小さな小さな教理の話 No.18

「贖罪論④犠牲の供え物としての十字架」

 

 聖書の証しする私たち人間の救いの中心的出来事、それは主イエス・キリストの十字架です。

 しかし、なぜ、主の十字架が私たちを救うのか?

 聖霊に導かれる教会が読み取って来た恵みの一つは、私たちの罪を贖い、神様の御前に立てるようにする「犠牲の供え物としての十字架」の姿です。

 自分自身ユダヤ人であった初代のキリスト者たちは、主の十字架を救いの出来事として受け止めて行った時、旧約聖書の「動物犠牲」という祭儀のイメージを受け継ぎ、人間の罪を解決するために神が捧げられた「犠牲の供え物」と理解したのです。旧約では、年に一度の「贖罪日」(レビ記16章)に大祭司が至聖所に入り、契約の箱の蓋(ギリシア語では、ヒラステイリオン)に、犠牲の動物の血を振りかけます。これによって、民と自分の罪を贖い、至聖所という神の臨在の場所に生きて立つことが許されます。この贖いの祭儀がなければ、大祭司と言えども、生ける神様の前に立つことはできません。

 このような罪を贖う犠牲としての十字架理解の典型は、ローマの信徒への手紙3:25以下に見られます。そこでは、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」と語られます。

 旧約とキリストの出来事の並行を強く意識する『ヘブライ人への手紙』は、キリストの十字架を贖罪日のいけにえと並行して理解しながらも、より完全なものと強調します。ヘブライ書は10:12で「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き」と語ります。

 旧約の伝統を継ぐ者にとって、犠牲は、神と人間を隔てていた罪を取り除く力です。

 旧約において贖罪日の動物の犠牲は毎年、献げなければなりませんでした。けれども、御自身をいけにえとして献げる祭司キリストの犠牲により、神殿の垂れ幕は真っ二つに裂け(マルコ15:38)、神と人とを隔てるものは永遠に完全に取り除けられたのです。

 その他、マタイ26:26以下の最後の晩餐における聖餐制定の言葉や、ヨハネ福音書1:36の主を指して「見よ、神の小羊だ」と語られた表現にも、犠牲としてのキリストの出来事の理解が示唆されています。この犠牲としての十字架の理解は、アタナシオス、アウグスティヌスなどの古代教父を通じ、西方教会の主要な理解となり、私たち改革派のカルヴァンの贖罪論にも、大きな影響を与えています。

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