命と希望

説  教  題  「命と希望」 勝山志づえ長老
聖書個所  ローマの信徒への手紙5章1節から11節
讃  美  歌    546、361、頌栄541 (54年版)

神様は、私の夫を9か月前に天に召してくださいました。

前夜式と葬儀で大澤正芳先生は、夫の幼少から今日まで見捨てず、信仰に導いてくださった神様のご計画を説教してくださいました。

その後は、どうしても「死」とその前の「老い」について考えざるをえませんでした。70才を過ぎると体力、気力が衰え、私もその老化の道を確かに歩んでおります。先週の礼拝でも大切な聖書の箇所をなぜか、途中までしか読みませんでした。このように、思い違いをし、確認の動作をしなくなり、誠に怪しく、危険な状態です。

この老齢の身で、8月に説教することなりました。老いと死を考え、夫のことを思い返すうちに、与えられましたのは、先ほど読んでいただいたローマの信徒への手紙5章です。夫は人生の終盤で信仰の確信を与えられました。このロマ書でパウロが「このキリストのお陰で、この信仰の恵みに導かれた。そして神の栄光にあずかる希望を誇りとする」と語るのを読み、夫は信仰を告白して、希望をいただいてから、神様の御元に召されてよかったとあらためて思わされました。

このロマ書の信仰による義をもっと深く理解したいと思い、聖書注解書を探し、本棚を覗きました。私はそんなにたくさん本を持っていないので、注解書があるわけはないと思っていました。ところがあったのです。55年前のことにさかのぼりますが、私は東京の信濃町教会に通っており、その時、高倉徳太郎著作集5巻が編纂され発行されました。

前の東京オリンピックの年です。当時信濃町教会は、福田正俊牧師で、東京神学大学の石原謙、佐藤敏夫、井上良雄、熊沢義信等の先生が、たくさん礼拝に来ておられ、東神大挙げてこの著作集に関わっておられたので、発行できたという興奮が教会にあふれていました。

それででしょうか、その本を私は何を思ったか5巻とも買ったのです。

当時、東京での寮生活が1万円で足りる時代に、1冊850円の本を5巻揃えて買ったのです。

それ以上呆れたことに、それを読まずに後生大事に引越しの度に運び、本棚に入れておいたのです。何度か読もうと思いましたが、字が小さく、難しいので、いつか、今度、その気になったらと手にとっては本棚に戻しました。まったく宝の持ち腐れでした。

しかし、この5巻目が聖書講義・ロマ書だったのです。

さて、パウロが語った福音は信仰によって救われるということでした。 

1節のこのようには1章から4章までの、人間の罪、それに対する神様の裁きが書かれています。しかも私たちのどうしようもない罪を、神様は独り子イエスキリストを、私たち人間、人類の罪の肩代わりとして、十字架につけて死なせた。そして、死に値するこの私の罪も十字架のゆえに赦してくださった、これが神様の恵みです。これが福音、よい知らせだと書いています。

ここでの罪は法律に反すること、道徳的な罪ではなく、私たちの心が神様の心を離れ、神様なんて関係ない、私は私のしたいことをして何が悪いと、自分が神になってしまっている、これが罪です。そして、自分は正しいと思うことです。実はこの手紙を書いたパウロがそうだったのです。

パウロは自分が正しい、イエス・キリストは間違っている。だから、イエスを信じている人を捕まえて牢屋にいれる、時には殺してもいいのだ、これが神様に喜ばれることだと思い込んでいました。

ですが、十字架で亡くなったイエス様がこのパウロに語り掛けられ、そこでパウロは回心させられたのです。

ここでパウロは神様の霊的祝福をどのように受けたかをこの2節で喜びにあふれて伝えています。このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導きいれられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

3節ではそればかりでなく苦難をも誇りとしています。

使徒言行録の9章9節で、イエス様の声を聞いたサウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。とあります。高倉徳太郎先生はこのパウロの様子を次のように表現しております。『これを罪悪に悶え悶えし彼の魂が、キリストとその十字架なる客観的事実にぶつかって、全く解決せられ、平和と歓喜とを衷心から味わったのである。』何と高尚な、難しい文でしょう。

