思いを一つに

9月26日 コリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節から12節

あと二回で読み終えますコリントの信徒への手紙Ⅱです。

 

今日の個所で「終わりに、兄弟たち、」と語りだしたパウロの言葉には、手紙の結末にふさわしい挨拶と祝福の言葉が続きます。

 

「喜びなさい」という言葉も、直訳すればこの通りですが、パウロの時代の一般的な挨拶の言葉だと言われることもあります。だから、ここを単純に、「ごきげんよう」と訳す人もあります。

 

そういった意味では、手紙の内容は、もう10節までで終わっていて、ここからは信仰に生きる者同士の手紙の終わりによく記される常識的な言葉が書き連ねられていると言うこともできます。

 

しかし、それにも関わらず、11‐13節までの短い個所は、二回に分けて語らなければならない豊かな言葉であると私は思います。

 

キリスト者達の当たり前の挨拶であるかもしれないけれども、腰を落ち着けて考えるならば、やはり、こんなすごい挨拶だと思うのです。

 

ただの挨拶ではなくて、信仰の神髄を言い表している言葉、これもまた、祝福の言葉であると思います。

 

「喜びなさい」と記された最初の言葉、「カイレテ」というギリシア語です。

 

一般的な挨拶の言葉だと言いました。実は、この言葉を挨拶の言葉として、訳している部分が聖書にはあります。

 

最初に置かれたマタイによる福音書では、ご復活の主イエスが、女の弟子たちに出会ってかけてくださった言葉、「カイレテ」を新共同訳聖書は、「おはよう」と訳しています。

 

これはもしかしたら、ユーモアをもってなされた翻訳なのかもしれません。

 

死の眠りから神によって起き上がらされた主イエスが、弟子たちにかけた第一声だから、「おはよう」と訳すのがふさわしいと考えたのかもしれません。

 

しかし、そこで起きていた事柄をよく味わうためには、他の多くの聖書翻訳がそうしているように、「喜べ」としても良かったかもしれません。少なくとも、このご復活の主イエスの「おはよう」という言葉は、「喜べ」というのが直訳だと弁えておくことも、大切なことだと私は思っています。

 

十字架で死んだはずの方が、今、死から起き上がって自分たちの目の前に立っておられるのです。手を伸ばせば触れられる距離、その方の呼吸の音、息遣いが、聴こえてくるのです。

 

死んだままの方ではなく、体ごと甦ったお方として、死を打ち破ったお方として、その方の発する声が大気を震わせ、しっかりはっきりこの私の鼓膜を打つ喜びの音となるのです。

 

「喜べ!!」

 

喜べ!!私は甦った!!喜べ!!私は死を打ち破った!!喜べ!!私こそ君達の主だ!!

 

この声を聴いた女の弟子たちは、主イエスに近寄り、その足をしっかりとかき抱き、ひれ伏し拝んだと言います。喜んだのです。喜びが爆発したのです。

 

ここに私たちの主がおられる。ここに私たちの救い主がおられる。本当に畏れるべきお方は、この方以外には、もうどこにもないんだ。人間を奴隷化しようとする全ての力から解き放たれて、私たちのために命すら捧げてくださったイエス・キリストの父なる神のものとなったのだと。

 

私は、今日のパウロの挨拶の言葉、終わりの勧めの言葉を聴こうとするとき、この福音書に記されたご復活の主と女の弟子たちの姿を思い起こすことは、理解の助けになることだろうと思います。

 

使徒パウロが命令形で「喜びなさい」と語るとき、これがご復活の主イエスの第一声であることを忘れ、ただ信仰者の生活の戒めとして、聴くことはもはやできないのです。

 

もうお分かりのように、「喜びなさい」「喜べ」という言葉は、命令形ですけれども、命令などではありません。

 

ご復活の主イエスの声に重なる、喜びへの招きの声です。難しいことではありません。とても常識的なことです。

 

考えてみれば、「喜びなさい」「喜べ」という言葉は、この言葉のままではないかもしれないけれども、私たちも今まで何度も何度も聴いてきたし、自分でも言ってきたと思います。

 

そして、私たちは、この命令形の言葉を聴いたそのすべての機会に、「喜ばなければ」と身を固くしたことなどはないのです。むしろ、この言葉に張りつめていた緊張を解き、体も心も頬も緩められ、喜んだのです。

 

喜びなさい!!今日の夕飯は、ハンバーグよ!!喜べ!!お前がずっと欲しがってた、マフラー買ってきたぞ!!

