にいてくださる神さまです。十字架の死に至るまで、陰府に至るまで。

 

 その神さまのぬくもりが私たちを元気にしてくださったのです。私たちを本当の意味で生かしてくださるようになったのです。その神さまのぬくもりを自分だけでなく、分かち合うように召された私たちです。

 

 私たちは、天地をお造りになった神を愛する者にふさわしく教会を越えて隣人を愛するように、ぬくもりを伝えるように、神さまから召されています。

 

 しかし、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4:20)と教えられているように、教会の中の兄弟愛の実践によって、隣人愛に生きることを具体的に始めさせていただきます。

 

 目に見える兄弟を愛することができないならば、教会の中で党派争いをするならば、私たちの信じる教会が告げ知らせるよう召されている全被造物への神の愛の証しの言葉は、とても嘘っぽい言葉になってしまいます。

 

 教会は神さまの人格的な愛、血の通ったぬくもりによって結び合わされた神の家族です。ここから隣人愛をはじめ、しかし、受けたものをここだけで交換していくのではなく、外へ外へと愛を、だから、何よりも福音を手渡していくのです。

 

 けれども今は、外に出て行くどころではないのです。伝道集会の一つも開けません。それどころか、教会内で、肩を寄せ合い、膝を突き合わせて語り合い、食事を囲む親しい交わりに生きることすら困難な状況が続いています。お互い最低でも1メートル以上離れなければなりません。その状態で15分以上、話し込んではいけません。こうなると、教会の交わりは希薄になっていきそうです。

 

 聖徒の交わりを壊そうとする力として、コロナウィルスの感染拡大が働いてしまっています。

 

 ご承知のように、愛知県の教会、岐阜県の教会で、クラスターが発生したという報道がなされています。

 

 特に愛知県の教会で起きたクラスターに関しては、県知事が、「密な状況でみんなで大声で歌った。・・・極めて遺憾だ。」と語り、また「しばらく施設を使用中止にできないか市と相談する。」とまで、発言しています。

 

 私はこの発言は、我々の信仰に挑戦するどころか、日本国憲法にまで抵触する無見識な発言と思います。しかし、この方が公人でさえなければ、当然、そう言いたくなる気持ちはわかります。我々には永遠の命があるのだから何を恐れることがあるか、この時こそ、聖徒の交わりをいよいよ深めようと、教会の肩を寄せ合い、膝を突き合わせる親しい交わりに専念していくことはできないと思います。皆さんはどうお考えになるでしょうか?

 

 しばらく我慢の時は続きますが、もう一度気を引き締めなければならないと私は思います。

 

 しかし、このような非常事態を用いても、万事を益としてくださる神様は、私たちの信仰を鍛えるためにこの時をも用いてくださると信じます。

 

 改革者ルターは、私たちキリスト者の生活にとって欠かせないものを「祈り・黙想・試練」だと言いました。

 

 しかも、それは別々のものではありません。一つながりのものです。試練に出会う時、私たちはいよいよ聖書に向き合う黙想へと専念するのです。そして、正しい黙想は、さあ、私が何かをやってやろうという前に、神への祈りと実を結ぶのです。

 

 このようにして神さまは私たちの信仰を精錬するために、試練を用いることがお出来になります。第Ⅰペトロの1:7にも次のような言葉があります。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストの現れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」

 

 ただ、このような言葉を聞くときにも、あまり悲壮な覚悟をもって聴く必要はないと思います。神はまた、第Ⅰコリント3:14,15において、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」とも仰ってくださいます。

 

 つまり、主の元にある試練は、その主の訓練にお応えすることに失敗しても、私たちを滅ぼすようにはもはや働かないと信じて良いということです。

 

 試練を通して私たちの信仰が精錬されていくならば、神さまからほめて頂けます。しかし、失敗してもほめて頂けないだけで、救いから落ちるわけではないのです。

 

 ルドルフ・ボーレンという人は、私たちは、車が入ってこないように、安全に仕切られた公園に置かれた子どものようなものであるという趣旨のことを言いました。

 

 そこで一生懸命遊んで、一生懸命、衝突しながら、友達関係を作っていって、真剣に泣くことも、真剣に怒ることも、真剣に悩むこともあります。

 

 しかし、そこは、道路からは遮断されているのです。もう、本当に危険なものはないのです。

 

 私たちは、保育園、幼稚園の先生である神さまに見守られながら、それぞれの成長の課題にぶつかりながら、真剣に、しかし、安全に信仰の歩みに取り組むことが許されています。

 

 今、私たちが置かれている様々な危機も同じです。何が起きても私たちはダメになりません。滅びません。大きな失敗をしても、取り返しのつかない失敗にはなりません。神さまがいらっしゃるからです。

