お隣の小松市にあります小松教会は、私たちと大変親しい関係にある教会の一つです。その小松教会が、一昨年、会堂を新しくしたということは、まだまだ記憶に新しいことであると思います。
木造の暖かな雰囲気のある素敵な会堂です。市の街並み景観賞も頂いた、見ごたえのある建築です。まだご覧になっていない方は、是非、機会を捕らえて、見に行かれたらいいと思います。そして、できたら、外からご覧になるだけでなく、中も見学させて頂いたら、良いと思います。
私が特に印象深いと思っているのは、その天上の形です。大きな梁が会堂を貫き、その梁を支えるように、いくつもの横木が天井から出ています。まるで、天上が、舟の骨組みのような形をしているのです。これはキールトラスと呼ばれる構造で、キールとは、まさに船の一番大事な骨組みである竜骨という意味があるそうです。
松島牧師に聞いたことですが、その船の骨組みは、外まで続いていて、教会堂の外側に、その舟の舳先、船首に当る部分がある。そして、その舟の船首に当る部分に、十字架が取り付けられていると言います。まるで十字架を先頭に、航海する舟のような教会というわけです。とても、印象深い教会堂です。
実を言えば、このような船の形を模した、あるいはその雰囲気を一部取り入れたような教会堂というものは、案外、少なくありません。
私もいくつか、そういう教会堂を訪れたことがありますし、ネットで、「礼拝堂」、「舟の形」と検索すれば、いくつかの教会堂がヒットします。
何で、教会堂を作ろうとすると、舟の構造を参考にすることがあるかと言えば、そこには、教会が昔から自分たちのことを舟のような存在と考えてきた理解が背景にあります。
たとえば、マストを十字に見立てながら、波間に浮かんでいる小舟として教会をシンボリックに表すマークをお見かけになったことがある方もいらっしゃると思います。
そういう理解は、たとえば、今日共に読んでいる聖書個所が、背景になっています。
信仰を持つということはどういうことか?主イエスの弟子となることです。そして、その弟子、主イエスのものとして、主イエスに従ってまいります。
主イエスに従って生きていくとはどういうことかというと、ここでは、主イエスと同じ舟に乗ることだという風に理解しているのです。
けれども、主イエスと共に乗り込む舟は、それほど大きな舟ではありません。湖に浮かべるほどの舟、湖が波立てば、沈没してしまいそうになる舟です。
信仰に生きる、洗礼を受けてキリスト者となる、神のものになりきる生活というのは、波風のない平穏の人生を約束されるというようなものではないということだと思います。
家内安全、子孫繁栄というようなことは、保障されませんで、人生の波風立てば、それに応じて、揺れ動くような旅路を辿ると暗示されているようです。
けれども、初代のキリスト者たちは、この出来事を特に大切にしました。自分たちを大船に乗ったものではなく、小舟に乗った者として理解することに満足致しました。この物語がそのように大切にされたということは、これがマルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも記録されていることからはっきりしていると思います。
しかも、過去に起きた印象深い歴史的出来事としてだけ、大切にしたのではないようです。やがて、教会が、自分たちのことを主イエスと同じ舟に乗った存在と見做していったように、初代のキリスト者たちも、既に、この物語の中に自分自身の姿を見ていました。特に、マタイによる福音書においては、その記述の端々に、そのことがよく伝わってくる書き方をしていると言われます。
それは、弟子たちの最初の言葉遣いではっきりわかります。最初に書かれた福音書であるマルコでは、波と風に悩む弟子たちが、主イエスに呼びかけた言葉は、「先生」という呼びかけです。ルカもマルコに倣い、「先生」という呼びかけであったとします。
ところが、マタイにおいて、弟子たちは、「主よ」と呼びかけます。
