10月31日 ガラテヤの信徒への手紙 3章13節
私事から話し出すようで恐縮ですが、二番目の子どもが、来年、小学生になるものですから、先日、金沢市の就学前健診というものに行ってきました。
入学前の健康診断というわけですが、子どもたちが、健診を受けている間に、親たちを集めて、臨床心理士の先生による教育講演会というものがありました。
主に小学校入学前に育てておくべき子どもの心の成長という内容でした。
発達心理学の視点からお話しされましたが、もう私たち現代人にはお馴染みになりました基本的信頼感ということを強調されていました。
この世界は素晴らしいんだ。いつも私のことを助けてくれるんだ。私も価値ある人間なのだという基本的な、自己肯定感を持つことが大切ということだと思います。
先生が強調されたのは、この基本的信頼感が育っていることを前提として、小学校の教育があるということです。
小学校に入ると、じっと椅子に座って授業を受ける忍耐と勤勉性、人と一緒に過ごす協調性、人と比べられ、順位を付けられることを受け入れる受容力などを育てていくことになる。しかし、そのすべての前提となるのは、基本的信頼感であり、これは小学校入学前に育っている必要のある心ですよというのです。
しかも、これは、成長の早い段階、1歳くらいまでの間に果たされる心の成長だというのです。
私の書棚にある40年前の発達心理学の本にも同じことが書いてありますので、これはもう、ほとんど一般的に周知され、常識として受け入れられていることだと思います。
ところがこれを知った親たちが、子どもの基本的信頼感を上手に育てられるようになったかと言えば、簡単にそういうことはできないでしょう。
その講演会でも言われたことは、むしろ、心の成長ができていないケースが増えてきているということです。
全く残念なことでしたが、その講演では、じゃあ、どうすればいいのか?ということについては、全く触れられませんでした。
大切な知恵の言葉を聴きましたが、子どもが来年、小学生になる親にとっては、もはや手遅れという呪いの言葉として響いてしまったのではないかと思います。
発達の段階をきちんと踏んで、基本的信頼感が満たされ、その土台の上に、自立性、自発性が養われ、いよいよ小学校に入学して勤勉性を獲得していく。そうすれば、健康、健全な人間として、成長していける。学校でも、社会でも問題行動を起こさず、また、自分も幸せと生きがいを感じながら、生きて行ける。
それはそうでしょう。けれども最初の一歩で躓けば、その後はずっとその躓きを引きずっていく。何かおかしいと気付いたときには、もうとっくに手遅れだと言われる。
なぜ、今日の説教をこういう話から始めたかと申しますと、ここに宗教改革者ルターが見ました律法の働きと同じものがあると思ったからです。
十戒をはじめとする神の律法というものは確かに良いものです。もしも、それに従って生きて行くことができるならば、私たちは円満で成熟した人間として生きて行くことができます。
しかし、躓いてしまった者にとっては、その神の知恵の言葉は、呪いの言葉として働くのです。
ルターによれば、その良い知恵の言葉が、私たちを生かすことはないのです。なぜなら、私たちは、最初の所で躓いてしまったからです。
聖書は最初の数ページでアダムとエヴァの堕罪物語を語っています。良きものとして造られながらも、躓いてしまっている存在として、描き出されています。
歴史的な史実としてこの堕罪物語をまともに読むことは現代人の多くにとってはほとんど不可能なことでしょう。
しかし、それにも関わらず、良いことを知らないからできないのではなく、知っていてもできないという、私たちが度々経験する現実は、この原初の物語が、弱い私たち自身の姿そのものであることを物語っているように思えます。
どんなに良い指針、どんなに良いガイドラインであったとしても、その知恵が私たちにとっては、呪い以外のなにものでもなくなってしまう。
本日、10月31日は、宗教改革記念日です。今から504年前に、マルティン・ルターが、人間の手垢にまみれて輝きを失ってしまったイエス・キリストの福音の輝きを、もう一度、輝かせるようにと、神によって、押し出された記念の日です。
そのルターが、はじめにやったことは何であったのか?