 

 コロサイの信徒への手紙3:3が語るように、私たちの命はキリスト共に神の内にしっかりと隠され、守られているからです。

 

 この揺るがない土台の上で、私たちは信仰の冒険をいたしましょう。信仰の探検をいたしましょう。

 

 使徒信条の告白する「聖徒の交わりを信じる」ということが、どういうことであるか、厳しく問われる試練を受けている私たちです。

 

 神が一人子を献げるほどに愛してくださったその熱い熱いぬくもりに生かされている者として、私たちも、神の家族として互いに愛し合おうということを決意し、重んじてきた私たちです。

 

 私たちの愛が理念だけの幽霊とならないように、自分の心を正直に打ち明ける交わり、たくさんの食事を共にすることを具体的に重んじてきた私たち元町教会です。それだけに、私たちの群れにとって、コロナのもたらす制限は、厳しいものです。信仰を揺るがしかねないものです。

 

 けれども、土台まで揺るぐことは絶対にありません。その土台は、私たちの信仰の応答の前に、神が据えてくださった福音の土台だからです。

 

 聖徒の交わりとは何か?改めて問われています。壊れかけているように見えた聖徒の交わりが、決して崩れることはなかったことが明らかになったコリント教会の姿を語る御言葉を読みながら、試練の時代を生きることを許されています。既に、そこに神さまの憐みを思います。

 

 コリント教会がそれを望もうが、望むまいが、私たちは一つではないかとパウロが語り続けました。私たちは既に生死を、聖書原文の順番では、死と生を共にしているのだと。7:3の言葉です。

 

 パウロがどんなに嫌がられても、コリント教会を捨てないという覚悟をしているというのではありませんでした。

 

 キリストの十字架の死と復活の命に結ばれたお互いであるということです。どんなにそりが合わなくても、イエスさまがそれぞれに結びついてくださり、その結果、キリストの一つ体と呼ばれる切っても切り離せない関係に結ばれているのです。

 

 血の家族よりも濃い、神の家族関係がここに作り出されているのです。

 

 日本随一の名説教者として知られた竹森満佐一という昔の牧師が、多少過激な仕方で証ししようとしました福音の揺るがない真理がここにあります。

 

 竹森牧師が牧会した、東京の吉祥寺教会では、会堂で決してお喋りをしない。礼拝が終わったら、お茶を飲んだり、集会を開かずに、直ちに帰路に就くという教会形成をしました。

 

 聖徒の交わりとは、神の家族とは、教会員がお互いに仲良しであることによってはじめて実現するものではない。同じ御言葉の糧を頂くこと、聖餐の糧を頂くことだけが、作り出していることだと信じたからです。隣に座る人の今置かれている状況を少しも知らなくても、間違いなく神の家族であると言い切れるのだと、教会がはっきり知るようになるために、このような教会形成をしました。神の家族は人間の努力ではなく、ただ神さまが作り出されることなのです。

 

 だから、少し脇道に逸れますが、愛餐会ができないことよりも、聖餐に与れないということの方が、神の家族として、聖徒の交わりとしての危機的状況です。そうなると、今の私たちの神の家族としての生命線は、この説教ということになります。

 

 本題に戻りますが、この神様の作り出してくださった事実に、私たちの心はなかなか追いつかないものだと思います。追いつくものではないと思います。教会という集団は、年代や、思想や、趣味や、生まれという環境の近い者同士の一緒にいたいという願いと共感によって生まれる群れではないからです。ただ神さまが呼び出してくださっただけです。神さまが呼び出しがなければ、一緒に集まることはない集団です。だから、合わない人がいて当然、それは教会という集団が、神さまの召し出しによってのみ、結び合わされた集団であることをよく語るしるしになるとすら言えるかもしれません。

 

 けれども、神さまはばらばらのままでいいとはなさいません。キリストの福音は、和解の福音、仲直りの福音だからです。

 

 この福音、一番仲直りできないはずの神さまと仲直りさせるものでありました。そして、この神さまとの仲直りを全ての作られた者の間に広げていくという計画の含まれる福音です。

 

 エフェソの信徒への手紙2:14以下にこうあります。長いですけど、21節まで読みます。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」

 

 このキリストが作り出してくださった隔たった者たちの和解と一致は、教会の外に及ぶものです。同じエフェソ1:10では、「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのものに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」と、全被造物のキリストの元での一致という壮大なビジョンが語られています。

 

