命の根源との出会い

5月29日 ヨハネによる福音書4章1節~30節

ヨハネによる福音書には、既に、これまでのところにも、主イエスと人々が交わした印象深い対話が記録されていました。

 

今日の個所はその中でもとりわけ、印象深く、一度聴いたら忘れることのできない主イエスがしてくださった私たち人間仲間との対話の記録です。

 

正午の井戸のほとりで為されたサマリアの女との対話です。

 

出来事の背景は次のようなものです。

 

ユダヤ地方で洗礼を授けていた主イエスとその弟子たちが、自分たちの活動が、ファリサイ派の人々に知られたということで、ユダヤを去り、故郷であるガリラヤに帰って行ったと物語は語り始めます。

 

このファリサイ派と呼ばれる人々、当時のユダヤの宗教の主流派に属する人々です。

 

やがて、もう一方の上流階級に支持者のあるサドカイ派と呼ばれる人々と協力して、イエス・キリストを処刑する謀略を実現した人々です。

 

既に、この活動の初期の段階から、ファリサイ派の人々から発せられる不穏な雰囲気、御自分に向けられる疑いのまなざしを感じ取ったということでしょう。

 

彼らの支配地域であるユダヤを急いで離れ、御自分のホームグランドと言えるガリラヤに戻られたのです。

 

このユダヤから、ガリラヤへの帰り道、4節ですが、「しかし、サマリアを通らねばならなかった。」とあります。

 

本来ならば、通らなくても良い土地であるにもかかわらず、この時は、どうしてもサマリアを通らなければならなかったのだという含みのある書き方です。

 

なぜ、サマリアという土地を通らなければならなかったのか?ファリサイ派の目の届かない所に、急いで移動したかったのです。

 

ユダヤの古代の歴史家ヨセフスという人が、こう書いていると学者は教えてくれます。

 

「急ぐ者はサマリアを横切る道を取る。そうするとエルサレムから三日でガリラヤに着くことが可能である。」

 

けれども、なぜ、急ぐ者だけがサマリアを通るのでしょうか?

 

9節後半にあるように、「ユダヤ人はサマリア人と交際しない」という常識があったからです。

 

このサマリア人と呼ばれる人々、元々は、主イエス達ユダヤ人と同じイスラエルの12部族に属する人々でした。

 

ソロモン王の次の時代に、イスラエル12部族は、南王国ユダと、北王国イスラエルに分裂しましたが、ユダヤ人は南王国の末裔、サマリア人は、北王国の末裔です。

 

ところが、それぞれの国民がその後に辿った運命は違いました。

 

北王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、自分の打ち負かした民族が、後に力を蓄え、独立戦争を起こさないようにと、征服した土地に、移民を多く移住させ、異民族間の結婚を推進しました。

 

そうやって、同化政策を行い、民族のアイデンティティーが失われていくように仕向けました。

 

一方の南王国ユダを侵略支配したバビロニア帝国は、打ち負かした民族が、反発せず、帝国の支配に従うように、なるべく自分たち独自の文化や宗教を守って行くことを認めました。

 

そのため、北王国のイスラエル人たちは、混血し、イスラエル人ではなく、サマリア人と呼ばれるようになりました。

 

しかし、この北王国の末裔であるサマリア人たちも、自分たちの信仰を忘れることなく、モーセが祝福を置いたとされるゲリジム山を聖地とし、そこで、昔ながらの信仰を続けました。

 

けれども、旧約のエズラ記を読むと、同じ12部族の末裔であるにもかかわらず、サマリア人がエルサレム神殿の再建に協力すると申し出た時、ユダヤ人たちは、彼らの血も信仰も純粋なものではなくなったとその申し出を拒否したのです。

 

それ以来、二つの兄弟民族は、険悪な関係となりました。

 

それゆえ、よほど急ぐ理由がない限り、ユダヤ人が、サマリア地方を通ることは考えられなかったのです。

 

