小さな小さな教理の窓№15「贖罪論①」 2023.6.18
長く間が空きましたが、これまでに、この欄で五つの古代信条を簡単に学んできました。
大雑把に振り返るならば、使徒信条と二つの二ケア信条は、基本信条と呼ばれるものでした。その他の二つの信条も、これらの基本信条をより厳密に告白するためのものでした。これらの古代信条は、全キリスト教会の公同の信仰(フィデス・カトリカ)を言い表したものです。その線を外したら、同じ一つのキリストの体とは言えない本当に大切なものです。
教会がこの基本信条によって、特に確認しようとしたのは、「神は三つにして、一つにいます」という三位一体論と、「キリストは、真の神であられると同時に真の人であられる」というキリスト両性論です。特に洗礼のための信仰告白を起源としている使徒信条以外は、そこに集中していると言えます。
けれども、教会の教え(教理)は、三位一体論とキリスト両性論に限られるものではありません。
組織神学の一つの常識的な区分に従えば、創造論、人間論、聖書論、教会論etc…あります。
しかし、その中でも教会の教えの中心を形作っている教えの一つは、何と言っても贖罪論であると言って良いと思います。 贖罪論とは読んで字のごとく、罪の贖いの教えのこと、神との和解の教えのこと、救済の教えのこと、具体的には、キリストの十字架による私たちの罪の赦しの教えのことです。私たち教会は、教会のしるしとして、十字架を掲げています。これは私たちの信仰の中心です。実際、三位一体論、キリスト両性論の公同の信仰を確認した教会は、イエス・キリストの十字架による私たちの救いを、どういう救いの筋道であるかと問う贖罪論に集中していくことになりました。
この小さな学びでは、歴史を細かく追っていくことはできませんが、教会の歴史上に登場し、今も私たちの贖罪理解を作っている贖罪理解のパターンである賠償説、充足説、刑罰代償説、道徳感化説、勝利説について、簡単にご紹介していきます。 |
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