 しかし、その一致が、まず、バラバラな者たちを寄せ集めた教会で始まるのです。説教と聖餐の指し示すキリストの出来事が、間違いなく作り出してくださった和解を、この世界はキリストのゆえにすべて取り返しのつかない失敗はない、命を脅かす車の出入りが禁じられた神の作られたプレイグランドであると信じますが、教会は、この世よりもほんの少しだけ、ほんの半歩だけ、成長させられ、そのことを自覚した者たちの群れであります。安心してやってみようと。

 

 このように神さまにしっかり守られ、愛されているのだから、私たちも愛し合おう。今日ここまで語ってきたことの全ては、今日の16節の小さな言葉の中に凝縮しています。

 

「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも、抱かせてくださった神に感謝します。」

 

 ここで言われる兄弟姉妹への熱心とは、愛のことです。この愛は、自分の内側から自然と湧くようなものではなく、神が与えてくださるのです。だから、もしも、愛がないのならば、それは、努力ではなく、祈りの課題です。

 

 「神さま、愛のない私をおゆるしください。どうぞ、あなたの宝であるこの兄弟姉妹を愛する愛をください」と祈り続ければ良いのです。

 

 試練が、福音の黙想へと私たちを促し、福音の黙想が私たちを祈りに促し、神は祈りをお聞きになります。

 

 その時、私たちは自分の愛の大きさ、兄弟姉妹を受け入れる心の広さを誇るようなことを決してしないでしょう。

 

 代わりに神を誇るでしょうと言いたいところですが、新鮮なことに、今日の聖書箇所では、兄弟姉妹を誇ることになるのです。

 

 24節「だから、あなたがたの愛の証と、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証とを、諸教会の前で彼らに見せてください。」

 

 パウロは、誇ったのです。コリント教会良いでしょう?マケドニアの諸教会良いでしょう?テトス良いでしょう?

 

 欠けているところがたくさんあったのに、悪口を言わないのです。真の福音を理解していなくても、懇切丁寧に時には激しく語りかけても、悪口は言わない。異なる福音を語る教師については徹底的に厳しく批判するパウロですが、それに影響されている教会員のことは、決して悪く言わないのです。

 

 これは、パウロが人間ができていたからではなく、悪口を言わないということは、ヤコブの手紙4:11や、第Ⅰペトロ2:1にも、はっきり記されているような初代教会が共通して大切にしたキリスト者らしい姿勢です。

 

 しかも、今日の個所からいよいよはっきりと教えられることは、悪口を言わないという消極的なことでは終わらず、積極的に誇るのです。兄弟姉妹を誇るのです。

 

 このパウロのキリスト者たちを誇る誇りは、コリント教会が真の福音に躓いでいるそこで、既に始まっていたものです。

 

 7:14に、「わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。」とある通りです。

 

 まだ見ぬ将来のコリント教会の姿を、キリストの出来事のゆえに、その死と生にがっちりと結ばれている者であるゆえに、誇ることができたのです。

 

 この誇りが無駄になることはありません。私たちが何度失敗しても、神は私たちを諦めず、捨てず、最後には、この真実の神が、互いへの愛と誇りを、教会から始めて、天と地において真実なものとしてくださるからです。

 

 パウロに与えられた神の愛がマケドニアの諸教会に伝播し、テトスに伝播し、コリント教会に伝播し、今、エルサレム教会に向けられようとしているように、教会を満たし、また、教会を越えて、世の人々の間に入り込み、新しい教会を生み出し続けていくのです。私たち現代の教会も、その互いへの愛と互いへの誇りの繋がりの中で、生まれた教会であることを覚え、神への感謝と、祈りを深めたいと願います。

 

 祈ります。

 

 わたしたちと仲直りしてくださった主イエス・キリストの父なる神様、

国と国、世代と世代、人間と人間を隔て、孤立をもたらすようなものとして、一つの病原菌がわたしたちの生活を席巻しています。ただ困った病原菌だというのではなくて、わたしたちの心にもともと隠されていた隔ての思いが、困難をより一層耐え難いものにしてしまっているように思います。あなたの助けがなければ、自分の判断ばかりを誇り、隣人の罪と失敗を正義の思いで批判する自己義認に一生懸命になり、滅びへとひた走ってしまう私たちです。しかし、あなたはその憐みを出し惜しみすることなく、わたしたちの滅びの前に、御子の十字架を立て、わたしたちが落ちないようにされました。貧しく弱い私たちですが、この福音を喜び、この福音を誇り、あなたに教えられながら、和解の使者として歩み始めることができますように。わたしたちの力を超えることではありますが、あなたがお望みになるのですから、目の前にある兄弟姉妹を、誇り、信頼する信仰のまなざしに、あなたの送られる聖なる霊の御助けによって不器用にでも生き始めることができますように。

 この祈りを、天と地にある全ての者の主として、やがて、一つにまとめられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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