これは旧約以来、信仰者たちが、天地を創造された主なる神さまを呼びかける時に用いた言葉です。
このことに気付いたある聖書学者が、次のような趣旨のことを言います。
この「主よ」という旧約聖書的な神への呼びかけである言葉の後に続くのは、「助けてください」、「救ってください」という言葉だ。これもまた、信仰者の基本的な祈りの言葉だ。
マルコによる福音書が、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」と伝えた言葉を、マタイは、「主よ、助けてください」という礼拝と生活における信仰者の、実に基本的な祈りの言葉に置き換えている。しかも、その後に続く「おぼれそうです」という言葉も直訳すれば、「滅びてしまう」ということだ。これは、まさに、世の終わりに訪れる滅びからの救いを意識した教会らしい信仰の言葉、祈りの言葉だというのです。
ここには、最初の弟子たちの姿ばかりでなく、この福音書を書いたマタイの教会の人々の姿も重ねられている。
マタイは、しばしばそういうことをいたします。マタイによる福音書は、十字架前の弟子たちの姿と主の復活後の力づけられた教会の姿が、混然一体となるような書き方をしていると言われます。その点、ルカはもう少し、そのあたりを整理していると言います。けれども、これは、マタイによる福音書の短所でなくて、長所です。マタイは、最初の弟子たちの姿の中に、今を生きる自分たちの姿をそのまま見ているのです。そこで起きていたことが、そのまま自分たちの身に起きていることだと捉えているのです。聖書の御言葉、主イエスの出来事と一つとなった自分たち教会の生活を描くのです。
私たちもまた、この教会の朝晩の祈祷会や、恵みの分かち合いというグループでしているデボーションとか、黙想と呼ばれる聖書の読み方をするとき、同じような経験をしていると言えます。
デボーションとか、黙想とか、深読法、あるいは、静思の時と呼ばれる聖書黙想は、色々な起源と方法がありますが、ようするに聖書の言葉を、他の誰でもない今自分に語りかける生ける神様の言葉として聞こうとする素朴な聖書の読み方です。
私もみずき牧師も、色々な背景の教会との繋がりがありますから、そのそれぞれの方法をそれなりに知っていますが、特に、これをじっくり習い覚えたのは、説教塾という牧師の訓練のための自主的な学習グループにおいてです。
辞書とか、注解書とか、神学書を紐解く前に、素朴に聖書に向かい、黙想しなければ、決して説教の言葉は与えられないと習いました。
このデボーションとか、黙想地丘呼ばれる聖書の読み方には、色々なアプローチの仕方があると思いますが、私がこの黙想と呼ばれる聖書の読み方を習った時、口を酸っぱくして教えられたのは、マタイがしたような御言葉との出会い方です。
祈祷会に出席されている方は、何度か私が同じような発言をしているので、どういうことだろう?と、心に留まっている言葉があると思いますが、私が徹底的に教えられたことは、聖書を読む時、まず解釈して、それを自分に適用するという手続きを取らないということです。
自分で意味を確定し、聖書はこういうことを言っているから、それを自分の生活に適用するとどうなるか?というような読み方ではなくて、聖書の言葉が主導権を握るように読みなさいと教わりました。
キリストの出来事、御言葉それ自身が、適用する必要もなく、今、わたしに語りかける言葉として迫ってきます。
それは、詩編119:130が語る「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」という経験だと教わりました。聖書の言葉を何度も何度も読み、もちろん、自分の置かれた状況のあのこと、このことを思い起こしながら、しかし、基本的には、「御言葉の光」を待つのです。すると、冷凍されてしまっているかのように見えた聖書の言葉が、熱を帯びて、迫ってきます。
