地の盾なる一つ教会

1月23日 エフェソの信徒への手紙4章1節-6節

私たちが、今日も先ほど告白しました使徒信条を原文で見るとき、おやっと思わされることがあります。

 

それは、「我は聖霊を信ず」という言葉に続き、原文では、「聖なる公同の教会を信ず」「聖徒の交わりを信ず」とあることです。

 

父なる神様を信じる。神の独り子イエス・キリストを信じる。聖霊なる神様を信じる。

 

ここまで語られてきたことは、私たち教会が神として崇める三位一体の神様を信じるということです。

 

けれども、「我は聖霊を信じる」に続いて、私たち人間の集まりである「教会を信じる」という言葉が続くのです。

 

おやっ、あれっと思わされることではないでしょうか?

 

教会を信じるということは一体どういうことでしょうか?

 

もちろん、それは神さまを信じるというのとは、意味が違います。教会を信じるということは、教会は間違ったことを言わない、間違ったことを行わない、キリストの体である教会の語ること、行うことは、いつでも正しいと信じることができるということではありません。

 

確かに神さまは、この地上にある教会を、地上にあるイエスさまのお体と呼んでくださいますが、それは何よりもイエスさまが洗礼において、罪人である私たちと一つになってくださったという神さまの愛を語る言葉です。

 

つまり、教会が、キリストの体と呼ばれるのは、教会の権威を語る言葉ではなく、何よりも私たち人間と本当に一体となってくださった十字架のキリストの恵みを語る言葉なのです。

 

だから、それは、教会が間違いを起こさないということではありません。むしろ、イエスさまが私たちの罪を本当に肩代わりしてくださり、我が子の失敗を自分のこととして引き受け、代わりに謝り、責任を取ってくれる親のように、神さまが、私たち教会のことを、自分事として捉えてくださるということです。

 

では、教会を信じるとは一体どういうことでしょうか?

 

それは、このように神が自分事として扱われる人間の群れが、この地上に、目に見える形で、存在しているのだということを信じるということです。

 

神は教会を自分事として扱われます。教会は神にとって他人事ではなく、自分事です。よそ様ではなく、身内です。

 

教会を信じるというのは、ただ教会を信じると言われているのではなく、「聖なる公同の教会を信じる」と言われています。また、続けて、その教会を説明する言葉として、「聖徒の交わりを信じる」と言われています。

 

「公同の教会」というのは、時代も地域も超えて、教会は一つであるということです。つまり、聖書に名前の記された1世紀のエルサレム教会や、アンティオケ教会、コリント教会だけが、神さまから特別に身内として見られた教会なのではなくて、そこから1800年以上経って、数千キロ離れた所で生まれたこの金沢元町教会も、神が自分事とされている、神の身内に数えられているその教会だということです。

 

聖なる教会、聖徒の交わりと、「聖なる」という言葉が、二度出てきます。聖なるというのは、清らかということではありません。元々は、区別されているという意味です。神のものとして取り分けられているという意味です。

 

神のものとして取り分けられているならば、どんなものでも聖なるものです。沁みや傷だらけで、汚く、汚れていても、神がご自身のものとして、取り分けたものは、ことごとく聖なるものです。

 

だから教会が、聖なる公同の教会、聖徒の交わりであるということは、教会の中に集められた人たちが、清らかな人間であるとか、信仰心の篤い人間であるとか、良い人たちの群れであるとか、そういうことを請け合ってくれる言葉ではありません。

 

「聖なる」というのは、ここにいる人たちは神が取り分けられた人間であるということを語っている言葉です。

 

つまり、「教会を信じる」ということは、この群れが、神がご自分のために取り分けた人間たちだということを、信じるということです。

 

かつて金沢長町教会の牧師であった平野克己牧師が、最近、こういうことを言っているのを聴き、私は膝を叩いて喜びました。

 

平野先生が、ある場所で講演をしたとき、廊下で呼び止められ、こう質問されたそうです。

 

「教会の中にどうしても好きになれない人がいます。どうしたらいいですか?」

 

平野牧師の答えが秀逸でした。「それは、すてきなことですね。主イエスが呼び集めてくださっている証拠ですね」。

 

