小さな小さな教理の窓№7「二ケア信条(原二ケア信条)」②
原二ケア信条は、唯一の真の神を信じる教会が、なぜイエス・キリストをも礼拝しているのかという自省の中で、教会の信仰を言い表すものとして325年のニケア公会議で採択されました。キリストは父なる神より劣る存在であり、最高の被造物に過ぎないと主張した司祭アリウスらに対し、公同の教会は、それまでの教会の礼拝体験と、聖書のキリスト証言に基づき、司教アタナシオスによって整えられたこの信条によって、イエス・キリストが、「父と同一本質」の神であられると公式に言い表しました。この信条によって、キリストをいくら尊敬していても、このお方を神として拝まないならば、それを教会の信仰とは言わないことが明確になりました。次のニケア・コンスタンティノポリス信条では、最後の呪詛の言葉は取り除かれることになりますが、当初は、それを付け加えなければならないほどに、アリウスの異なる福音によって、真の福音が脅かされていたということなのでしょう。短い信条なので、全文をご紹介したいと思います。
われらは、唯一の神、全能の父にして、見えるものと見えざるものすべての創造者を、信ず。
われらは、唯一の主イエス・キリストを、信ず。主は、父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生れ、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生れ、父と同一本質であって、天地の万物はすべて主によって創造された。
主は、われら人類のためまたわれらの救いのために下り、そして肉体を受け、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生者と死者とを裁くために来り給う。
またわれらは、聖霊を、信ず。
それゆえ、主に存在しない時があり、生まれない前はおられず、また存在し得ぬものより生れ、神の子は、異なる本質、あるいは異なる実体より成り、造られ、変化しうるものである、と宣べる者らを、公同なる教会は、呪詛排斥する。
(磯部理一郎訳)
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