そして、その開かれ迫ってきた聖書の熱を帯びた言葉が、私たちの方を解釈します。聖書の言葉を私の生活に適応するのではなくて、私の生活が、聖書の物語の中に取り込まれていきます。そういう主導権の転換、解釈するものと解釈される者の転換が黙想と呼ばれる聖書の読み方で起こることだと、私はさんざん教えられました。
これは、私たちが聖書を読む上での、考え方の転換を意味しますので、一回聞いただけでは十分に理解できないと思います。今まで参加されたこともない方も、是非、水曜日の朝晩に行われている祈祷会に、参加し、実践の中で、少しづつ、時間をかけて、光が射して御言葉が開かれるという経験を実際に重ねることによって、学び取っていただければと願っています。
いささか、脇道にそれたような話をしましたが、今日の聖書個所において、そのような聖書の読み方、御言葉との出会い方を、マタイという人、その教会はまさにしているのだと思い黙想についてご紹介しました。
マタイの教会からは一世代離れているはずの最初の弟子たちに起こった歴史的な出来事の内に、完全に自分たちとその生活が組み込まれているのです。これは今、私の身に現に起きていることだと、悟り、キリストの出来事を読み、かつ語っているのです。
私たちはキリストと共に小舟に乗っている。その小舟が嵐の中にいる。聖書を解釈し、自分の生活に適用しなければ、それが現実にならないということはないのです。
むしろ、キリストの出来事が、だからそれを通して語りかけていてくださる神が、時空を隔てた今の教会である私たちと、私たちの生活を御言葉によって解釈してくれるのです。
あなたは嵐の中にいるね。あなたは漕ぎ悩んでいるね。あなたは、溺れそうになっているね。あなたは、共にいて下さるはずのキリストが、眠りこけてしまっていて、あなたの危機にちっとも関心を持っているようには見えなくなっているんだね。あなたの信仰は、そのために、小さくなってしまっているね。
聖書がそういう風に私たちを読み解くんです。自分では言葉化できないような不安や、疑いに、御言葉が、形を与えてくれます。
マタイによる福音書がこんな風に、はっきりと、嵐に見舞われた最初の弟子たちの姿と自分たちの姿を重ね合わせながら、その弟子たちの言葉の内に、自分たちが日曜日ごとに、また生活のただ中で口にし続けた「主よ、助けてください」という言葉を聞き取ったということは、私たちにとっても慰め深いことだと私は思います。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と最初の弟子たちが叫んだ言葉は、主イエスへの抗議の言葉、嘆きの言葉です。そういう言葉は、教会で口にするのには、不敬虔で、不信仰だと私たちが思うような種類の言葉です。
「神さまは私からそっぽを向いているようだ。神さまは、私の危機には目を閉ざし、眠ってしまっておられるようだ。神さまは私を無視している。神様は、私がおぼれ死んだってかまわないと思っているようだ。」
私は牧師としてここまであからさまでなくても、こういう嘆きを聞くことがあります。「神さまは私の小さな祈りにもこたえてくださらなかった。神様を信じているのに、次々と、試練がやってくる。もう限界です。」
そういう言葉を聞くと、神さまを弁護したくなってきます。「いや、神さまはあなたを見捨ててはおられない。神さまは家内安全を約束される神じゃない。苦しみに耐える力を与えてくださる神だ。それは信仰のイロハのイじゃないですか?だから、その嘆きは間違っている。苦しみの中でも神様は共にいて、支えてくださっている。むしろ、信仰の現実に気付き、神を讃えなさい」とここまではっきりと言葉には出さなくても心の中ではそう言いたくなります。嘆きを禁じたくなります。
けれども、マタイは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」という泣き言を、「主よ、助けてください。」という自分たちキリスト者の基本的な祈りの言葉と聞き取ったのです。この嘆きはわたしたちの日毎の祈りそのものじゃないか?毎週日曜日、やっとの思いで教会に来て、私たちが捧げている礼拝の姿そのものじゃないか?