正午、主イエスは、旅に疲れ、サマリアの町シカルの井戸のほとりに立ち止まり、弟子たちは、近くの町まで、食べ物を買いに出かけました。

 

この日の正午は、本来ならば、人が出歩いているような時間ではなかったのでしょう。井戸のほとりには、ただ一人の女が水を汲んでいるだけでした。

 

シカルの町の井戸でしたが、人里から少し離れた井戸であったようです。12節後半を読みますと、父祖の時代の昔から「子どもや家畜」が、この井戸から飲んだとあります。つまり、家畜の番をする少年やその羊が飲んだ郊外の井戸であると解説する者もあります。

 

だから、涼しい朝早くならばいざ知らず、正午の炎天下に、町から離れたこんな井戸に、水を汲みに来るものなどいないのです。

 

主イエスのほか、たった一人しかいませんでした。

 

このたった一人で水を汲んでいる女性に、主イエスが声をかけられ、忘れがたい会話を始められました。

 

9節からです。「水を飲ませてください。」

 

井戸ですから、すぐそこに水があっても、汲む桶がなければ、飲むことができなかったのです。

 

だから、水を汲みに来た女に、水を汲んで飲ませてくださいとお願いしました。

 

女は驚いて言いました。

 

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」

 

この言葉には、二つの驚きが含まれています。一つは、ユダヤ人が、サマリア人に話しかけたということです。

 

サマリア人を忌み嫌っているユダヤ人のあなたが、なぜ、わたしに話しかけるのですか?

 

もう一つは、ユダヤの教師である方が、女である私に話しかけるのはどうしてですか?という驚きです。

 

当時の常識では、公の場で、立派な成人男性が女性に声をかけること、特に、聖書の教師が、話しかけるというようなことはあり得ませんでした。

 

主イエスとサマリアの女との間には、本来ならば、二重三重の壁があるのです。

 

本来ならば出会うことのない二人、言葉を交わし、人間的な交わりを持つことはないはずのお互いであります。

 

けれども、主イエスは、そのバリアを破って、声をかけ、その傍らに歩み寄られたのです。

 

常識を破ってしまうほどに喉が渇いていたというわけではもちろんありません。結局、主イエスがここで水を飲まれたという記述はないのです。

 

少し先取りしますが、女はこの方との会話の終わりには、主イエスに水を汲んで差し出すのも忘れて、自分の大切な水がめさえも忘れて、町へと走り出すのです。

 

それではなぜ、主はこの女に話しかけられたのか?

 

10節の言葉にその理由があると思います。

 

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 

あなたは神の賜物を求めているね。あなたの魂は、からからに渇いているね。私はそれを知っている。だから、私はここに来なければならなかったんだ。

 

主イエスがなぜ、ユダヤからガリラヤに帰る途中に、サマリアを通過しなければならなかったのか?

 

ファリサイ派の人々から逃れるために、近道をしなければならないから、サマリアを通らなければならなかったのだろうと申しました。

 

しかし、それは、表面的な解説に過ぎなかったと思います。

 

本当の理由はここにありました。このサマリアの女に会いに来た。この人を目指してやって来て、その渇きを癒しに来られた。

 

弟子たちには、分かりませんでした。主イエスがサマリア地方を通らなければならないと思い定めた目的の人物であるサマリアの女にもわかりませんでした。

 

その無理解は、11節で主イエスに答えるサマリアの女の言葉を聴けば、明らかです。

 

「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。」

 

主イエスは、喉の渇きを癒す水の話をされているのではありませんが、サマリアの女はそれを理解しません。

 

主イエスは再度、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と、主イエスがお与えになる水は、肉体の渇きを癒す水のことではないことをお語りになります。

 

けれども、それでもわかりません。

 

女は答えて、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言います。

 

噛み合わない会話です。サマリアの女の願うものがあり、それに固執しています。

 

