4月16日 主日礼拝説教 大澤正芳牧師 ヨハネによる福音書12章20節~26節
ヨハネによる福音書の中でもっとも有名な言葉は何かと言えば、おそらく3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉でしょう。
それでは二番目は何かと言えば、多分、今日司式者に読んで頂いた24節のイエスさまの御言葉、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」が挙げられるのではないかと思います。
とても有名な言葉の一つです。
『人生に役立つ世界の名言』というような本があるならば、おそらく、第3章の言葉よりも、こちらの言葉の方が、優先されるのではないかと思います。
その時には、自分の犠牲を恐れずに、勇気を持って行動することによって、自分の命にしがみつくよりも、大きな成果を上げることができるという格言として、聴かれていることと思います。
教会の外においても、名言として受け止められることを単純に喜びつつも、しかし、ただ一度きりの、主の十字架を語るものだという文脈をおいて独り歩きするならば、この言葉を聴いたことにはならないのです。
この言葉は、主イエスが特別な時に、特別にお語りになった言葉です。そうすると、ありきたりな格言ではなくて、福音、神の良き知らせそのものであることがわかるようになります。
この言葉を主イエスはどのような時にお語りになったのか?
20節にこうあります。
「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」
12節からの続きです。神の民イスラエルの先祖の奴隷生活からの解放を記念するエジプト脱出を記念する祭りの時です。
その祭りを祝うために、神殿の町エルサレムを訪れていた人々の中に、何人かのギリシア人がいたというのです。
このギリシア人、ヨハネによる福音書では、この時初めて登場する人種、初めて登場する完全な異邦人です。
単にユダヤ人のお祭りを見ようと観光に来た人々であったのか、それとも、ユダヤ教に改宗したギリシア人であったのか、そのディテールは一切書かれていません。
ギリシア人であるという以外、どういう人たちかよくわからないけれど、その人たちが、12弟子の一人であるフィリポの所に来て、尋ねたと言います。
「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。
なぜ、この人たちは直接主イエスの元に行かなかったのか?
直前の記事によれば、主イエスは、群衆によって、真の王として大歓声の内に、エルサレムに迎え入れられていたのです。
おそらく、主イエスにお会いしたいという人が、ひっきりなしに訪れていたのです。
なぜ、フィリポに頼んだのか?おそらく、フィリポという名前は、ギリシア人にもよくあった名前だから、言葉が通じるだろうと、フィリポに話しかけたのだと想像されています。
そして、22節、フィリポはやはり12弟子の一人アンデレに相談してから、主イエスのもとにこの話を持って行ったと言います。
なぜ、さらに仲間に相談する必要があったか?と言えば、何百年と待たれた約束の救い主の到来に湧く神の民が主イエスを取り囲んでいた。そんなユダヤ人の一大時に、ギリシア人に会ってる暇などあるだろうか?けれども、まあ、異邦人が主に会いたいなど珍しいことではあるから、仲間と相談しようということであり、とりあえず、主イエスにお尋ねすることになったのです。
23節、24節、フィリポとアンデレの報告を受けて主イエスは、それに答えて仰いました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
ギリシア人たちが会いたいと言っているという相談に対し、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という答えは、正直言って、どうも噛み合ってないように見えます。
二人の問いには、「会おう」あるいは、「会わない」と答えるべきところです。
けれども、主は全然違うお答えをされました。
そして、実際に、ギリシア人が主イエスと会ったのか、会わなかったのか、よくわかりません。その話題が消えてしまいます。
噛み合っているように見えないし、ギリシア人がその後どうなったかも分からないから、この一粒の麦の言葉は、独立した格言のように、捉えられがちなのかもしれません。
けれども、聖書を注意深く読むならば、23節の冒頭、「主イエスはこうお答えになった」とあります。
これは、答えだったのです。つまり、ギリシア人たちの、主イエスにお会いしたいという願いへの主の反応の言葉、応答の言葉なのです。
23節の主の応答の口火を切る言葉を見れば、そのことがよくわかります。
「あなたにお会いしたい」という異邦人であるギリシア人の言葉がお耳に届くと、「人の子が栄光を受ける時が来た!!」と、仰いました。
ああ、わたしの栄光の時が来た。わたしの命を燃やすその時が来た。そのためだけに、天の父の元からわたしが遣わされたまさにその業を成し遂げるそのタイミング、天の父がお定めになった時が来た!!
それから、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と仰ったのです。
つまり、この一粒の麦の有名な言葉は、「時が来た」との主イエスの御言葉を聴くだけで、時代や、地域を越えて、のべつ幕なしに通用するような言葉ではないことは明らかです。
毎年、毎年繰り返す自然のたとえを借りながらも、繰り返すことのない一回きりの、主イエスにとっての特別なタイミングについて語っているのです。
今だ、今こそ、一粒の麦が地に落ちて、多くの実を結ぶための、わたしの時なのだ!!
