天の父の声を見分ける

先週の日曜日は礼拝後に、み言葉の分かち合いの会がありました。その日に聞いた説教をグループに分かれて、自分は何を聞き取ったか、お互いに語り合い、聴いた説教をさらに深める素晴らしい会です。色々な教会の牧師が憧れているような集いです。

私も、なるべく全てのグループに少しでも顔を出すようにしていますが、あるグループで、申し訳ないことですがと前置きをされながら、説教中、よく寝てしまうと仰った方がいました。大澤先生の説教は安心できる眠くなってしまうというわけです。

わたしは、目を覚まして警戒していなくては、何を話し出すかわからないと思われていないことを、感謝いたしました。布団の中の方が、よく眠れるのに、眠たい体を引きずって毎週日曜日に礼拝に来られるというのは、なかなかのことだと思います。疲れ果て、どうしても起きていられないという時は、安心して寝てくださればいいと思います。

実は安心できると眠くなるということは、その言葉を聴いた、二日後にわたしも経験いたしました。

先週の火曜、水曜と中部教区総会がありました。中部教区は、愛知、三重、岐阜、石川、富山、福井の六つの県にある日本基督教団の教会を含んだ教区です。

いくつかの教区の総会に、信徒として牧師として、参加してきましたが、個人的な感想としては、中部教区の総会が今まで経験してきた教区総会の中で、一番教会の会議らしい会議だと感じています。

たとえば、二日間の長丁場ですが、開会と閉会時に礼拝があるのみならず、休憩に入る度に、また、議事を再開する度に、祈りが捧げられます。つまり、数時間ごとに二度祈りが捧げられます。教会の長老会でも、休憩に入る前、議事を再開するときに、祈るということはしていません。これは単純に、教会の会議らしいことだと思いました。

その意味で、安心して会議に参加できました。開会礼拝の説教も、閉会礼拝の説教も、信頼できる先生から、真っ直ぐな福音を聴くことのできる喜びもありました。そんな風に、とても安心して会議に参加できるので、食事休憩の後などは、眠気に襲われて仕方なかったという弊害もありました。

翻って今日の聖書を読み始めますと、主イエスは、「警戒せよ」と警告を発していらっしゃいます。「警戒せよ」とは、安心して眠くなることとは、まさに正反対に、しっかりと目を覚まして注意していることです。

なぜ、しっかりと目を覚ましていなければならないのか?偽預言者が教会の中に入ってくるからだと、言われています。この偽預言者は、「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と言われます。

羊というのは聖書でしばしば信仰者を例えるたとえです。主なる神は羊飼いであり、私たちはその羊だと言います。

その神の羊の群れの中に、狼が紛れ込んでくる。しかも、羊の皮を被った狼です。偽預言者だというわけですから、現代で言えば、牧師と言って良いかもしれません。教会の群れの中に、偽預言者がやってくるから、よく注意していなさい、なんでもかんでも前の羊が歩き始めたからといって確かめもせず、着いて行くもんじゃないと言うのです。

しかも、主イエスの御言葉によると、偽預言者は、羊の皮を身にまとっているわけですから、表面上では見分けがつきません。こういう言葉を読むと、眠るほど安心な説教者であるということに、簡単に自分の胸を撫で下ろすわけにもいかないと思います。表面的には判断がつかないと主は仰います。

すると、皆さんも牧師が偽の預言を語り始めてはいないかと、目を覚ましている必要がありますし、牧師自身も、偽の預言を語り始めてはいないかと自己吟味をしなければならないことになります。

どのように吟味すればよいのか?16節で主イエスは次のように教えられます。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」

語る言葉だけでは、羊か羊の皮を身にまとった狼か見分けることはできないかもしれない。けれども、時が経てば、その語られた言葉が結ぶ実で、羊か狼か見分けがつくようになるというのです。

あるいは、21節の言葉も、一つの判断の基準だと言えます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが、入るのである。」

言葉だけでは駄目。もう少し言い換えるならば、正しい正当な信仰告白をしているだけでは駄目だ。いくら知識の上で正統的な信仰を身に着けていても、行いが伴わなければそれは偽物だと警告されているのだと読めます。言葉と行動が一致した牧師というわけです。

ところが、ここまで読んでくると、これは、ただ偽預言者を見極める際の基準であるというよりも、全ての信仰者を量る秤であり、自分自身を測る基準であるように見えてきます。事実、多くの者が、この箇所を自分の信仰を測る物差しとしてきた言葉であると言えます。牧師だけじゃありません。この言葉に、自分が問われている。全てのキリスト者は、行いの伴わない信仰じゃ駄目なんだと。