主は、私たちの嘆きを、祈りとして聞いてくださる。私たちの泣言を祈りとして聞いてくださる。私たちの心の内に、浮かんできては、私たちが、これは神に語るべき言葉ではない。これは、家族にも、友人にも、信仰の仲間にも理解してもらえないし、非難に値すると考え、押し込めてしまうような嘆きは、「主よ、助けてください」という祈りだと、理解されるのです。
しかも、私たちが、聖書を素直に読めば、このような理解は、少しも、例外的なことではありません。
私たち人間の嘆きというのは、聖書の中に、しっかりとした場所を確保しています。
たとえば、私が今日の聖書個所を心に貯えるように読みながら、思い起こすのは、詩編の祈りの言葉の数々です。
「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください。」(44:24)
あるいは、「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(13:2)
また、あるいは、「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」(90:13)
神が眠り、神が隠れ、神が私を捨てておられる。そういう祈りが、詩編という私たちの祈りの模範の一部として与えられています。
さらに、神の御前における私たちのこの嘆きの許可は、旧約のヨブ記において極まるものです。
たとえば、ヨブの次のような言葉を思い起こすことができます。
「神よ/わたしはあなたに向かって叫んでいるのに/あなたはお答えにならない。/御前に立っているのに/あなたはご覧にならない。/あなたは冷酷になり/御手の力をもってわたしに怒りを表される。/わたしを噴き上げ、風に乗せ/風のうなりの中でほんろうなさる。/わたしは知っている。/あなたはわたしを死の国へ/すべて命あるものがやがて集められる家へ/連れ戻そうとなさっているのだ。」
そして、ヨブ記の中で、極めて、印象深い有名な言葉をこの嘆きの後に、述べます。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。/見よ、わたしはここに署名する。/全能者よ、答えてください。/わたしと争う者が書いた告訴状を/わたしはしかと肩に担い/冠のように頭の結びつけよう。/わたしの一歩一歩を彼に示し/君主のように彼と対決しよう。」
ヨブは神様と対決します。あなたはわたしの敵となった、あなたはわたしを不当に苦しめている。私とあなたどっちが正しいか、裁判の席に出て良いとヨブは言うのです。
このようなヨブの態度は、主なる神さまによって、「これは何者か。/知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。」というお叱りを受けることになります。人間であるお前に神である私のすることすべてを理解することはできないと言われるのです。
けれども、全てを見通すことのできない人間であるゆえに、だから、その無知のゆえに神に嘆き訴えることしかできないヨブの嘆きは、間違いであり、誤った嘆きであるとは決してされなかったのです。
むしろ、主なる神さまを告発するようなヨブの嘆きを聞くのに耐えられなくなり、「神様の御計画は人間には最後にならないと分からないんだから、嘆くのはやめなさい」だとか、「神様は正しい人を守り、悪人に罰を下す方だから、気付いていないかもしれないけれど、あなたにも悔い改めるべき隠された罪があるんだ」とか、苦しみの理由を説明して、嘆きを止めさせようとしたヨブの3人の友人たち、神を弁護しようとしたこの3人に向かってこそ、主なる神さまは、「私はお前たちに対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」と仰いました。神の弁護をしたはずの彼らは、嘆きを封じることによって罪を犯し、神を告発するように嘆くヨブの執り成しを必要としたのだと聖書は語ります。嘆くことが許されています。
ここで、もう一つ、私たちが思い起こすことが許されるのは、ゲツセマネと、十字架の上での主イエスのお姿だと思います。主イエスは神の御前に、血のしたたりのような汗を流すほどに苦しみ悶え、ついには、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と誰よりも深く嘆かれたのです。
もちろん、この主イエスの嘆きは、主イエスが私たちに代わって、このような苦しみを受けてくださったゆえに、私たちは、もう嘆く必要はないということの根拠です。けれども、同時に、私たちの嘆きに、主イエスが、声をそろえてくださり、私たちが、主なる神の前で、嘆くことを支えてくださることの根拠でもあります。
だから、ある人は、教会に託された人と人との慰めの対話の働きが、健康に機能しているかどうかを見極める基準として次のようなことを言いました。