 

こんな風に、バリエーションを変えて、今まで何度も何度も聴いてきたし、語ってきたと思います。

 

喜べ!!給料上がったぞ!!喜びなさい!!手術は成功しましたよ!!喜べ!!無事、赤ちゃんが生まれたよ!!

 

私たち自身本当によく知っているように、「喜びなさい」という命令形の言葉は、命令ではなく、私たちの所にやってくる喜びを指さしながら、そこに招き入れる喜びへの招きの言葉です。

 

もちろん、パウロが語りかけるこの言葉を聴くコリント教会の目に見える状況は、喜べるようなものには見えません。

 

教会の外の世界にだって見られないような不品行、非常識がまかり通る罪にまみれた教会であり、彼らは、それを真正面から見つめ、恥じなければならないし、悲しまなければならない。

 

そのような悲しまざるを得ない教会の罪を暴くパウロが、「喜びなさい」と言ったって、いったい何を喜べばいいのか?と思うかもしれません。

 

けれども、自分の罪を悲しみ、恥じ、悔い改めることが本当にできるようになるのは、実は、パウロが直前で語った「イエス・キリストがあなたがたの内におられる」という事実に気付くこと、どんな私であっても、こんな私とイエス・キリストは共にいてくださるという驚くべき事実に気付くこと、そこに自然と湧き上がってくる喜びに出会う時だけに、初めて向き合える悲しみと悔い改めなのです。

 

それは5節後半に戻るまでもなく、11節自身の言葉の内に、使徒パウロがなお、コリント教会のことを、「兄弟たち」と呼ぶ声からも、気付かされる喜びの源泉であると思います。

 

心と心が離れてしまっているように見える者たちのことをなお、パウロは兄弟と呼ぶのです。同じ信仰に生きているとすら言えないのではないかという者たちに向かってさえ、変わらずに、「兄弟たち」と呼ぶ。それは、イエス・キリストがなお、コリント教会の者たちの兄弟でいてくださるからです。「兄弟たち、喜びなさい」という言葉からは、ご復活のキリストの「喜べ、私はあなたがたの兄弟となった」という生ける声が響いているのです。

 

パウロの言葉を貫いているものはこのようなキリストの声です。権威あるキリストの宣言が、パウロとコリント教会の関係を支配しているのです。だから、パウロから遠く離れてしまったコリント教会が、なお、パウロの兄弟であり続けます。

 

キリストの声は、教会を超え、天地万物に及ぶものでありますが、まず、教会において、目に見える出来事とされています。洗礼という目に見える出来事に基づいて、人間的に言えば、ほとんど破綻している関係にある者に向かって、なお「兄弟」と呼びかけることができる消えない繋がりを神がお造りになることを、教会を用いて示されるのです。

 

教会の一致とは、人間的な親しさによって、見えるようになるものではないのです。教会が神の家族であるのは、お互いが血のつながった肉親以上に、お互いのことを知りあい、気心が知れているからではないのです。両者の仲の良さが、家族であることを作っているなどというあやふやなものではないのです。

 

お互いの言葉が通じない状況にまで陥ってしまったとしても、目に見えない神との関係、人と人との家族というほどのつながりは、洗礼によってキリストの体なる教会の一員に加えられるという形で、実現されているのです。

 

このキリスト者を造り、教会を造り出す神の主権、キリストの支配が、パウロの言葉を貫いているということは、11節の後半に続く、「完全な者になりなさい。」「励まし合いなさい。」という二つの勧めの言葉においても、共通していることです。

 

実際、この二つの勧めの言葉は、原文では受け身の形で書かれており、「完全な者とされなさい」「励まされなさい」あるいは、「慰められなさい」という意味です。語りかけられるコリント教会はあくまでも受け身です。

