私たちの教会学校では、「教会学校教案」というテキストを用いて教会学校礼拝の説教をし続けています。全国で比較的よく用いられている教会学校のためのテキストであると思います。私の前々任地である奈良の大和キリスト教会で、私達の主任として指導してくださった市川忠彦先生が、この教案を発行している福音主義教会連合という団体の関西での代表を長く務められました。その関係で、私も、その教案誌に、神学校を卒業してから、今まで年に何回か小学生のための説教例を提供し続けています。
今年も、今月12月号から、3月号まで説教例を提供しています。今年度は、この教案誌では、宗教改革500周年ということを念頭におきまして、私たち教会が大切にしている三要文と呼ばれる三つの要の文章、主の祈り、使徒信条、十戒を学んで行こうというスケジュールが立てられました。そして、既に、今までのところ主の祈りと、使徒信条の二つが学ばれました。私が、担当し始めた今月12月号は、三要文の学びを小休止し、アドベントとクリスマスのために特別選ばれた聖書個所が説かれていますが、来年の一月号からは、いよいよ最後の文章である十戒が教会学校の礼拝で説き明かされることになっています。
十戒というのは、ご承知のように、旧約聖書において、神がイスラエルの民に与えられた掟です。今日聞きました主イエスのお言葉に即して言えば、律法の代表のようなもの、だから旧約聖書の代表的な文章だと言っても良いと思います。もしも、皆さんが教会学校の教師で小さな子供たちにこれを聞かせるとしたら、どんな説教をなさるでしょうか?それは、神が下さった戒めの言葉ですから、たとえば、「~してはいけません。」、「~しましょう。」という道徳やしつけの言葉を語ろうとするでしょうか?もしも、子どもに向かって十戒をそのように説くとしたら、それはそのまま自分に対する言葉として返ってくることになります。ある説教学者は、子どもに語って聞かせることのできない説教は、大人にも語れないと言いましたが、逆もまた然りです。
十戒を私たちにとっても、しつけ道徳の言葉として聞いていることになります。けれども、聖書の言葉は、律法ではなくて、子どもにとっても、大人にとっても、福音、良き知らせとして響くべき言葉です。
私達教会が、毎週毎週、飽きずに語り続け、聞き続けていることは、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示され」たということ、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」が現れたということ(ローマ3:21以下)、これこそが、私たちを生かす聖書の命の教えだと教会は信じています。
私たち人間を神の御前に正しいと定めるものは、律法と呼ばれる神の掟を守ることができるかどうかということではなく、神がイエス・キリストによって、無償の恵みとして、私たちを正しい者と呼んでくださることによるのです。パウロは、はっきりと「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(ローマ3:20)と言いました。
律法は人を義としません。まるで学校の試験や資格試験で良い成績を収めることによって、進学への切符を掴んだり、保証された職を得たりするようには、神の掟である律法の試験を私たち人間は通過することはできません。東大よりも、司法試験よりも難しい。なぜならば、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」ということは、この試験は誰も通過できないということだからです。
けれども、有難いことに、神は私たちのために、この律法とは別の道を立てられました。イエス・キリストを通して罪人にプレゼントとして贈られる神の義、神との平和です。だから、私たちは安心できます。私たちの無能力も、私たちの貧しさも、神さまの目に良しとされるための障害とはならないからです。
私たちはこのような良き知らせを聞いて、語るために召されました。イエス・キリストは、この恵みの代表であり、この恵みそのものであるお方であると、私たちは信じています。
教会が自分たちにとって要である大切な三つの文章として主の祈り、使徒信条、十戒を語るとき、主イエスが下さった祈りである主の祈り、そして、この主イエスの救いのできごとを簡潔に語る使徒信条が、教会を作る大切な文章であることはよくわかります。その二つは私たちの救いの根拠である主イエスの言葉と恵みをまっすぐに語っているからです。けれども、十戒はどうでしょうか?主イエスの救いが露わにされた以上、十戒に代表される律法に今更、どんな意味があるのか?と思われるのです。