こういう言葉を聴いて、それが人ではなくて、自分に向かっていると気付くと、私たちはなんと厳しいことを主イエスは仰るのだろうかと思いつつ、しかし、落ち着いて考えれば、やはり、その通りだと頷きます。

聖書の御言葉をよく知っていて、信仰告白にも詳しい人があっても、いつも不機嫌で、その知識によって人を批判してばかりいる人は、やはり、どこか間違っているのではないかと思う。主イエスは人を愛されたと信じながら、困っている人、傷ついている人に手を差し伸べることができない時、やはり、自分の信仰は偽物ではないかと自問自答します。

厳しいけれども、正しい言葉。自分の信仰と生活の反省を促す言葉として聴きます。行いの伴う信仰者にならなきゃだめだと背筋を正される思いになる。

聖書の全ての言葉を、こんな風に傍観者としてではなく、自分のこととして聴く聴き方というのは、私は、正しい聖書の読み方だと思います。

けれども、ここで主イエスが私たちに求めていることは、言葉と行いが一致した信仰者になることなんだ、そうでない限り、私の信仰生活は偽物なんだと理解します。そのような理解で、自分はこの主イエスの御言葉を聴いたと思うならば、それは少し、早とちりであるのではないかと思います。しかも、主イエスの福音を厳しく理解しすぎているというのではなく、その厳しさの半分しか理解していないから早とちりだと思うのです。

22節以下で主イエスは、実に、こう仰っています。

「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』

ここでは、今度は行為が問題とされています。ここで、かの日にキリストに向かって訴える人々は、口先だけの信仰者ではなく、そのお名前において、預言し、悪霊を追い出し、色々な奇跡を行ったのだと訴えます。つまり、実を結んだ者、しかも、これは良い実を結んだ者の言葉です。

なぜならば、ここで挙げられる三つの行為は決して悪い実と言うようなものではありません。権威ある者として語り、悪霊を追い出し、病の癒しなどの奇跡を行ったのです。ここで語る者の姿というのは、明らかに主イエス・キリストそのお方の歩みと重なるものです。

キリストの名において、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を起こす者は、キリストの御名において、まるで小さなキリストのように語り、行為する輝く人間の姿です。

その輝く人間が神の前に立ちながら語る情景が語られています。終わりの日の情景というからには、人間の言葉と行為が何であったか究極的に明らかになる状況設定だと言えます。そこで、ある人が語りだすのです。「自分は口先だけの信仰者ではなかった。預言し、悪霊を追い出し、色々な奇跡を行った。」ただの自惚れではなく、信仰と行為の一致を自他共に認めるだろう者です。この人は、私たちが到底自信を持って言うことのできない信仰の歩みを作ったのです。ところが、そういう者に対して、終わりの日には私は言おうとキリストは仰います。

「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

たとえば、13節の言葉の流れから、ここでも、命に至る狭き門、細き道の話題が続いていると読むこともできます。するとここでは、狭き門、細い道とは、口先だけではなく、正しい信仰理解に正しい行為が兼ね備わった歩みのことを言っていると理解することができるかもしれません。

そこではまず誤ったことを語る偽預言者が排除され、次は、正しい言葉を語っているかもしれないけれど、行いの伴わない者が排除され、どんどんその道は細くなっていきます。

命に通じる門が、どんどん狭くなって、細くなって、22節では、言葉と行いが高い次元で統合されている人間の姿が、浮かび上がってくる。

私たちはその姿に気後れを感じつつも、けれども、本当の信仰者というのは、事実、そういう者でなければならないと思うような人間の姿です。

けれども、23節に至って、その細い道すら、主イエスの御言葉によって完全に潰されるのです。わたしの名によって、預言し、悪霊を追い出し、数々の奇跡を起こしてきたと言う者達よ、「あなたたちのことは全然知らない。」

15-23節の主イエスの御言葉は、こんな風に、丁寧に読んでみると、私たちが普通理解しているよりも、ずっと厳しい言葉であることに気付きます。

丁寧に主イエスの御言葉を辿っていくと、どんな人間もその言葉の前に、立つ瀬がなくなってしまいます。これは私たち人間に対する徹底的な裁きの言葉であると思います。

この裁きの適用範囲は、聖書の信仰に生きているわけではない者だけに関わらず、洗礼を受けたクリスチャンであろうが、その中でも、皆に一目置かれる言葉と行いの一致した立派な信仰者であろうが、違いはありません。どのような信仰や、行いを差し出しても、その捧げものをもって、神に受け入れられることは、あり得ないということだと思います。

ナチスドイツに極めて強く抵抗した、ボンヘッファーという神学者がいました。この人は、まさに、信仰と行いの一致したキリスト者です。実際に、ナチス政権を転覆させることを目指して活動して、捕らえられ、処刑された人です。多くのキリスト者が時代の声に迎合していくのを目の当たりにし、行いのない信仰がどれほど、頼りないものであるかを身に沁みて経験した人だと言えます。

しかし、とても驚かされることだと思いますが、その人が、この主イエスの御言葉に対して、今私たちが辿ってきたような聴き方をしたのです。

一体誰が神に受け入れられるのか?誰が主イエスに受け入れられる者となるのか?