主よ、もしも、あなたがこの井戸を掘って我々に水を与えた信仰の父祖ヤコブを越える偉大な人物であるならば、是非、私はあなたが与えるという水が欲しい。その水を頂き、もう二度と、この井戸に汲みに来なくて済むようになることが、私の願いですと、答えるのです。

 

けれども、それは主イエスが与えようとされるものではありません。イエスというお方は、思ってもみないものを与えようとされているのです。

 

私たちが教会に通おうと思った時、キリストに救って頂きたいと教会にやってきたとき、思っていたのと違う、となる時があると思います。

 

こういう困りごとがある、こういう求めがある。イエス・キリストが救い主と言うならば、是非、この方に私の抱えるこの悩みを解決してほしい、あの悩みを解消してほしいと願います。

 

それならば、お言葉通りに、私が二度と、この問題に煩わされることのないように、助けてください。

 

その方自身も仰る。私はあなたに生ける命の水を与える。もう二度と渇くことのない水を与える。

 

主イエスの言葉と私たちの願いが重なりながら、しかし、微妙に食い違う。

 

何だか、会話は噛み合っていないのです。天に属する者の言葉と、地に属する者の言葉は、通じないという直前の聖書箇所の言葉が、ここでも、確認されるようです。

 

けれども、サマリアの女は主の心が理解できずとも、主はこのサマリアの女の求めをよく理解されているのです。

 

深く深く理解されている。この女自身が理解しているよりも、もっともっと深く理解されている。

 

そのことが、16節の「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」また、18節の「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」という16節以下に再度交わされるサマリアの女との会話の中での、主イエスのお言葉に、明らかであると思います。

 

この会話を通して、主イエスは、この人の本当の渇きに向き合っておられる。その本当の渇きを癒そうとされている。

 

どういうことか?

 

なぜ、この女の人は、もう二度と、この井戸に水を汲みに来たくなかったのでしょうか?

 

なぜ、この女の人は、炎天下の正午に、この町はずれの井戸に水を汲みに来たのでしょうか?

 

誰にも会いたくなかったからです。

 

人に会わないために、わざわざ炎天下の中に水を汲みに来たのです。

 

どうして人に会いたくないのか?

 

今まで五人の夫を取り換え続けたからです。そして今は、六人目の男と暮らしているからです。

 

この六人目の男に関しては、婚姻関係の中にすらありません。結婚もせずに、いや結婚してもらえずに、ずるずると同棲しているのです。

 

現代の感覚であっても、なかなか普通でない生活を送っていると言えるでしょう。

 

まして、当時の社会にあっては、とんでもないふしだらな女、身持ちが悪い人間だと、世間の爪弾きにあう存在であったということを意味しています。

 

町中の人々に白い目で見られている。自分の顔を見て、ひそひそ噂話をしている。

 

だから、誰にも合わないように、炎天下の正午に、水を汲みに来たのです。

 

「ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」というのは、水汲みという重労働から解放されたいということではないのです。

 

誰にも会いたくない。決して会わずに済むようになりたいということなのです。

 

ここにこの人の三重の壁の最後の、そして一番大きな壁がありました。

 

この人が主イエスに話しかけられたことを驚き、躊躇する理由は、自分がサマリア人であるからというだけではありません。女だからという理由だけではありません。

 

たとえ、同じサマリア人、同じ女性であっても、もしも、自分がだれであるか知られたならば、親しくだれかに話しかけられることがあるなど、決して考えることはできなかったのです。

 

ところが、主イエスは「わたしには夫はいません」と、答えるサマリアの女に言います。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。」

 

サマリアの女は目の前にいる方が誰であるか知りませんでした。

 

けれども、主イエスの方は、この女のことをよくご存知でした。全てをご承知の上で、二重三重のバリアをひょいと飛び越え、その傍に立たれました。目と目を合わせて出会いに来られました。

 

9節で語られていたユダヤ人はサマリア人と交際しなかったという言葉の「交際」という語は、原語では、もともと「器を一緒に用いる」という意味があります。

 