 

その直接の主語は、パウロのこれまで語ってきたすべての言葉によってということでしょうが、しかし、シンプルに言うならば、「神さまによって」、「キリストによって」ということなのです。

 

私たちの間にはいつも神がおられるのです。ただパウロの味方としてではなく、コリント教会の味方としてもです。パウロに叱られるコリント教会の味方としてキリストがおられ、崩れている彼らを回復し、慰めてくださるのです。だから、この勧めの言葉は、勧めの言葉であるよりも、これ自体が慰めの言葉であります。崩れかけているコリント教会に対する神の回復の約束です。

 

その二つの受動形の勧めに続く、「思いを一つにすること」、「平和を保つこと」、この二つの勧めは、すべて、このキリストの主権が造り上げる私たちの現実に、私たちの側でもより添うようにとの勧めです。

 

つまり、教会はただ一致していればいいのではありません。教会はただ、平和であればいいのではありません。

 

ただただキリストにお従いすることにおいて思いを一つにすること、キリストを王と戴くことにおいて、分裂せず、一つでありなさいということです。

 

だからもしも、キリスト以外の人間的な思い、人間的な主権が、教会に入り込んでくるならば、その思惑と、妥協し、平和を保とうとしてはなりません。

 

もう一度、キリストの主権、私たちを壊すのではなく、造り上げてくださるキリストの主権が見えるようになるために、容赦のない厳しい態度がとられなければなりません。

 

けれども、できることならば、パウロがまだ離れたところから手紙で語っている内に、自己反省と、自己吟味によって、立ち直ってくれることを、パウロは求めるのです。

 

もう時間がないので、これ以上、丁寧にまだ説いていない箇所を語る時間はありませんが、12節の最後の言葉に簡単に触れておきたいと思います。

 

コリント教会の立ち直りを求めるのは、コリント教会を建てあげた、言わばコリント教会の生みの親であるパウロだけの願いではありません。12節の最後に、「すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです」とあります。

 

一つの教会の持つ痛みは、全教会の痛みです。どんなに小さい部分であっても一つの部分が痛めば、世界と歴史に広がる全教会という体全体が痛むのです。

 

一つの教会の信仰の有様というのは、自分たちだけの問題では済まないのです。一つキリストの体である公同なる教会全体の問題であります。

 

コリント信徒への手紙Ⅱを次回で読み終えるにあたって、このことを私たちの心に深く刻んでおきたいと願います。

 

コリント教会に対するパウロの叱責の一つは、コリント教会が一人で勝手に、王様になったつもりであったことでした。それは勘違いにすぎませんでしたが、自分たちは、他より抜きん出た教会だと思い込んだのです。しかし、一人では、一つの教会では完全な者となることはできないのです。

 

けれども、それは同時に、どんなにひどい勘違いと、思い込みに一つの教会、一人のキリスト者が捕らわれたとしても、私たちは、一人で、一つの教会で、取り返しのつかない失格者になりきってしまうこともあり得ないということです。

 

私たちの信仰がひどく病むときがあったとしても、一教会の枠組みを超えて、キリストにある信仰の兄弟たちが、私たち自身の健やかさになってくれる。そういうことがあり得るのです。

 

それは自分で参考になる教会を探し出し、選び取っていくものではなく、パウロを送り出した教会、パウロを支えるいくつかの教会のように、私たちの健やかさとなってくれる神より与えられた教会、聖なる者達があるのです。

 

それはとても具体的なことであり、私たちにとっては、まず何よりも北陸連合長老会に属する諸教会のことと言うべきだと思います。

 

決してそれだけに留まりませんが、特にこの8つの教会は、お互いの教会の健康も痛みも自分のこととして、重んじる約束をお互いに交わしている諸教会であります。

 

教派、教団を越えて、全国、全世界を越えて繋がる一つキリストの体なる教会のネットワークであります。しかし、まずは具体的に触れ合い、あいさつを頻繁に交わし合えるキリストに結ばれた目に見える兄弟として、私たち金沢元町教会に、それらの諸教会が与えられていることを神に感謝したいと思います。

 

 

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