4月3日 ヨハネによる福音書1章43節~51節
本日は、新年度の最初の主の日となります。久しぶりに、聖餐を祝うこともできます。
腰を痛めてご心配おかけしましたが、ようやく、講壇に立ち、御言葉を取り継ぐことができますことを嬉しく思います。しかし、完治には、まだまだ掛かるようです。今も、一つの姿勢で何十分と、たち続けること、座り続けることが難しいので、少し落ち着きがありませんが、立ったり、座ったりしながら、説教することをご容赦ください。
最近、必要があって、渡辺善太という、もう何十年も前に亡くなった聖書学者の説教集をコツコツ読んでいます。
寝込んでいる間も、読み続けていましたが、これがめっぽう面白い。
面白いというのは、まじめに興味深いという意味だけでなく、渡辺善太の説教は、読んでいて笑い転げそうになるという意味でも面白いものです。
ちょっと、ガラッパチなところがあり、東京下町のべらんめえ口調のままに説教をしていて、それが説教集にそのまま残っています。
あけすけで、愉快なエピソードも盛りだくさんで、笑いながら、どんどん読み進めてしまうのですが、もちろん、ただ面白おかしいというのではありません。
この人は、ものすごい学者です。日本の代表的旧約学者の一人です。
この人の説教を読んでいると、聖書知識、神学的知識も増して行きますし、身につまされたり、深く慰められたり、目が開かれたり、そういう説教体験を与えられます。
メソジスト教会の流れを汲む東京の銀座教会の協力牧師であった先生ですが、皆さんも機会があったら、ぜひ、その説教集を手に取って読んでみることをお勧めいたします。
この善太先生の説教集はいくつも出ていますが、日本の説教というシリーズの中の一冊の内に、説教選集があり、その中に「聖書的人間像」という説教があります。
世の中がその時代にあった理想的人間像というものを持っているように、教会の方でもキリスト教的人間像というものを発表していく必要があるだろうと言います。
どの説教を読んでも世の中との対話ということを重んじた説教者です。
「現代にものを言うことの出来る、今日の人と語り合える場における人間像がつくられてくるのでなければならない」と、言います。
そういうことが長い歴史の中で豊かな人間像を考えてきた教会の側からどんどん発信されていったら良いと、善太先生は期待しています。
けれども、自分のすべきことは、まず、基礎的な聖書における人間像を語ることだと、その説教を語り出します。
そして、聖書の中の基礎的な人間像はこれだと言って、ローマの信徒への手紙9:13を挙げます。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
これが、聖書的人間像の基礎となるものだと言います。聖書的人間像、理想的人間の姿、それは、旧約創世記に登場するヤコブだと。
その上で、この人は、何を語るか?
この聖書的人間像であるヤコブの美点を挙げていくのではありません。
むしろ、ヤコブの欠点について語って行くのです。
曰く、「ヤコブというのは非常にずるがしこい人間なんだ。裸一貫杖一本で出て行ったが、自分の伯父さんをごまかして、帰りには非常な富を持って帰るほどの財産家になった・・・・・・ま、実にずるがしこいというか何というか、形容のできない人物なんだ。一方には宗教的な憧れを持ちながら、現実のあり方としてはとても悪いんだなァ、これは・・・・・・ところがイスラエル人はその悪いヤコブを自分たちの先祖としている。これはおかしいですよ。自分の先祖が悪人であり、狡猾な奴だったなんてことを、喜んでる奴なんかありはしない。・・・・・・これは歴史的に不思議な現象ですよ。これはどっかに問題がありますね。それを私は皆さんにお考えいただきたい。」
これは、エサウとヤコブだけのことではなく、イスラエルの初代王サウルと次のダビデの関係も同じだと続けます。
ダビデの方が、「人の顰蹙(ひんしゅく)を買うようなキャラクターで悪い人だ。」と。
説教はこの後も、まだ続きますが、最後のところだけご紹介します。
善太先生は、言います。
「聖書的人間像とふつうの倫理的・人間的人間像とはちがう。しかもパウロは(先ほどのところに)、行いによらず、と書いている。この秘儀は、このエサウとヤコブの兄弟の捨てられた選ばれたということの秘密は、行いによるのでもなければ人間に対する人間の観方でもない。すなわち神の定めたもうた人間の選び方にある。」
世の中と積極的に対話して行くために、これからどんどんキリスト教的人間像、理想像を教会は語って行く必要がある。けれども、忘れてはいけないと老神学者は申します。
ヤコブが選ばれる秘密は、神の定められた人間の選び方の中にあるのだと。
先週、司式者に代読して頂いた説教から、ヨハネによる福音書における最初の弟子の召命記事を読んでいます。
今日も先週に引き続き、最初の弟子の召命が描かれています。
フィリポ、それから、ナタナエルが、主の弟子として招かれたところです。
特に、今日の箇所の中心と言えるのは、主イエスとナタナエルのやりとりではないかと思います。