意外に聴こえるかもしれませんが、弱く足りない者を呪いに定める律法を取り除くことではありませんでした。
むしろ、神の律法の働きとは、人を呪いに定めるように働くことをはっきりさせるということでした。
最高最善の知恵の言葉、それに従うことができれば私たちが素敵な人生を送り、幸福な生涯を送れること間違いなしの神の知恵の詰まった人間の課題表が、私たち人間の弱さと足りなさのゆえに、呪いとしか響かないということをはっきりとさせたのです。
知恵の言葉に表された課題を満たすことができれば、幸せになれるけれども、手遅れ、わかっていてもできない。そのことをはっきりさせたのです。
私たち人間はこの良い言葉に照らし合わせて呪われているんだ。この良い言葉によって裁かれる他ないんだ。
それゆえ神の真実の知恵の言葉である律法は、実は、それを守って幸せになるように与えられているものではなく、自分がどうにもならない失格者であることを、わからせるために与えられているものだと言うのです。
それゆえルターが何よりもまず、人々に語りかけたことは、私たちの全生涯が悔い改めとなることでした。この悔い改め、続く95ヶ条の文章の中では、ルターらしい過激な言葉であると思いますが、「自己憎悪」と言い換えられています。
ドキッとする言葉です。我々は生涯、自己憎悪しなければならない。聴いていて苦しくなる言葉だと思います。
けれども、この生涯に渡る悔い改め、自己憎悪への招きは、ルターが聖書から神の言葉として聴きとったものではありますが、神の罰として受け取ったのではないのです。
神の送られた律法は、すべきことができなかった呪われた者である私たちであることを明らかにし、悔いの中に自己嫌悪しながら生涯を生きるように私たちを追いやります。しかし、それは、私たちを苦しませるためではなく、自分で自分を救うことはできないと納得させるためでした。
もうどうにもならない、お手上げだと、助けを求めるようにさせるためでした。それも、何か、特別な困難に向き合う一瞬ではなく、生涯の全ての瞬間が、私たちにはどうにもならないお手上げのものだと理解させ、全生涯に渡る助けを求めさせるようにさせるための律法の働きなのです。
すなわち、自力による救済から、イエス・キリストによる救助に信頼し、その身を預けさせるためでした。
今日お読みした聖書は次のように語ります。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』」と。
私たちを呪われた者と宣言する律法です。使徒パウロは、木にかけられたキリスト、十字架のキリストが、私たちをその呪いから贖い出したと宣言いたします。律法によって露わになってしまった私たちの呪われた状況を、十字架のキリストは吸い取り紙のように私たちの呪いをご自分の内に吸い取られたのです。
私たちのためにキリストが、私たちと一つであるどうしようもない罪人となり、私たちの代わりにキリストが呪われてくださったのです。
それゆえ、ルターは、このキリストが私たちに代わって呪いを引き受けてくださった事を真剣に考えるとき、私たちは自分のことを次のように信じるように招かれているのだというのです。
「それだから、罪は、たとえ認められ、感じられても、実際には存在しない。なぜなら、パウロの神学によれば、罪も死も呪いももはやこの世にはない。われわれを呪いから解放するために、呪いとなって、世の罪を取り除かれた神の小羊であるキリストの内にある。」
神の知恵である律法が明らかにした私たちの弱さ、私たちの足りなさ、私たちの罪です。発達心理学の言葉によって、手遅れだと責められ、呪われてしまうどころではないのです。
神の知恵である律法が明らかにした私たちの弱さ、私たちの足りなさ、私たちの罪は、取り返しがつかない。私たちではどうにもならない。
しかし、私たちには手の施しようがない、どうにもならないものが、キリストの十字架によって取り除かれたのだと聖書は証しします。
私たち人間の原罪とも言うべき呪いが、取り除かれたと宣言するのです。人間が健康に発達するために欠かすことのできない基本的信頼感どころの話ではありません。
もっと手前で、もっと基本的な所で、最も深い所において、私たちの生涯を暗いものとして覆ってしまっていた躓きが、キリストの十字架によって取り除かれたのです。この躓きが取り除かれているなら、基本的信頼感を獲得できなかったなどということは、神のまなざしにおいては、小さなことに過ぎません。
それを罪の赦しというのです。それを救いと言うのです。
神話的なアダムとエヴァの堕罪物語によってしか描き出せないような、だれ一人例外なく、まるで遺伝子レベルで私たちの存在の奥底に沁みついている呪いが、取り除かれているのです。
その最初の躓きによって、鎖のように私たちの生涯に連なって現れる私たちの過去現在将来の全ての罪は、キリストの十字架に引き受けられ、赦されただけでなく、その根っこを断ち切られたのです。
