小さな小さな教理の窓No.3

小さな小さな教理の窓№3「教理の言葉にはどこで触れられるのか?」

 信仰の養いとして聖書を読もうとするキリスト者、また、教会の公式な聖書解釈を知りたいと願う全ての人にとって、「教理」はとても大切なものであることは何となく分かって来て頂けていると思います。

 そうなると、がぜん興味が湧いてきます。聖書の大冒険に乗り出すための地図となる教理、教会の公式な聖書解釈は、実際に、どこで私たちが手に取り、触れることができるのか?長く教会生活を送って来た方でも、聖書の決定版的副読本と言えるような教会公認のガイドブックなんて見たことない、手にしたことはないと思われるかもしれません。

 しかし、実は、私たちは毎週毎週、知らず知らずの内に、最も大切なガイドブックの一つに触れ続けています。それは、「使徒信条」です。これこそ聖書66巻の、教会による公認の要約と呼べる文章の一つです。洗礼を受けるとき、聖書全体を読んだことはなくても、この使徒信条の言葉を一通り学んだという方は、けっこう多いのではないでしょうか?これを告白できれば、聖書全体に流れる一筋の神様のご意思を知った。洗礼に必要な準備は整ったと言えるのです。教会公式の聖書解釈である教理の言葉は、なんと言ってもこのような「信条」に表わされているものです。

 実は、この「信条」と名の付く文章、「使徒信条」に限られたものではありません。~信条と名の付く教会の文章はたくさんあります。中でも使徒信条も含めた「古代信条」と呼ばれる五つの古い信条がとても大切です。

 この五つの古代信条は、もちろんプロテスタント教会諸派の間で共有されているものです。また、それだけでなく、500年前に分かれたローマ・カトリック教会とも、さらには、1000年以上も前に分かれた東方正教会とも、ほぼ共有しています。全然違うように見えるそれぞれの教会ですが、五つの古代信条の範囲では、ほぼ同じ信仰に立っています。また、逆に、キリスト教系の異端と呼ばれるグループの有名どころのほとんどは、この古代信条の範囲の外に出て行ってしまっています。キリスト教会がキリスト教会であると言えるためには、まず何よりも、この古代信条の線に沿って、聖書を読んでいるかどうかが分水嶺となるのです。

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