小さな小さな教理の窓№2「教理が教会公式の聖書解釈である三つの理由」
前回、教理とは、信仰者、または信仰を求める者が、広い聖書の世界を迷わず旅するための公式旅行ガイドブックのようなものというお話をしました。このガイドブックの公式たるゆえん、信頼に値する理由は、どこにあるのでしょうか?とりあえず次の三点に基づいてと言えるでしょう。
①聖書に基づいているから。
私たちの信仰と生活の旅路のガイドブックは、何よりも聖書です。しかし、聖書はあまりにも大きく豊かで、それ自体が小宇宙のようです。そこで聖書全体を見渡すための地図として、教理が生み出されました。だから当たり前のことですが、教理は、聖書から引き出されたものです。特に、私たちプロテスタント教会は、教会の伝統的教えや教会会議の決定であっても、聖書に典拠がない教えは、私たちの信仰と生活の規範とは認めません。教理は、私たちのガイドとなるものですが、その理由は、教理自身が、聖書に基づいているからであり、その限りにおいてです。
②信仰に基づいているから。
教理は、科学者が客観的に観察するような仕方で、聖書を読んでまとめられたものではありません。しかし、そこが良いところです。そもそも客観的に聖書を読もうとする人は、聖書を要約できるとは決して考えないでしょう。聖書の中身は、書かれた時代も場所も著者も違う、66冊の書物の寄せ集めだからです。その書物群を、なお一冊の書物と受け止め、要約する為には、その背後に、唯一の神の思いが貫かれているという信仰が無ければできません。教理は、教会が、信仰に立ちながら読んだ聖書の要約なのです。だから、教理は、注解書よりも信仰の養いに役立つのです。
③広い同意に基づいているから。
唯一の神の思いが貫く書物として聖書を読んでも、自分だけの読み方に留まるのでは、まだ教会的信仰とは言えません。自分が聖書から読み取った神の御心を、教会の教理と照らし合わせることができて初めて、教会を建てた同じ神様の御心を、自分も聴けたと言うことができるでしょう。教理は、一人の天才の聖書解釈ではなく、多くの信仰者たちの激しい議論の末に同意された教会の聖書解釈です。しかも、そこに聖霊の導きを信じるのです。信仰の養いとして聖書を読む時、座右において、参考になるのは最新の聖書学に基づく一流の学者の書いた注解書よりも、長い歴史の風雪を耐え抜いた質実剛健な教理の方が、よほど頼りがいがあるのです。
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