どんどんと狭くなり、細くなっていく道のりは、ついに、神の御前における人間の誠実さの限界点に至ります。けれども、そこでも「あなたがたを全く知らない」という言葉が響く。

ボンヘッファーはこれこそが、山上の説教のはじめからこの終わりに至るまでを包んでいる秘密であると言います。

終わりの日に神の御前に立たせれる日、その日には、私たちの信仰告白も、行いに結実する神の御言葉への従順も役に立たないと言います。それが、山上の説教を貫いている主イエスの心だと言うのです。

これは信仰と行いを含めた私たち人間の営みに対する徹底的な消極的判断、私たち人間が生み出し、作りだすものに対するネガティブな評価、より聖書に即した言葉遣いで言えば、人間に対する裁きの宣告であると思います。

私たちの生み出すものは神の永遠の前に、何一つ持ち堪えることができません。

そこにはいったい何が残るのか?私たちは何も残らないではないかと思う。

けれども、ボンヘッファーは一転して言います。「その時われわれに残っているのは、『わたしはあなたを知っている』というイエスの言葉である。」

神の御前に立つ背のない私たちを浮かび上がらせるのは、キリストの恵みです。

自分の信仰にも、行いにも、誠実さにも、何も頼ることはできない。自分の中には、永遠に通じるものは何もない。けれども、キリストは、その貧しい者に対して、「わたしはあなたを知っている」と語ってくださる。そこに、私たちの唯一の居場所があります。

聖書の教えには、躓きがあります。七日間の天地創造とか、死者の復活とか、いくつもの躓きがあると思います。

その躓きのメッセージの中の一つに、人間は罪人だというものがあると思います。これは、聖書の記述は科学的ではないと言うより、もっとずっと深刻な躓きのメッセージであると思います。自分が問題とされ、その自分にネガティブな評価が下されるからです。

けれども、これは、きちんと受け入れて頂かなければならない。しかも、これは、洗礼を受けたいと志す者が完全に理解し、受け入れなければならないと言うのではなくて、むしろ、わたしを含めたキリスト者の名をもって呼ばれる者こそ、改めて受け止めるべきことではないか、少なくとも、マタイによる福音書7:15以下の主イエスの御言葉は、イエスを主と呼ぶもの、何よりも教会にこそ向かって語られているように思います。

あなたは、自分が洗礼を受けたキリスト者であることを誇ることはできないんだ。それどころか、あなたの正しい信仰告白を誇ることはできないんだ。あなたは、信仰と行いが一致したキリスト者ならではの歩みをようやく造ることができたときも、一切、誇ることはできないんだ。

そうやって広い道に立っていたと思い込んでいた私たちの道も、狭まってきて、細くなってきて、立つ瀬がなくなる。自分の足では全く立てなくなる。けれども、その主イエスの言葉の前に倒れた貧しい者に、「わたしはあなたを知っている」と語ってくださる主イエスなのです。

すると、全ての人が同じ地点にあることになります。

つまり、キリスト者であろうが、洗礼を受ける前であろうが、私たちを救うのは、この主イエスの御言葉、主イエスの恵みだけなのです。

その意味では、ルターが、95か条の提題の第1条として、最も大切なキリスト者の姿として語った、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい…』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」との言葉は、生涯かけて私たちが貧しい者、キリストの物乞いであり続けるように、その事実を忘れないようにとの招きであったと思います。

そのことを忘れ、この世の人は気づかないけれども、我々こそが見つけにくい命への門にこの足で立っているのだと誇るならば、それは、主イエスが叱られたファリサイ派の道にいつのまにか、教会が陥っていることになるのだと思います。

けれども、私たちは、喜んで、自分が罪人であることを真剣に受け入れますし、そこにいつでも立ち返りたいと思いますし、世の人々に向かっては、あなたもまた頭のてっぺんからつま先まで丸ごと罪人であると大胆に告げたいと思います。

もちろん、それは人に向かっては裁いて、やっつけるためではありません。自分に向かっては、意気消沈して、びくびくした自我を生み出すためでもありません。

そこにこそ、本当の明るさが生まれると思うからです。そこでこそ、誰にも何にも屈しない全肯定されている人間として生きられると思うからです。

これは何も難しいことではありません。複雑さはどこにもありません。とてもシンプルなことです。ここで主イエスは、私たちがこれこそ神に愛されるための人間の側の要件と思い込んでいるものをことごとく潰し、全身で恵みに生きよ語られるのです。