ナタナエル、この人は、ヨハネによる福音書だけに登場する弟子です。十二弟子の一人に数えられることもありますが、その際は、他の福音書が語るバルトロマイと同一人物として、理解されています。
ヨハネによる福音書にも、この後、21:2に名前がわずかに触れられるだけなので、この人に関して、今日の箇所以上に、知ることはできません。
けれども、この人を弟子のトマスの双子の兄弟と考える人もあります。
ご復活の主イエスに出会い、この目で見、その傷痕に指を挿し入れない限り、信じないと言った疑い深いトマスです。
このトマス、ディディモと呼ばれるトマスと聖書は記録します。
ディディモとは、双子という意味です。
このヨハネによる福音書の最後の部分で主イエスを疑ったトマス、そして、福音書のこの最初のところで、主イエスのことを、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑ったナタナエル、その疑いにおいて、トマスとこの人は、双子であると象徴的に考えられたのでしょう。
このようなトマスが立ち返り、主の弟子とされるのです。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という疑問、これは、主イエスの生まれに関する疑いです。
21:2を見ると、ナタナエルはカナ出身とあります。主イエスの出身のナザレとは別の町ですが、同じガリラヤ地方です。
ここから、能美市くらいの距離感です。
知っている町なのです。友人フィリポは、ナタナエルに対して、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と、紹介しています。
「ナザレの人で、ヨセフの子だ。」この紹介の言葉は、ひょっとしたら、ナタナエルが、隣村のナザレの大工、ヨセフを知っている可能性もあるという前提で、語っているような言葉ではないでしょうか?
けれども、だからこそ、ナタナエルは、主イエスに疑いを持ちます。
ナザレから、自分とほとんど同郷と言って良いその地から、良い者など、まして、メシア、救い主が出るはずがない。
救い主が自分のよく知った地から出るはずがないという疑いの根拠の第一は、ヨハネ7:27にあるように、「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」という信仰、あるいは7:42「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」という期待に基づくものです。それは、信じられてきた言い伝えと違うと。
しかしまた、「異邦人のガリラヤ」と言われ続け、エルサレムなどの中央のユダヤ人から軽んじられてきた、ナタナエルを含む自分たちへの自己卑下を含んだ物言いではないかとも思われます。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とは、まるで吐き捨てるような言い方ですが、それは、隣村出身のナタナエル自身を悪く言う言葉でもあるのではないかとも思われます。
それでも、この人は、フィリポに促され、主イエスに会いに行きました。
ところが、ナタナエルが主イエスに声を掛ける前に、主が彼を見つけ、仰いました。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
この言葉を聴いたナタナエルはどう思ったでしょうか?
ナザレだけではありません。「メシアはガリラヤから出るだろうか」ということなのです。異邦人のガリラヤなのです。まことのイスラエル人の土地ではないのです。
イスラエルの信仰の中心地、聖地エルサレムとその周辺のユダヤの地からすれば、辺境、田舎であるガリラヤに住むナタナエルよ、あなたこそ、真のイスラエル人であり、その心に偽りのない者である。
それならば、「どうしてわたしを知っておられるのですか」という、48節のナタナエルの答えは、イエスというお方が、自分のことを、認めてくださった感激を表す言葉でしょう。
けれども、また、「私のことなど、知るはずがない。」という疑いを継続して表している言葉であるかもしれません。
しかし、二人のやり取りはそれで終わりませんでした。
この二人のやり取りは、もう一段、深い所に進みました。
48節の後半です。
「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と、主は続けて仰いました。
この主の御言葉を聴いた時、ナタナエルは、ひれ伏し、お答えせざるを得ませんでした。
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
主イエスとナタナエルが出会ったこの日、フィリポがナタナエルを訪ねてくる前に、ナタナエルがどこにいたかを主が言い当てました。
そのことに、ナタナエルは、神秘を覚え、ひれ伏したというのです。
けれども、正直に申しまして、これは、福音書の中で、余りにも小さな出来事ではないでしょうか?