そこで、子どもにとっても大人にとっても、なお、十戒を良き知らせの欠くべからざる部分として理解するためには、一つには、律法は私たちをキリストに導くための養育係であるという風に語ることができます。神の掟の前に立たされた人間は、まじめに考えれば考えるほど、自分がその基準を満たしえないということがわかるようになる。自分だけを見ているとき、あるいは、人と比べて自分を見ているときは、自分もそこそこやれてるんじゃないか?まあまあ、まともな人間じゃないかと自画自賛して、誰の助けがなくても、自分は自分で立派にやっていると思えるかもしれません。けれども、神のくださった律法に自分を当て嵌める時、神の基準では、全然足りない自分であることに気付きます。だから、律法によってこそ、自分の非を悟り、どうしようもない自分をただキリストの恵みによって救って頂かなければならないということがわかります。それが、律法の養育係としての役目です。パウロが第一に語る律法理解であり、福音の部分、福音の露払いとしての律法です。
ところが、今日聞きました個所において、主イエスが律法について語られるのは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、とおもってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」ということです。そして、徹底的という言い方がふさわしいと思いますが、「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と仰います。ここには、養育係としての律法よりも、もっと積極的な響きがあると思います。これはとても意外と言うか、私たちキリスト教会の、特にパウロの再発見とも言うべき、宗教改革者の伝統に連なる私たちプロテスタント教会の信仰理解を覆してしまうような言葉と響くかもしれません。さらに、20節では、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」と仰る主イエスは、ファリサイ派にさえ、勝るとも劣らない律法主義者のように見えるかもしれません。
私たちは自分たちが福音に生きていると信じています。裁きではなく、恵みの中に生きていると信じています。自分の業が自分を救うことはない。ただ、貧しい者を憐れむ神さまの恵みのみによって歩んでいる、そのような徹底した神さまの恵みに生きる信仰共同体が教会であると信じています。しかし、これもまた、私たちが、しばしば感じることは、恵みによって生きているはずの共同体が裁きの心に生きてしまうことがあります。信仰者であるならば、こうあるべきなのにこうなっていない。こうすべきなのに、違う生き方をしている。しかも、私たちがそのように他者を裁くとき、それは、聖書の言葉の外ではなくて、聖書の言葉をもって行っていると思います。その際用いられる聖書は、旧約ばかりではなく、新約であり、たとえば、今日聞きました言葉に続く山上の説教は、そのような私たちが隣人を裁くための材料としやすい箇所ではないかとさえ思います。いや、むしろ、天地の終わりまで律法の一点一画も廃止されないという主イエスのお言葉に根拠を見つけながら、福音という無償の入り口と、わがままな信仰者を育てないための訓練としての律法を巧みに使い分けているのかもしれません。しかも、実は、そのような律法理解は、主イエス御自身の言葉に根拠を持っているから、教会の中の律法主義への誘惑は根深いと言えるのかもしれないのです。
けれども、その場合、パウロが、福音から律法への移行は、霊によってはじめたことを肉によって仕上げようとする行為であり、キリストの死を無意味にすることだとガラテヤの信徒への手紙で書いたこととどういう風に、調和を取ることができるのか?特に、ここは私たちの信仰の命にかかわる部分ですから、恵みのみと語るパウロの手紙もあれば、律法が大切というマタイによる福音書のようなものもある、こういう幅こそ聖書の豊かさであるとは暢気に言っていられません。十戒に代表される律法をどう理解するかということは、私たちが立ちもし、倒れもするまさに、信仰の要であると思います。
しかし、教会は、この言葉に躓き続けることはありませんでしたし、十戒を三要文の一つとして重んじることによって福音と律法のジレンマに陥ることもありませんでした。むしろ、十戒を、なくてはならない福音の言葉として、良き知らせとして、聞きました。しかも、ただキリストに導くまでで役目を終える養育係という消極的な理解にも留まりませんでした。
それが、十戒が、主の祈り、使徒信条と並ぶ三要文と呼ばれる所以であると思います。私たちの教会では、これを礼拝の中で唱えることをしていませんが、私たちの教会が連なる改革派教会は、実は、どこよりもこの十戒を重んじ、礼拝の中で、何百年と唱え続けた伝統を持っています。私たちの教会が事実、この十戒の言葉によっても生かされてきたのです。