本当に条件なしに愛されるということです。私が大きなマイナスを抱えたままで、キリストの父なる神に本当に愛されるということです。

そのような確信に生きることが、福音に生きるということです。そのキリストの豊かな赦しを告げ合うのが、教会の交わりです。教会の外に向かっても、内に向かっても、条件を言い出したら、それこそ偽預言者になってしまうのです。

宗教改革者ルターは、罪を犯して、自分が牧師失格だと自分を責めていた同僚牧師に向かって、とても印象的な手紙を書きました。少し長いですが、お聞きください。是非、自分へ向けての言葉として聞きたいことです。ルターはこう言います。

「…どうぞ私共、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください。そのようにしてキリストを絵空事の罪からしか救い出すことが出来ない、小さな頼りない存在にしないようにしてください。キリストは私共の救い主として私共に遣わされた方です。キリストだけが救いうる方です。とんでもなく大きな罪、呪い、違反、罪業から救いうる方です。最大最悪の、要するに地上の罪すべてを犯した者も救いうる方です。…ああ、あなたは絵空事の、まさしく絵に書いたような罪人になりたがっておられる。だからこそ絵空事の、まさしく絵に書いたような救い主だけを得ようとしておられる。正しく、真実の事柄の中に身を置いていただきたい。キリストはあなたの真実の救い主、あなたは真実の、大いなる、呪わるべき罪人であることに習熟していただきたい。神が御子を送って下さり、私共のために捧げてくださっているのに、神を軽んじ、絵空事を抱えてうろうろしないでいただきたい。」

御自分を十字架にささげたキリストを見れば、大胆に自分が罪人であることを認めることができます。どんな罪も、牧師であること、教会員であることを、もう止めなければならないと思う過ちも、それこそが、キリストが語っておられた罪、キリストが十字架で負われた絵空事でないリアルな罪であるのです。

ある説教者は次のような趣旨のことを言います。今日聞いている聖書個所において、全ての者を神に裁かれるべき人間、神より「あなたのことは知らない」と言われなければならない罪人であることを隠すことなく語られたキリストが、殺されたということを、私たちは忘れてはならない。しかも誰に殺されたのか?偽預言者に殺されたんだ。私たちは不思議なことに気付くが、そのキリストの十字架において、「あなたがたを全く知らない、不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と退けられたのは、偽預言者ではなく、イエス・キリスト御自身であったんだ。主イエスが、十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、私たちは偽預言者として裁かれないようになった。主イエスは、私たちのために、私たちの立つべきところに立ってくださったんだ。

そして、言います。「この主イエスのお姿、この主イエスに対する神のなさり方の中で、私どもは、他のどこにおいて、神のみこころがわからなくなっても、ここでは、それがわかる場所、神は私どもの父であられるのだ、ということがよくわかる場所を確保するのです」と。

信仰にも頼れず、行いにも頼れず、「あなたがたを全く知らない」と言われざるを得ない立つ瀬のない者たちにこそ、キリストにおける神は、「わたしはあなたを知っている」と仰ってくださいます。他のどこでもなくキリストの十字架でのみ、私たちは、この神の御声を聴くのです。私たちは、スーパーマンになるように求められているのではありません。どこまでも、主の羊であり続ける。羊でなくなろうとすると、いつの間にか狼になってしまうのです。

だから、ルターと共に、私たちは、喜んでキリストはわたしたちの「真実の救い主」であり、私たちは「真実の、大いなる、呪わるべき罪人であることに習熟」することを求めます。

すると、自分が罪人であることに習熟した分だけ、びくびく、おどおどと生きることが止むのです。キリストの赦しの深さ、すなわち、神の愛の深さを知った分だけ、根っから明るく生きられるようになるのです。私は、これが、私たちキリスト者の底知れない強さの源であると思います。

そのような者が、作る生活は、当然、神と隣人を愛する生活になるのだと思います。愛して下さる神を愛し、その神が愛される隣人を自分自身のように愛す。

赦されたい、愛されたい、認められたい、それによって救われたい。そういう習い性に成っている愛の行いの損得勘定を一つ一つ剥がしながら、真の愛に生きられるようになるに違いありません。

いや既に、キリストのゆえに、私たちの信仰と行いは、私たちがどう思おうが、条件としての機能を全く失っていて、キリストの恵みへの応答以外ではありえない。キリストのゆえに、神のまなざしにおいては、全く純粋な愛の捧げものになってしまっている。そういうところに、私たち人間は置かれている。

この神の恵みの事実に、何度でも気付くことができるように、洗礼を受けた者も、そうでない者も、教会で、この事実に目覚めるように、今日ここに集められたのです。

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