今日、午後初めて会った人が、私が午前にどこにいたかを知っていたということ、確かにびっくりいたします。背筋がゾワッとするような不思議なことです。
しかし、それを言い当てられたとしても、その人に対して、どうして、神の子、我が王と、告白することがあるでしょうか?
少し、言い過ぎではないかと思います。
だから、多くの者は、これが単なる不思議な出来事ではなく、ナタナエルにとって、大きな意味を持った出来事であったと考えます。
そして、特に、彼がいちじくの木の下にいたところを主が見たということ、ここに大きな意味があると考えるのです。
いちじくの木の下、それは、律法を学ぶ場であったとか、イスラエルの豊かさの象徴であるとか。
しかし、そのような肯定的な解釈に対して、アウグスティヌスという人は、いちじくは、人間の罪の象徴だと言います。
創世記に記されたアダムとエバの堕罪物語において、神の言葉に背き、善悪の知識の実を食べてしまった二人の目が開き、裸の自分たちを見つけた時、二人は、いちじくの葉で自分の裸を隠したとあります。
いちじくの木の下にいたナタナエル、それは、罪ゆえに、神から身を隠すナタナエルの姿を表しているのだと。
確かに、思わず、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」とひれ伏すナタナエルのその姿は、後にパウロが語った、礼拝の中で罪を指摘され、思わず、ひれ伏して、「まことに、神はあなたがたの内におられます。」と言い表すことになるという人の姿と重なるものがあります。
だから、私も、アウグスティヌスの線に沿って、いちじくの木の下にあったナタナエルを、罪の内にある、誰にも見せたくない自分自身の姿を主イエスに言い当てられてしまったその姿として、受け取りたいという思いに誘われます。
そのようにして、改めて、このやり取りを見直して見ますと、主イエスがナタナエルとの出合頭に、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と仰った言葉が、どれほどの深さを持った言葉であるか?と考えさせられます。
そしてまた、そこに見えて来る深さこそ、私たちが、聴いてきた、福音の言葉そのものと一致する、そのような言葉として響いて来るように思います。
もちろん、ここでナタナエルの罪が見えて来ると読むのは、私のだけではありません。
主イエスが、「偽りのない人」と、ナタナエルに対して仰ったその御言葉を思い巡らしながら、多くの人が詩篇31編の冒頭の言葉を、思い起こしています。
「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。/いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」
偽りのない人、真のイスラエル人、真の神の民とは、罪のない人のことではないのです。
その罪を神に覆って頂いた者のことなのです。
なぜ、ナタナエルが、真のイスラエル人であり、偽りのない人であり得るのか?