「キリスト者と教会が語る言葉が真実の慰めとなっているかどうかを計る基準は、われわれが、嘆きの場所を確保し、保証して、神に逆らう嘆きを神に向かって述べさせることができているかどうかということなのである。」
考えてみれば、私たちが嘆くことができるのは、主が近くにいて下さるからです。嘆く声が誰にも聞かれないならば、私たちは、心と口を閉ざす以外にはありません。
けれども、私たちが嘆くことができるのは、この嵐に見舞われている小舟の中に、主イエスが共におられることを知っているからです。主イエスに気付くから嘆けます。
じっと嵐に耐えていた者が、自分の乗っている舟に同船している主イエスに気付くならば、緊張が緩むのです。強張っていた心と体に血が巡ってくるのです。すると、喉のあたりに詰まっていた、かたまりがすっと取れ、嘆くことができるようになります。嘆くことができるということは、それは、息をすることができるようになったということです。
マタイによる福音書において、味わい深いのは、主が目覚めて私たちの側におられることを教える主のお言葉は、主がその権威あるお言葉によって、嵐をお静めになった後ではなく、嵐の真っただ中で語られたということです。
嵐のただ中で、主は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ。」と、私たちに語っていてくださるのです。
あなたの信仰は薄い、あなたの信仰は小さいと、主は仰るかもしれない。それは、明らかにお叱りの言葉です。私たちはその小さな信仰からやがて、出て行かなければならない。けれども、嵐の中で、その言葉を聞けるなら、私たちはそのお叱りの言葉すら嬉しいのです。その言葉が響く時、嵐の中で、主が私たちの傍らにおられることがはっきりするからです。
私は隠れていない、私は寝ていない。私はそっぽを向いていない。この嵐の中の小舟にあなたと一緒に乗っているあなたの救い主、あなたの主だ。
主がそれをわからせてくださいます。嵐の中で、この教会でわからせてくださいます。ここに私たちの姿があります。
もしもこの中に、いや、自分は教会という舟には乗っていない。まだ乗船することをためらっている。いや、たまたま今日ここに居合わせているだけだという方がいるとしたら、是非、次のことを知っていただきたいと思います。
主イエスに従って舟に乗り込むということは、自分で大きな決断をすることだと思っているかもしれません。
けれどもある人は言います。「この物語は、私たちが、主イエスと共に舟に乗ることだ、と理解している人が多いけれども、私はそうは思わない。そうではなくて、クリスマスの時に、主イエスが、地上に生まれてくださったのと同じように、私どもの舟に、主イエスが乗り込んできてくださったのです。私どもの舟は、そうでなかったら、滅びに飲み込まれるはずでした。けれども、今は、主イエスが乗り込んできてくださったのです。だから、もう沈まない。そういう話なのです。」
私はこのような聖書の読み方は正しいと思います。自分のこととしてそう思います。私がキリストの元に飛び込んだのではなくて、私が嵐の中にいる時に、キリストが私の元に飛び込んできてくださった。私の翻弄される人生の小舟に、主イエスが乗り込んでくださった、いや私が気付くよりもずっと前に、乗っていてくださった。私は、そもことを御言葉から教えられ、私のことをご自分のものと仰るその主の言葉に、後から「その通りです」と同意しただけです。
洗礼を受けたキリスト者の数だけ、そのような証しがあると思います。ここにいる洗礼を受けたキリスト者全員にとって真実なことは、自分が教会に結ばれているということは、私が選んだんじゃなくて、神が選んだということです。従う、服従するというのは、まさにそういうことだと思います。主イエスがなしてくださったことの、後から着いていくのです。
私たちが主イエスと同じ船の中にあるということは、もう既に、2000年前に、主イエス・キリストが、この世に飼い葉桶の中にお生まれになった時に、済んでしまったことです。私たちに残されていることは、そのことに気付くだけです。けれども、気付かないからと言って、その事実は変わることがありません。私たちの信仰よりも、主が共におられる事実は確かなことです。
そして、その主が共におられる事実こそが、私たちの嘆きを可能にしてくださいます。「主よ、助けてください。主よ、おぼれそうです。主よ、助けてください。」
嘆きを聞いてくださる方がいるのです。私たちの嘆きに耳を傾けてくださる方がおられるのです。強張った心と体の緊張を緩めて、ほっと息をつくように、今日ここで、主の御前に嘆くことが許されているのです。それが、主イエスと共なる小舟であるこの群れの姿、私たちの姿です。
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