でも、私はこの解説を、本当に感動しながら読みました。

優しく言い換えれば、パウロは、この罪に悶え苦しんだ。そしてキリストのその十字架を客観的事実と確信し、十字架によって赦されたことがわかった。その喜びを心から味わった。ま、こうなるのでしょう。

人は行いではなく、信仰によってのみ救われると、この福音を喜んで伝えずにはおられなかったのです。

この後パウロは牢屋に入れられ、迫害され、苦難を嫌というほど味わいました。しかしこの苦難を誇りに思い、3節~4節で苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。と書いています。5節で希望はわたしたちを欺くことはありません。とキリストの十字架による罪の解決を、救いの希望だと語ります。6節から11節では、実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ定められた時に、これは十字架の死ですが 不信心な者のために死んでくださった。私たちが罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。さらに11節では今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。と、主イエスの執り成しを語ります。

私はここを読むと、父なる神様が一人子イエス様に「頼むから、死んで!」と頭を下げてお願いしておられる光景を想像してしまうのです。

そして、特に私の心を捉えて離さないのは、少し戻った5節の後半です。

わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。というこの福音です。

つまり、神の愛が注がれている聖霊が働かなければ私たちは何事もできないのです。聖霊によって御言葉が私たちの内に入って、留まり、働き出すのです。その時には必ず、祈りが伴います。神様の御心を聞く祈りに聖霊は働いてくださるのです。それはイエス様の代わりに来てくださった聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

この度、私はこの長老説教をするという重荷によって、私に聖霊が働いてくださったことを教えられました。老いてみじめな思いをしていた者に、55年前から本を備え、その上、老人だから仕方がないとあきらめている者に、小さな文字が読め、理解させ、語れるように口を開いてくださったのです。これは、私だけでなく、ここにおられるお一人お一人に、神の愛が今も働き続け、注がれていることだと確信させられ、この喜びの経験を、証ししたいと心から思いました。

私たちは、苦難に立ち向かい、その厳しさを味わっている時、また、反対に平凡極まりない生活の中でも、聖霊の働きを待ち望みたいものです。

7月の終わりに大澤正芳牧師は「主イエスが先回りして死んでくださって、私たちを待っていてくださる。苦しみも恥もイエス様は先回りしてそのお姿を見せてくださっています。」と慰めに満ちた説教をしてくださいました。

その上、主を信じる者を愛の神様はこの死ぬべき命に、復活の約束があると、希望を与えてくださっています。

私たちは、恐れずに、希望をいただきながら、この老いの時を生きていきましょう。

ここで最近聞いたイタリアの話を紹介いたします。病院に一人の老神父がコロナに感染して入院してきました。彼は自分が病気を発症しているのに、自分の死を目の前にしながらも、瀕死の病人のベッドを回り、癒しの祈りをし、慰めていました。そこに信仰には全く無関心の若い医師がおり、その老神父の姿に、今までの自分の神様への不信仰が罪であったと気づかされ、悔い改めに導かれ、キリストを信じる者になりました。老神父はコロナウイルスのため亡くなりました。その若い医師は何時か自分も感染するという恐れの中、新しい命に生きる者に変えられました。

神様は消えそうな命をもってしても、神がこの世に贈られる贈り物とすることができるお方です。そのように私たちにも、そう生きることを求め、そうせずにはおれなくさせ、そしてそれを喜びとさせてくださる、これがキリストに極まった神の愛なのです。

私は命ある限り、愛の神様が私たちと共にいてくださることを喜んで、主を褒めたたえて生きたいと思います。また、用いていただけることがあれば、その時は、栄光を主にお返しして、生きていきたいと願います。

 

祈り 愛の父なる神様、この乏しい者が、ここに用いられたことを感謝します。どうぞ、私たちの歩みの終わりまで、聖霊を注ぎ続けてください。そして私たちを用いてください。主が世の終わりまで共にいてくださいますよう、切に祈ります。

この祈り主の御名によってお献げいたします。アーメン

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