エルサレムで生まれようが、ガリラヤで生まれようが、正しく、誠実に、生きているからではありません。
神の子羊であるイエス・キリストのゆえです。私たちの全生活がその御前に置かれており、何一つこのお方の前に隠すことができず、私たちの心の底までをご覧になるお方が、なお、ナタナエルを見捨てず、十字架で流されるご自身の血によって、やがて、彼の罪咎を覆ってくださるからです。
ひれ伏すナタナエルに、主イエスはさらに、はっきり、宣言されました。
「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
天が開け、人の子の上に、天使たちが昇り降りする。
天と地が繋がってしまうのです。天と地が一つになってしまうのです。
人の子を通して、私たちと同じ肉を採られ、人となられたイエス・キリスト、このお方を通して、天と地が繋がってしまうのです。
もちろん、主イエスがお語りになった、このイメージは、創世記のヤコブの物語から引用されたものです。
ずるがしこいヤコブがただただ不思議な神の選びのゆえに、イスラエル、神の王子と呼ばれることになる、その途上のベテルで神に見せて頂いた幻です。
それゆえ、この主イエスによるナタナエルの召命物語は、ヤコブ物語の再現であると言って、良いのではないかと思います。
人間的見方、人間的な立場とは、まったく違う仕方で、ずるがしこい者や、疑い深い者、ふさわしくない者、罪人を招かれる神の一方的な憐れみ深い選びが、ここで遂行されているのです。
このような選びは、まさに奇跡であり、類い稀なものであると言えるでしょう。しかし、これは、ヤコブや、ダビデ、そしてナタナエルという人にだけ起きた特別なことではなくて、私たちにも起きたことです。
注意深い方は、もしかしたら、お気づきになったかもしれません。
ナタナエルに向かって語っておられたはずの主イエスの言葉ですが、気付いてみれば
その出来事の中に私たち自身が、巻き込まれており、主イエスに語りかけられている当事者になっているのです。
客観的にそうなのです。何でそう言えるのか?51節です。注意してお聴きください。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
いつのまにか、私たちに語りかけているのです。「あなたがた」と。
主イエスは、今日、この言葉を聴いた私たち一人一人に向かって、「あなたが、この私にあって天と地が繋がってしまうのを見ることになる。つまり、この私の言葉を聴いている当のあなたが、私の選んだその人だ」と語りかけておられるのです。
ナタナエル一人ではなく、この物語を通して、生ける神が今、私たちに語りかけておられるのです。そう読むように、福音書自身が意図しております。
そうなのです。このような、理解の仕方は、実にヨハネによる福音書自身が求めている読み方であると思います。
なぜならば、このヨハネによる福音書にしか、その名が登場しないナタナエル、この人の名前の意味は、ヘブライ語て、「神が与えた者」となります。
ある学者は、これは故意か偶然かわからないけれども、これは、この福音書の17:6などに出て来る、「世から選び出してわたしに与えたくださった人々」と、重なる名前だと言います。
それゆえ、このナタナエルという人間は、実在の人物ではなく、弟子の理想像として創作された象徴的人物ではないかとさえ議論されていると言います。
もちろん、そこまで言う必要はありません。実在の人物と考えて少しも問題ありません。
しかし、ヨハネによる福音書の全体というか、聖書という書物の性格そのものが、基本的には、そういうものだと思いますが、特にこのナタナエルの召命物語は、史実を伝えることを超えて、この物語を聴く、私たちと主イエスの出会いを起こすために語られているということです。
このように聴いて参りますと、キリストの弟子であるということとか、基礎的な聖書的人間像というのは、私たちの遠く手の届かない理想像ではなく、現実のこの私たちの姿そのものではないかということです。
何かを頑張って弟子になるのではありません。聖書の言葉に従うことによって、聖書的人間になって行くのではありません。
あるがままの私たちが、神の自由な選びによって、キリストの憐れみ深い選びによって、キリストの弟子とされている。神のものとされている。
これが、聖書的人間です。このことをよく考えて見なければならないのです。
そこに、見えて来る人間の姿、私たち教会が、この世に向かって招き入れる人間の本来のあり方というのは、かなり、強烈な喜びを与えるものではないかと信じます。
もしも、このことが真っ直ぐに伝わるならば、一人一人に語りかける生ける神の言葉として聴こえるなら、世界は教会になりたがるのではないかと信じる者です。
まず、私たち自身が、しっかりとこのような人間像に立ちたいと思います。まず、私たち自身が、聴き続けることです。
神は語り続けてくださいます。主よ、あなたが、新しい年度、いよいよ深く、お語りください。主よ、私たちは聴いております。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、困難の多い世にある教会の歩みが続きますが、御子において天と地をお繋ぎくださったあなたのゆえに、時が良くても、悪くても、倦むことなく、語るベきことを語り、なすべきことを為す、私たちの歩みを作ることができますよう、お助け下さい。天が閉ざされ、あなたを見失い、自分を見失いそうになる時にこそ、はっきりと見えてくる、この地上に立てられたご受難の御子の十字架、私たちのための天と地を繋ぐ梯子に、固く節操を守り、集中していく私たちの教会としてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。
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