それはどういう風にでしょうか?この律法を徹底して守るようにとの主イエスの言葉の前に、私たちが、罪の自覚のみを感じたり、あるいは、この律法によって人を裁いたり、人と自分を比べて優越感を抱くための道具として使用したりするファリサイ派の罪から自由でありつつ、なお、真っすぐに、健康的にこの言葉の前に立てるたった一つの理由があります。それは、「わたしが来た」と仰る方が、私たちと共にいるからです。
主イエスが来られたのです。このお方は、マタイ1:23によれば、「インマヌエル」と呼ばれるお方です。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味だと聖書は語ります。つまり、パウロが言うように、かつて、神の掟の前で、その神の掟にふさわしい生き方を作ることができずに、罪の自覚しか生じなかった私、あるいはそういう人間である私たちが、今は、一人きり、人間きりで、律法の前にいるのではないのです。律法を完成するために「わたしが来た」と言って、私たちのところに来られた主イエスと一緒に律法の前に立っているのです。
このお方は、自由に律法を解釈し、自由に律法の心を体現される律法の主であるにもかかわらず、律法の側に立って、私たち人間を計られるのではなくて、私たちの側に立たれています。しかも、この方が私たち人間と共におられるということは、神さまが律法を挟んだ私たちの向こう側におられるのではなく、主イエスにあって、私たちの側におられるということです。この神さまによって、律法は私たちにとって、新しい意味を持ちます。私たちの罪を暴くものから、私たちが本当に神さまによって生かされている証しそのものに変わります。
もしも、その神の掟の前に、ため息をつく他なく、絶望か開き直りにしか生きることのできなかった者が、今は、力強く、神の掟のままに歩み始めるとすれば、それは人間が新しくなったということを意味します。神の言葉である律法に従って歩めるようになるとは、本当は喜ばしいことです。考えてみれば律法とは、そのはじめから私たち人間の忠誠を試すために神が設けられた、試験としての掟ではありませんでした。聖書が語る最も古い戒めであるアダムとエヴァに与えられた園の中央のにある木の実を取って食べてはいけないと神はお命じになり、なぜならば、それを食べると必ず死ぬからだと仰いました。私は今回、改めてこの箇所を読んで、罪に落ちる前の人間は、神さまのお心が本当によくわかったんだなというように思いました。エヴァは、この神の禁止命令をこういう風に言い換えました。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。なぜ、神は掟を与えられるのか?なぜ、律法があるのか?私たちが死んではいけないと神が思ってらっしゃるからです。
ある人が、旧約聖書に記されるもろもろの律法を読みながら、それはまるで、学校の校則のようではないかと言い、日本中の不思議な校則を集めて列挙しました。スカートのプリーツは24本、くしゃみは三回まで、トイレットペーパーの使用は、小は、15cm、大は30cmまで。異性の教師からは、20cm以上離れるなどなど。いったい何の意味があるのか?ただの嫌がらせではないか?あるいは、生徒を統率するための規則ではないかと思うような校則もあります。
旧約においてもこのような校則に比べられていますような、私たちにはもはや理解不能な戒めがあることは確かなことです。けれども、律法の心とは、創世記の最初の戒めを聞いた堕罪前の人間がそこからまっすぐに聞き取っていたように、私たちが「死んではいけない」からという神の思いのゆえに、与えられたものです。
私たちが三要文として重んじる十戒は、まさに、そのような神の思いが凝縮したものであることは疑いがありません。十戒の前文にこうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」聖書学者はこの言葉に導かれて与えられる十戒の言葉の性格を次のように解説します。十戒とは、主なる神さまによって、奴隷から自由人にされたイスラエルの民が、もう二度と誰かの奴隷になることがないようにと立てられた掟であると。神以外を神としないこと、それによって、人間が人間を支配することのないようにすること、神によって与えられた命と財産を互いに脅かさないようにすること、十戒の戒めはひたすらこの自由を守るために語られていると言われます。しかも、その語り方は、原語を見ると、とても印象深いのです。そこでは、私たちがそう理解するような強い命令形で書かれているわけではありません。そうではなく、私によって自由にされているあなたたちは、当然、私を神とするだろう?殺さないだろう?盗まないだろう?そういう神さまによって救われ自由とされた者たちに対する神さまの期待、信頼を表明する語り方がなされています。