聖なる公同の教会を信じる、聖徒の交わりを信じるとは、このことです。もしも、神が集めてくださらなければ、決して一つ所に留まれないような者達が、一堂に会する。神を父と呼ぶ家族とされる。それどころか、キリストの憐みゆえに、お互いもまた有機的に固く結び合わされた一つキリストの体と呼ばれる。

 

もしも、年齢や、性別や、趣味や、気が合うというところで測ろうとするならば、何でこの人たちは集まっているのか?と言わざるを得ない不思議な集団、ああ、主イエスが集めてくださったんだと言う他ない集団、それが教会です。

 

しかし、神さまに選ばれた、神様に取り分けられたと聞くと、何か、選ばれた人には選ばれるだけの理由があったと考えるのが、世の人間の常でしょう。

 

子供の頃、遠足に持って行くおやつが100円までと言われると、駄菓子屋やスーパーに行って、野球のドラフト会議のように真剣にお菓子を選びました。

 

友達と一緒に買いに行きますと、皆個性的な選択をします。10円のお菓子をたくさん買う者、10円、20円、30円のお菓子をバランスよく選ぶ者、100円のお菓子をどんと一個だけ買う強者、それぞれの個性が現れます。

 

同じように、神の招き、神の選びには、特徴、基準があると思われるかもしれません。神さまが招く、神様が好む人間の特徴というのがあるのではないかと思うかもしれません。

 

もしも、てんでばらばらのように見える教会に集められた人々の中に、共通の神に選ばれる資質のようなものを見出すことができるならば、自分でそれを誇りに思うだけでなく、集められた人たちの、欠点には目をつぶり、なるべく、神さまが好まれたような良い所だけを見て行こうという発想も生まれ得るかなと思います。

 

けれども、神の選びというのは、神さまの一方的な恵みの選びであり、人間の側には何の理由もないと言われます。神さまの選びは自由な選びだから、選ばれた者の共通点は見いだせないというのです。そのために選ばれた者は、選ばれたことで、天狗になったり、得意になることはできません。神さまの恵みを思い、その選びの不思議に、心打たれるだけです。

 

しかし、私は、その一つの公式見解とは違って、聖書は神さまの選びについてある共通点を語っているとも言えるのではないかと思っています。

 

神さまがどういう人間を聖なる公同の教会のメンバーとして選び出されるか、どういう者を教会へと招かれるか、その基準を示唆する聖書の言葉がいくつも思い出されますが、旧約から一か所、新約聖書のイエスさまの言葉と、使徒パウロの言葉と一か所づつ開いてみます。

 

まずは、申命記7:6以下です。

 

こうあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」

 

次は、新約のイエスさまの言葉、マルコによる福音書2:17、こうあります。

 

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく。罪人を招くためである。』」

 

最後に、パウロから、コリントの信徒への手紙Ⅰの1:26以下、こうあります。

 

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。」

 

どの言葉も、実際に選び出された人々を前にして、神様に招かれた人、選び出された人の、傾向を教えてくれる言葉だと思います。

 

主なる神様は、貧弱な者、病人、罪人、無知な者、無能な者、無力な者、卑しい者を選ばれ傾向にあるのです。

 

私の親しい人が、自分の牧師に悩みを相談しに行ったとき、「あなたが一番悪いから、あなたがまず洗礼へと導かれたのだ。」と言われて、憤慨して、もう二度と牧師に相談なんてするものかと怒ったと言いました。

 

もう少し、言い方があるだろうと思いますが、非常に聖書的であるとも思います。

 

神さまが選ばれ、ご自分の特別な者、聖なる者として、取り分けようとされるのは、正しい者ではありません。イエスさまは、私が来たのは、健康な者ではなく、病人を招くため、罪人を招くためだとはっきり仰ったのです。

 

そうすると、教会の中で気の合わない人がいて、どうしても好きになれない人がいて、私が自分勝手な好みによって嫌ってるのではなくて、たとえ、嫌うだけの正当な理由があったとしても、その時には、まさに私が嫌うその部分が、神さまがその人を教会へと招かれたその特徴です。

 

同じように、自分自身の中にある、病んだ性質、捻じ曲がっている性質、貧弱さ、無能さ、罪深さが、神様が私たちに目を留められた理由です。

 

