弱さを誇る

7月11日 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章7節b~10節

今日司式者に読んで頂いたパウロの言葉は、聖書の中でも最も有名な言葉の一つではないかと思います。主イエスの山上の説教の言葉のように、教会の外にも広く知られた言葉ではないかもしれませんが、キリストを信じる者たちにとっては決して忘れることのできない、心に、いいえ、存在に焼き付いてしまっているような言葉ではないかと思います。

 

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

 

「身に一つのとげ」と表現されるような、弱さ、痛み、何かの病気であったと考えられていますが、そのような自分の存在に食い込んでいる四六時中自分を煩わせてやまない棘のような弱さを取り去ってくださいと、パウロという人が、主なる神様に三度祈った末に、与えられた言葉でした。

 

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

 

弱くていいんだ。これからも弱いままでいいんだ。身に一つのとげが刺さったままのあなたが、わたしが望むあなたの姿だと、主なる神様がパウロに向かって語ってくださったのです。

 

この神の言葉を語り聞かされたパウロは、今、教会に向かって宣言するのです。「わたしは弱いときにこそ強い」。むしろ、この言葉の方が有名かもしれません。

 

「わたしは弱いときにこそ強い」。

 

信仰に生きる者の喜び、キリストに結ばれた者の強さ、これから私たちが死に至るまで口ずさみ続けることを許されている歌が、ここにあります。この小さな言葉の中にわかりやすく、誤解しようのないくらいはっきりと、これから後、私たちが歌い続けることのできる命の言葉がここに露わになっています。

 

「わたしは弱いときにこそ強い」。

 

一所懸命に飾り立てていた虚飾がはぎとられ、裸のみじめな自分が晒されてしまう時も歌うことが許されています。「わたしは弱いときにこそ強い」。

 

老いによって、今までできていたことがひとつづつ取り去られて行く時も、いよいよ大きな声で歌うことが許されています。「わたしは弱いときにこそ強い」。

 

私たちの心と体を苛み、損なう肉体の病、心の病が、どうしようもなく私たちを捕えてしまった時にも、歌うことが許されています。「わたしは弱いときにこそ強い」。

 

私たちが弱いときにこそ強いならば、それら私たちを弱い者にしてしまう色々な力が私たちを攻撃し、私たちを損なう時にこそ、ますますこの言葉は、私たちの力となります。

 

けれども、最初に申し上げた通り、これは教会に生きるキリスト者たちにとっては、忘れることのできない魂に刻印されたような聖書の言葉ですが、今のところ教会の壁を越えて、永遠不変の真理として、聞かれてはいないでしょう。

 

たとえば、同じパウロの言葉である「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」と始まる愛の賛歌とか国立国会図書館の壁面に刻まれるヨハネによる福音書の言葉「真理が我らを自由にする」などに比べれば、誰もが納得できるような言葉ではないからです。

 

なぜならば、「わたしは弱いときにこそ強い」というパウロの告白は、今挙げた二つの言葉と違って、直ぐに、私たちの経験から、後付けられるようなものとは到底思えないからです。

 

むしろ、私たちの経験上の実感から言えば、私たち人間が生きていく中では、自分が持っている弱さというのは、常に障害となっているものです。

 

私たちの持つ弱さは、私たちが健やかに、力強く生きていくことを邪魔している。この弱ささえなければ、もっと幸せに、もっと健やかに、もっと楽しく、もっと自信を持って生きていけるのにというとげを抜きたい抜きたいと思いながら、生きている私たちではないでしょうか。

 

もちろん、無病息災ではなくて、一病息災なんていう言葉もあります。一つくらいの病があった方が体をいたわるから、むしろ長生きできるという言葉です。同じように一つくらい弱点があった方が、謙遜になれるし人の痛みもわかるから、結局、人生上手く行くという風に「わたしは弱いときにこそ強い」という言葉を理解できないわけでもありません。

 

けれども、パウロを苛むとげはたった一つきりのとげなんかじゃありませんでした。それを取り去ってくださるように神に祈り求めた一つのとげ、それはあくまでも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」との不思議な神の言葉が語られるきっかけとなった一つのとげでした。

 

しかし、10節を見れば、この人の置かれていた状態は一病息災なんてものではありませんでした。「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」、四方八方からパウロに刺さり、パウロを弱らせるとげだらけなのです。

 

その具体的な内容が、少し前の11:23以下にずらずらと並べて書かれていました。いちいち確認しませんが、そのどれ一つをとっても小さなとげとは言えない、生き死にに関わるような苦難の連続でした。

 

それらの苦しみが、どれほどパウロの心と体を回復の望めない、一生背負い続けなければならない障害やトラウマとなる弱さへと至らせただろうかと想像に難くありません。

 

そこにさらにもう一つ加えられた「一つのとげ」です。かろうじて何とか心と体のバランスを取って生きていたパウロをぽっきりと折ってしまうような「一つのとげ」です。これは気力を奮い立たせること、やせ我慢を続けることを不可能にする最後の最後の一手です。「サタンから送られた使い」、悪魔的としか言いようのない最後の一撃です。

 

その一撃が加えられた時、三度祈ったと言います。本当に限界だったのです。その時、神はパウロにお答えになりました。

 

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

 

主なる神は、パウロにぽっきりと折れてしまうことをお許しになるのです。少し弱いところがあるからこそ、しなやかな強さに生きられるということではなくて、折れることをお許しになったのです。そして、完全に弱り切ったパウロでいいと仰ったのです。

 

私たちの経験を超えた言葉です。納得しようのない言葉です。だから、人の心を惹きつける不思議な魅力を持った言葉ではありますが、世界の名言集の中には、あまり選ばれることのないような言葉だと思います。

 

けれども、主なる神様は、この世の法則とか、永遠不変の真理とは認めがたいこの言葉を、御自分の真実の言葉としてパウロにお語りになりました。

 

だからこれは、この言葉が真実となるためには、神ご自身が、この世の理を打ち破って介入されなければ真実とはなりえない、そういう種類の言葉です。

 

なぜ、主なる神様は、私たちが弱くなっていくことをお許しになるのか?サタンの一撃が加えられて弱り切ってしまうことをお許しになるのか?なぜ、主なる神様は、パウロの祈りに応えて、私たちの祈りに応えて、身に刺さるとげを抜いてくださらないのか?