律法とは元来、私たちの命を守るためのものです。私たちが自分の子に、小さいうちは、道路に飛び出さないように言い聞かせ、その内、門限を定めるようになることと、似ています。大切な者の命を守るためです。
しかも、神は私たちに期待していらっしゃいます。わけもわからず、規則だからと言って守るのではなくて、最初の人間が理解したように、「死んではいけない」という神の思いを戒めの中によく聞き分けるということです。それを聞き漏らせば、神の掟を聞いたことにはなりません。律法の一点一画も廃止することはないと仰った主イエスの律法の取り扱い方とは、まさに、そういうものであったことが思い起こされます。
やがて、私たちが読むことになりますが、律法の一点一画も廃止しない、ファリサイ人の義にまさる義を得なければならないと仰った主イエスは、マタイ12:1以下で、律法の最も重要な戒めの一つと数えられる安息日既定の伝統的な守り方をやすやすと破り、病人を癒されました。そして、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりも大切なものだ。」と抗議する者たちに向かって仰いました。主イエスは、まさに旧約における神の御心と一致して、神の掟は、人間の命を守るという方向で、ひたすら実現されるということを教えてくださったのです。人を裁き、人を意気消沈させるために律法があるのではありません。神は従順の試験として律法を与えられるのではなく、愛する者の命を守るためにそれを与えられたのです。神がそのようにして与えてくださった律法を、まして、私たちが他人を裁き、責めるために用いることはできるはずがありませんし、この律法の心を知れば、そういう用い方をしたいとは私たちも思いません。
今は、ひたすら、私たちが死んではいけないと願う神の願いそのままである主イエスが、私たちの元に来てくださり、その言葉通りに、私たちを救ってくださり、私たちは、出エジプトの民のように、罪の奴隷から、自由な者にされています。すなわち、罪のゆえに、律法が良いものであると知りながら、それを実現できなかった罪の奴隷状態から、律法に喜んで従うことのできる神の子とされているのです。
けれども、その変化は、地を這う芋虫が、美しい蝶に変わったということではないと言わなければなりません。私たち人間が、神の恵みによって、律法の前に絶望す他なかった弱い者から、律法の前にそれを行うことができる者として独り立ちしたということではありません。そういう変化ではないと思います。ローマの信徒への手紙にこういう言葉があります。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)私たちはたとえ洗礼を受けても、そんなに自分が変わったと思えないかもしれません。洗礼を受けたら、世界が違って見えたという人もいれば、期待していたような変化は現れなかったという人もいます。あるいは、自分は、すごく変わった、良い人間になったと思ったのに、時間が経つごとに、特に変わり映えしない自分であることを思い知らされるような日々であるかもしれません。
けれども、なお、変わり映えのしない死ぬはずのこの体を、神は用いてくださり、良き実を結んでくださり、しかも、その良き実を、まるで、私たちの業であるかのように見做し、それを、この私たちの良き業と呼び、天国で大いなる者とお呼びくださるのです。
ある神学者は次のようなことを言いました。神は、絵画の優れた教師のようなお方であると。生徒が下手な絵を描く。自分でもその絵がまずいことがよくわかる。けれども、教師がやってきて生徒の手を取りながら、同じ筆と同じ絵の具をもって、その絵に、手を入れる。すると、その自分の描いた下手な絵に命が吹き込まれる。全然違ったものに見える。キリストはそのように私たちの手を取って、私たちの人生全体を生きたものとするために、もう一度、神のものとして描き、捧げてくださるのです。
キリストが来てくださいました。しかも、その方は、マタイによる福音書において世の終わりまで共にいると約束してくださいました。だから今も、その方は、アドベントにおいて再び来られるときをただ待ち望まれているお方ではありません。今、その霊において私たちと共にいて下さり、まるで私たちと一つであるかのように、神の命の道である律法の前に、共に立っていてくださいます。この方が私たちと共にいらっしゃるから、だから、キリストを死者の中から引き上げられた神の力が、私たちの日常に、良き業の実を結び続けないわけにはいかないのです。本当に幸せな私たちであります。
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