この「時」という言葉は、ヨハネによる福音書で、今までのところ、第2章、第7章で、こういう使われ方をしていました。
「わたしの時はまだ来ていない。」
しかし、その主が、ギリシア人の言葉を聞いて、時が満ちたとお感じになったのです。
なぜ、主と弟子たちの会話が噛み合わないように見えるかと言えば、主が興奮なさっているからではないかと、思います。
つまり、噛み合っていないのではなくて、むしろ、手を叩いて、深くその言葉を受け止められた姿がここにあるのではないかと思うのです。
私たち自身のことに置き換えてみれば、よくわかります。
ずーっとずーっと待っていたことが実現するとき、ガッツポーズをして、「キター!!」ってなります。
ずーっとずーっと待ってた手紙が、ずーっとずーっと待ってたプレゼントが、ずーっとずーっと待ってた人と会う時が来たなら、そのチャンス、そのタイミングが訪れたら、「受け取る、受け取らない」、「会う、会わない」と答える前に、「キター!!」となります。
だから、多くの人達が、ここで思い出すのは、10:16の主イエスの御言葉です。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
主イエスが、天の父と一つの心になりながら、熱望されていました。
失われた羊を見つけ出し、群れに連れ帰る。一匹たりとも失わず、自分の囲いの中に、帰ってくる。そのために、わたしは来た。そのためにわたしは働く。わたしはわたしの羊のために命を捨てる。
第10章で、既に、主イエスがお語りになっていた御子と御父の心です。
祭りに来ていた何人かのギリシア人たちが、フィリポに声を掛けました。
「お願いがあります。イエスさまに会わせてください。」
けれども、フィリポもアンデレも、弟子たちはまだよくわかっていません。
神の民が何百年と待ち焦がれてきたこの時、この異邦人を先生に、取り次いで良いだろうか?
しかし、異邦人が、こんなに丁寧に訪ねてくるのは珍しいことだし、一応、念のため、、、。
「先生、ギリシア人たちがあなたにお会いしたいと来ていますが、、、」
主イエスは前のめりになって、まるで我を忘れるようにして、お答えになります。
「時が来た!!」
つまり、弟子たちにはまだ見えていませんでしたが、この人たちこそ、主イエスが探し求めておられた囲いに入っていないほかの羊、探し回るために世に来られた主イエスの呼び声をとうとう聴き、戻って来た囲いの外にいた羊であったということです。
「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」
どうかお願いです。どうしてもお会いしたいのです。
主イエスは、この時を待っておられました。本当にお喜びになったでしょう。
けれども、先週、主イエスを大歓声で迎えた神の民ユダヤ人たちについて言わなければならなかったことを、この異邦人についても言わなければなりません。
彼らの主イエスにお会いしたいという心は真剣であり、切実なものであったと思いますが、主イエスというお方がどういうお方であるか。本当にきちんと理解した上での、願いであったか?
そうではないと言わざるを得ません。
実は、致命的な誤解をしています。
日本語訳には表れていませんが、原文では、このギリシア人たちは、フィリポに向かって、「主よ、私たちはイエスにお会いしたいのです。」と、呼びかけているのです。
弟子のフィリポに向かって、ただ、イエス様のみに、天の父なる神様のみに呼びかけるべき呼びかけの言葉である「主よ」と呼びかけているのです。
これは、ギリシア人の常識からすれば、それほど奇妙なことではないかもしれません。
ギリシア世界には八百万の神々がいて、場合によっては、不思議な力を持った人間も神々と呼びうる世界に生きてきたのです。
だから、主イエスの弟子として主イエスと共に、方々で奇跡の業を行ったという弟子たちは、神々の使いであり、神々に近い存在と理解され、それゆえ「主よ」と弟子を呼ぶことは、ギリシア人にとっては、何ら不思議なことではないかもしれません。
このような例は、使徒言行録においても見出せます。
私たち日本人が、直ぐに、生きた人間を称賛して、神と呼ぶのと似ています。
けれども、このような理解はたとえ、主イエスをフィリポよりも高い神の化身そのものと理解したとしても、根本的に捻じ曲がった理解だと言わざるを得ません。
ユダヤ人達が主イエスに間違った願望に基づき、大歓迎したように、誤解に基づき、主イエスにお会いしたいと熱望していると言う他ありません。
けれども、それにも関わらず、主は「イエスさまとお会いしたい」という異邦人の願いを、手を叩いて喜んで、受け取ったのです。
ユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、むしろ、主よ、その喜びはぬか喜びです。彼らがあなたを誤解されているのと同様、あなたも彼らを誤解していますと言いたくなってしまうような、主の姿がここにはあります。