 

わたしがあなたのために生きて働くからだ!!と神が覚悟されているからです。わたしがあなたの命となるからだ!!と、主なる神が決意されているからです。神である私が、あなたに与えるもの、あなたにくだす恵み、それは私自身だ!!と天地の造り主が宣言しておられるのです。

 

神が私たちに与えようとされている恵み、それは神ご自身なのです。それはパウロがここでもはっきりそう呼び掛けているように、わたしの主、私の主人となってくださるということです。

 

私たちの祈りは小さいです。キリスト者であろうが、なかろうが、大それた幸せを願っているわけではありません。何とか生きて行かれればいい。ささやかに生きて行かれればいい。

 

「とげを抜いてください、そうでないと折れてしまうから、このとげを抜いてください。そうすれば、何とか我慢できます。何とか生きていけます。たくさんの試練は背負っていきます。でも、これだけはどうか抜いてください。生きていかれなくなってしまうからこれだけはどうか抜いてください。」

 

でも、そのささやかな願いを持つ私たちをポキッと折ってしまう悪魔的な一撃があるのです。それが怖い。それが恐ろしい。

 

そしてその一撃が加えられるとき、私たちはキリスト者であろうがなかろうが、きっと心に浮かぶのです。神も仏もあるものか。

 

神のために全身全霊を投じて生きたパウロという伝道者の、身に刺さったひとつのとげ、しかし、彼の渾身の働きのゆえに、サタンの一撃となってしまう一つのとげ、彼がそのために苦労を背負い込んだ神が、そのとげを三度の祈りにもかかわらず抜いてくださらないのならば、一体神とはいかなるお方なのでしょうか?

 

けれども、そこで聴こえてきたのです。

 

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

 

わたしはそのとげを抜かない。あなたにサタンの一撃が加えられるのを許す。しかし、そこでこそ代わりに私自身を与えるのだ。わたしがあなたの主となるのだ。わたしがあなたの命となる!!

 

そんなことどこに書いてあるのか?と、もしも、思われる方がいるならば、9節、10節に語られるキリストという言葉に、注目して頂きたいと思います。ここで、パウロが思い出したように、イエス・キリストその方を思い起こし、よく考えて頂きたいと思います。

 

弱さの中でこそ発揮される力とはキリストの力のことです。より正確には、今、私たちと共におられるキリストのことです。

 

貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中にお生まれになったキリスト、枕するところもなくこの地上をカインのようにさすらってくださったキリスト、十字架にかかり犯罪者の一人として死んでくださったキリスト、陰府、すなわち、地獄に落ちてくださったキリスト、すなわち、私たち人間の完全な兄弟となってくださったキリスト。

 

インマヌエル、神は私たちと共におられる。神は私たち罪人、この貧しく弱り切った者と共におられる。神はキリストにおいて私たちの側におられる。私たちの味方であられる。私たちにご自身を与え尽くしておられる。神がキリストにおいて、とげまみれの私たちにお与えになるのは、ささやかな健康でもなく、弱点の克服でもなく、好ましい性格でもなく、ちょっとした幸運でもなく、言葉そのものの意味において、十字架のキリスト、すなわち神御自身です。

 

それで十分です。十分以上の恵みです。それ以外の何が必要なのでしょうか?もしも、これ以外の神の恵みがまだ隠されているはずだと探し出そうとするならば、それはまだ、神が私たちと共におられるということ、インマヌエルということが、まだ少しもわかっていないのです。

 

しかしそれも、悪過ぎることではないと思います。パウロが、更に一歩、この恵みを深く味わうようにされたように、十字架のキリストの恵みを味わうことができるということだからです。

 

必ず、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とガラテヤ2:20で、パウロが告白した主にこの私を生きて頂く喜びをくださるのです。

 

幸いなことに、この恵みを味わうためには格別な努力が必要だということはありません。私たちが願わなくとも、避けたくとも、やってきてしまう弱さの中でこそ、見つけることになる恵みだからです。天に引き上げられることによってではなく、下り坂の中でこそ、イエスさまが私たちと共におられ、私たちの主人となってくださり、このわたしを生きてくださる恵みは見出されるのです。

 

主よ、飼い葉桶と十字架のキリストよ、死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れません。あなたが共におられるからです。

 

苦難の中でこそ、本当の友が明らかになります。十字架のキリストに現わされた主なる神こそが、今ここで、既に、若い者にとっても、老いた者にとっても、健やかな者にとっても、病める者にとっても、生きる者にも、死なんとする者にとっても、私たち人間の友であり、味方であり、この私たちの主人であられます。新しく始まる一週間、私たちを弱くする何が待ち受けていたとしても、勇気を持って、歩み出してよいのです。私たちは弱いときに強いのです。祈ります。

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