聖書はそう言っているように思います。そして、私たちに向かって神さまは、そう仰っているのだなということを噛みしめてみますと、なんだか、ほっとします。

 

キリスト者らしくしよう、牧師らしくしよう、聖なる者らしくしようという迫りは、神さまからのものではないのだなと思います。

 

教会の仲間に対してああなってほしい、こうなってほしいというのは、神さまからのものではないのだなと思います。

 

一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持っていい。隣人に対しても、自分に対しても。

 

お互いを愛をもって忍耐していい、平和のきずなで結ばれているのです。

 

そこにある者を、あるがままで、その丸ごとを、欠点を含めて、むしろ、その欠点のゆえに、神が選び、招かれたのだから、そのまま神の聖なる者と呼んでいいのです。隣人に対しても、自分に対しても。

 

このように人間同士を結び合わせる平和のきずなとは、キリストです。キリストが、集められた者たちを繋いでいるかすがいであり、また、全てを支える土台であり、大黒柱です。

 

教会の仲間同士というのは、友人を通して与えられている友人というか、祖父母と孫の間柄というか、ワンクッションあるのです。キリストを介して結ばれているのです。

 

この集められたお方が、教会に対する最終責任を持っておられるのだから、その方が好き好んで集めた私たち同士なのだから、私たちはお互いに、柔和で、寛容な心を持っていればいいのです。

 

このような人間の集まりは、イザヤ書に記された神の支配が完全に露わになったときの、終末の世界、終末のビジョンの地上にある小さなしるし、その微かな香りを表すものとなるでしょう。

 

そのビジョンとは、イザヤ書65:25に記された、「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」という終末の世界の姿です。

 

神は教会を、その中にわざわざ、私たち欠け多き者を集めて来られるのは、世界に向かって、全ての人に向かって、全ての被造物に向かって、やがて、こういう世界が来るよと、お示しになりたいからです。

 

神が私たちを選び出されたのは、神が教会をお造りになるのは、教会自身のためではありません。教会には使命があります。教会は世のための教会です。

 

私たちが与っている狼と小羊、獅子と牛、毒蛇と幼子が、一緒に、平和に生きて行ける世界が来るという一つの希望は、私たち、そのような関係に生きるようにと、教会の中に招き入れられた私たちのためだけのものではありえません。

 

今日のエフェソ4:6に、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とあります。

 

この教会の与っている希望、その希望の源である天の父は、今も天地万物の父であり、また、その命の源であられます。

 

神はこの世界を生かすために、この世界に希望を吹き込むために、私たち教会を集められます。

 

すべてのものを通して今、現に生きて働き、この世界を生かされる神は、また特別にそのために選んだ教会を用いて、平和のきずなで結ばれて生きる終末の世界の到来の希望を、世界に吹き込まれます。

 

ある神学者は言います。「世界は教会になりたがっている。だから教会は教会にならねばならない。」

 

最後に、最近、発見して、心から離れない、聖書の言葉を一つ、ご紹介し、皆さんを新しい週へと送り出したいと思います。

 

それは、詩編47:10の御言葉です。

 

「諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。」

 

神は私たちを地の盾として集められました。私たちは、どこから集められたとしても、今はもう自由な者です。どんなしがらみにも縛られていません。誰かの利益代表ではありません。

 

わたしたちは、ひたすら「地の盾」として、召されています。

 

印象深い言葉です。逃げてくる者を匿い、矢の降り注ぐ所を守るために動く地の盾です。

 

そのような地の盾としてそれぞれの持ち場へ遣わされていきます。教会という盾は、大きく広げられます。今週私たちが出会う全ての人が、自分ではまだ気づいていなくても、神のものです。地の盾のもとに匿ってください。終末のしるしを知らせてください。

 

そのような地の盾である教会であり、その教会の一角である自分であることを信じて、その使命を果たすために歩み出すのです。

 

それは、今週、出会う一人一人の人を、キリストの責任の下に置かれている人間と見なし、柔和で寛容な心で、接するということです。その時、その小さなしるしを見て、世界もまた、私たちの抱く希望に共に与り始めるのです。

 

祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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