まさに主イエスがここで求めたのはそういうことでした。主はサマリアの女に器を借りて、水を飲みたいと願われた。そこで、女と器を共有することに何の妨げもお感じになられなかった。サマリアの女の仲間になられた。

 

戦国武将石田三成が、大谷吉継という人と同じ茶会に出席した時の有名なエピソードが思い起こされます。

 

抹茶椀に大谷の鼻水がポタッと入ったのを、石田三成が躊躇なく飲み干したというエピソードです。

 

この大谷、今で言うハンセン病を患っていたと言います。当時は、治療法のなかった感染症です。

 

それを見ていた出席者たちは、おそれおののき、大谷から回ってきた器を飲んだふりをして次に回したと言います。

 

けれども、石田三成は、自分の番になるとそれを全て飲み干し、もういっぱい頂きたいと言ったと言います。

 

それがきっかけとなり、石田と大谷は深い友情で結ばれました。

 

主イエスがサマリアの女に、私に水を汲んで飲ませてほしいと頼んだのは、同じことであったと思います。

 

ただ喉が渇いたということではありません。主イエスが見つめておられるのはご自分の渇きではなく、この女の人の渇きです。

 

本当の愛を探すように、次から次へと夫を変えて行きながら、かえってどんどん生活が崩れて行ってしまうその人を、ふしだらな女だと蔑まれるのではなく、満たされることなく渇き続ける人間の悲しみを感じ取り憐れんでくださった。

 

その傍らに立ち、器を共有する仲間となってくださった。神の独り子が、人々が忌み嫌うその人の持つ汚れを最初から全てご存じの上で、何の躊躇もなく、器を共有する友達になってくださった。

 

たまたま偶然、サマリアの女はこんな人に巡り会えたというのではありません。「サマリアを通らねばならなかった」のです。主イエスは、この人に会って、友とならねばならなかったからです。

 

もう余り長い話はできません。19節以下の記述を丁寧に見ていくことはできません。またの機会に譲りたいと思います。

 

けれども、28節だけは読んでおきたいと思います。

 

「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

 

サマリアの女は、まだよくわかっていません。主イエスがメシア、救い主、神の独り子であられることに。

 

けれども、彼女はおそらく全く無自覚であるままに、自分の望みを越えて、主イエスに出会い、主イエスの友となり、自分の殻から、思わず飛び出てしまいました。

 

誰にも会わないように正午の井戸に水を汲みに来ていた者、もう二度とここに汲みに来ないように、願った者が、我を忘れて、駆け出して行き、町の人々を主イエスの元まで引っ張って来ました。

 

もう二度とこの井戸に水を汲みに来なくて良いようにという彼女の望みが叶えられることはありませんでした。そのような奇跡が起こることはありませんでした。

 

けれども、思いつきもしなかった本当の渇きは癒やされたのです。

 

私が心動かされるのは、まだ、この人が主イエスが誰であるかをわかりきっていないのに、既に新しく生き始めているということです。

 

一度に全てを知る必要はないのです。劇的な改心を必ずしも求める必要もないのです。

 

乾いた大地に雨がゆっくりと染み込むように、この方が私の真の友であられること、生ける神であられることを知っていけば、それで良いのです。

 

それゆえ、ここに集められた誰もが、主イエスとの出会いの中に置かれているのです。この礼拝の説教を聴きながら、主イエスとの対話を始めているのです。

 

私はあなたの全てを知っている。あなたの友となるのが、私の意志だ。私はあなたを探しに来た。

 

私たちはさまざまな願いを持っているかもしれません。しかし、自分では気づきもしないで、心の底で本当に求めているのは、このような友、このような味方を得ることではないかと思います。

 

そしてその方は、既に私たちの傍らに立っておられるのです。

 

その時、私たちは自分のこだわりから解き放たれて、本当に人間らしく、本当の意味で自分らしく生き始めるのです。

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