けれども、そうであるにも関わらず、主イエスは、ほんの少しも誤解していないのです。
囲いの中にいる羊も、囲いの外にいる羊も、その羊たちが、一人の羊飼いに導かれる一つの群れ、もう二度と、失われることのない主のもの、主の群れとなるためには、羊飼いの命をかけた行動、ご自分の命を注ぎ出す十字架の出来事を必要としたのです。
それゆえ、続けて仰ったのです。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
天の父の御心と一つとなり、天の父の御心として、その十字架がこの世界の中に立つ時、どんなに深く主のことを誤解したままであったとしても、ユダヤ人も、異邦人も、もはや、失われた羊ではありません。
だから、来週読みます27節の御言葉通り、主はご自分が地に落ちる一粒の麦になるこの時を、深く深く心騒がせ、私たちが決して味わうことのできない最大の悲しみを悲しみながら、しかし、その嘆きよりももっと深く、喜んでおられたと考えることが許されるのです。
主イエスの十字架の出来事から遡ること、数百年前のイザヤの不思議な預言、イザヤ書53:11に、民の苦しみを肩代わりして、人と神から捨てられると語られた苦難の僕の心を預言者イザヤは次のように記します。
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」
キリストの教会は、ここに十字架の主イエスのお姿を見つけてまいりました。
それゆえ、申します。
主は、今日、ここにいるお一人お一人のことを見て、深く喜ばれている。深く満足されている。
キリストの十字架は立ち、羊は連れ戻されました。
その実りがここにあるのです。主は、いま、私たちが捧げるこの礼拝を、本当に喜んでおられると信じて良いのです。
天使達が天で歌う賛美、天で献げる祈り、証の言葉に比べて、私たちのそれは、どこまで行っても、赤子のようなものに過ぎないと思います。
けれども、主は、その拙い、不完全な、貧しい、私たちの礼拝を、私たちのお捧げする愛を、どんなに喜んでくださることか、そのことが、今日の聖書箇所からもよくわかるのです。
東京神学大学の学長であった近藤勝彦先生が最近、こういう趣旨のことを仰いました。
小児洗礼、子どもの洗礼について語る文脈での話です。
自分は、小児洗礼に賛成だ。自分の口で信仰をしっかりと言い表すことができるようになってからの洗礼でないと正しい洗礼でないと考える必要はどこにもない。
なぜって、若い頃に受けた自分の洗礼も今、振り返れば、何にもわからないままに受けた洗礼だった。今思えば、はっきり言って、小児洗礼と少しも変わらないような洗礼だった。そして、今もまた、主のことを理解し尽くしているとは言えない。当たり前のことだが、知っていることよりも、知らないことの方がずっと大きい。
現代の日本の代表的な神学者の言葉です。しかし、これは、謙遜でも何でもなく、本当のことです。
もう長い時間、お話しすることはできませんが、最後に、少しだけでも、26節の言葉にどうしても触れておきたいと思います。
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」という主のご命令の言葉は、この主にあっては、深い慰めの励ましの言葉として聴くべきものです。
つまり、ユダヤ人のように、ギリシア人のように、同じように、的外れな私、ずっこけた私、誤解したままの私かもしれませんが、主は、私の愛を喜んで引き受けてくださるのです。
私の服従を、私がお仕えすることを、主は、喜んでくださるのです。
私自身は、ほんのちょっとの欠けだらけの服従だと思っているかもしれません。
ほとんど、まともな奉仕は出来ていないと思うかもしれません。
主のお背中は、ずーっと向こうの方にあるのではないか、これは絶対に追いつけないと感じるかもしれません。
しかし、そうではありません。
主イエスは、あなたはわたしのいるところにいると仰るのです。
こっそりと、ひっそりと、主の後に従う者に過ぎないような、主の愛にほんの少し目覚めはじめ、歩き出したばかりの私の幼子のような服従を、天の父が大切にしてくださる服従、原語では、天の父が、敬ってくださる、重んじてくださる服従だと仰るのです。
家庭にあっても、職場にあっても、学校にあっても、一人でいる時も、私がこれを、遠くからの服従、お茶を濁すような服従と思っているそこで、キリストはピッタリと共にいてくださる。
なぜなら、失われている者を、ご自分の民に数え入れること、それこそが、キリストの十字架の実りだからです。
単純に、この主の不屈の喜びを受け取りたいし、受け取るのです。小さな小さな信仰、小さな小さな服従しか捧げることのできない私であったとしても、事実として、神に喜ばれ、生かされている者が既にここにあること、既にキリストと一緒、常に主イエスと一緒の私であることを、今、ここでも受け取ることが許されているのです。
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