切り花のように、なおしばらくは、罪は生き生きとしているかのように見え、実際に、罪に負けてしまうように見えるときはありますが、勝負は付いています。罪と死は枯れます。
代わりに、私達が新しく接ぎ木されたキリストの命が、この私たちを枝として永遠に花開きます。この世にある呪いをもたらす全ての律法の言葉を凌駕して、私たち人間の最後の現実となるのは、キリストの命に生きるということです。
ただし、これは神の尺度から見られるものであり、この地上では、罪の花の方が大きく、キリストの命は小さな若葉に留まり続けるかもしれません。
けれども、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)。
私たちは、見える罪の現実ではなく、見えない義の事実である、キリストに注目するならば、罪も死も呪いもないと、今、ここで言うことが許されているのです。
ところが、このように福音の言葉を聴きとる同じルターが、自分の失敗によって、取り返しのつかない自分の足りなさ、自分の欠け、自分の罪が露わになってしまったと嘆き悲しむ、若い牧師に書き送った慰めの手紙には、こう記すのです。
「ひたすらな思いで、私どもの主キリストのゆえに、お願いします。どうぞあなたご自身で立とうとしないでください。…どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしか救い出すことができないような小さな、頼りない存在にしてしまわないようにしてください」。「ああ、あなたは絵空事の、まさに絵に描いたような罪人になりたがっておられる。だからこそ、絵空事の、まさに絵に描いたような救い主だけを得ようとしておられる。正しく真実の事柄のなかに身を置いていただきたい。そしてこのことに習熟していただきたい。キリストはあなたの真実の救い主、あなたは真実の、大いなる、呪われるべき罪人であることに習熟していただきたい。神がみ子を送ってくださり、私どものために献げていてくださっているのに、神を軽んじ、絵空事を抱えてうろうろしないでいただきたい」。
キリストのゆえにもはや罪も死も呪いもない、それが信仰における事実だと信じる人が、私のような本物の罪人になれ、真実の、大いなる、呪われるべき罪人であることを、よく弁えろと勧めるのです。
みなさんはどうお聞きになりますか?矛盾と感じるでしょうか?義人となり、神の子とされた者は、自分は呪われた罪人だと言い続けることは、キリストの救いを台無しにし、神さまの恵みに逆らうことだとお考えになりますか?
ルターも、カルヴァンも、宗教改革の信仰に生きる者たちは、決してそのように考えなかったのであります。
なぜならば、キリストの赦しを本当に受け取った時にだけ、はじめて自分の罪と死と呪いを見ることができるようになるからです。
それゆえルターもカルヴァンも、私たちが生涯、キリストの教え子であり続けることを大切にしました。
洗礼を受け、もはや絶対に、自分が神の子でなくなることはあり得ない、自分は未来永劫キリストのものだと安心して言えるようになったキリスト者たちこそ、心の棚卸し作業を始められるのです。
キリストの学校において、今までは決して認めることのできなかった、認めてしまったら、自分が壊れてしまうと思っていた、自分の弱さ、自分の足りなさ、自分の呪われた罪を、少しづつ、認めることができるようになるものだと私は思います。
全部なかったことにしてしまうのではなくて、キリストの十字架によってこそ、少しづつ認められるようになるものなのです。
これは一朝一夕でできることではありません。それこそ、生涯をかけて、見たくもない自分の罪を見ることが続くのだと思います。
けれども、それは少しも、嫌なことでも、罰を受けているようなことでもないと私は思います。
なぜならば、キリストが兄弟となってくださった私たち、キリストが愛してくださった私たち、キリストが私のものだと宣言してくださった私たちとは、私たちが忘れて、なかったことにしようとしてきたその私たちのことであるはずだからです。
もちろん見なくとも、私たちが私たちのために呪われてくださったキリストのゆえに、100パーセント完全に神の子であることに変わりはありません。私たちが私たちの罪を見る瞬間、それは既に赦されているのです。
安心して心の棚卸しをしながら、深い深い暗がりに隠れた本当の私を、キリストの赦しの光で照らして頂くのです。その度に、自分に注がれていた圧倒的な恵みを、さらに深く味わうことができるのです。キリストの教え子にとっては、呪われた自分の罪を認める度に、キリストの恵みはますます甘いものとして味わわれるのです。
キリストの学校では、入学前に、育てておかなければならない心などありません。どんなに優れた指針であったとしても、呪いとなってしまう律法はもはやありません。これが宗教改革によってもう一度発見された、キリストの福音であると私は信じます。
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