受胎告知

12月5日 ルカによる福音書1章26節~38節

アドベントの第2週、たいへん有名な受胎告知の出来事を司式者に朗読して頂きました。

 

その朗読を聴きながら、みなさんの中には、教会や学校で、目にしてきたクリスマスページェントのあの一場面が思い起こされた方も多かったのではないかと思います。

 

粗末な椅子に慎ましく腰かける少女に、天使ガブリエルが現れる。少女は天使が放つまぶしい光を避けるように、椅子から降りてしゃがむ。その驚き、戸惑う少女に、天使ガブリエルが、救い主、懐妊の知らせを告げます。

 

自分は見る立場であったか、演じる立場であったか、一度でもクリスマスページェントを御覧になったことのある方は、この場面を、ありありと思い浮かべることができるのではないかと思います。

 

暗い舞台の上、簡素な身なりのマリアに、スポットライトの強い光が当たり、天使ガブリエルの輝きと言葉に、少女は戸惑い、動転するのです。しかし、最後には、天使の前に膝を屈めて、「お言葉通り、この身になりますように」と告白し、舞台は暗転いたします。

 

この印象深い受胎告知の場面、心に刻まれた受胎告知の出来事こそ、マリアだけではありません。主なる神様と私たち人間の間で起こる、起こらざるを得ない出来事のモデルです。

 

このマリアに起きた出来事を通して、神さまは、私たちが特別な者でなくても私たちを特別に選ぶ、私たちと共におられる主となってくださる。また、この私たちの主人は、私たち僕の幸せのためにこそ、主の中の主としての力をふるってくださることを本日与えられた御言葉によって、私たちにも告げられます。

 

一人の何の変哲もない少女です。この一人の少女にスポットライトが当たり、それから2000年経った、今日に至るまで、決して忘れられることのない世界一有名な女性になったのです。

 

私たちは決してこのマリアを拝むことも、彼女に向かって祈ることも致しません。しかし、私たちプロテスタント教会もまた、このマリアを特別な人であることを認めるのにやぶさかではありません。この人は、言葉そのものの意味において、「神の母」となったからです。救い主イエス・キリストを身ごもり、産んだという彼女の身にだけ起きた歴史的に一回きりの事実において、マリアは、他の誰とも比べようもない特別な輝きを帯びた存在です。

 

けれども、また、この人は、私たち全ての者のモデルと成りました。なぜならば、神さまは、何の変哲もない者を、特別に顧みてくださるお方であることを、このマリアの選びの出来事を出発点として決定的に始められたからです。マリアから生まれてくる救い主を通して、主なる神さまは、私たちと特別に共におられる方になってくださったのです。

 

マリアは私たちのモデルです。それは、私たちが、見習うべきモデルであると言うよりも、私たちに起こる神さまの御業のモデルです。マリアを見るとき、私たちのこの身に、神さまの御業というものがどのように起きるのかがよくわかるのです。神さまは特別でない者を特別に選ばれるのです。この私にも、神さまの光がスポットライトのように、必ず当たるのです。私たちもまた、神様のスペシャルになるのです。

 

マリアを見ることによって、私たちにも起きる、神さまの特別な御業がわかるようになります。しかし、これは一方通行に終わるものではありません。私たちもまた神様にどのようにお答えすることになるのか?この点においても彼女は私たちのモデルです。

 

マリアは今日の個所の最後にこのように言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

 

この言葉は私たちの神さまへの応答のモデルです。

 

極めて大切なのは、マリアが、ここで神様のことを主と呼ぶことです。もちろん、これは変わった呼び方ではありません。旧約以来、私たち人間が神様をお呼びするごく普通の呼び方です。

 

けれども、私たちが神様のことを主なる神様と呼ぶ時、あまり深く意識することはないかもしれませんが、私たちは、同時に、自分を主のはしため、主の召使いだと告白しているのです。私たちが、「主なる神様」とお呼びするときには、私たちは自分を主の僕として差し出しているのです。

 

もちろん、これは、私たちが自分を差し出す前に、神さまが、「私はあなたの主だ」と宣言してくださったから、そうお呼びさせて頂くのです。神さまが、「あなたはわたしのものだ」と、まず語りかけてくださったのです。私たちは、私たちとの関係をご自分の方から築いてくださる神様の御言葉を後からなぞるだけです。

 

このように神さまが主人であり、私たちがそのお方の僕であるならば、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」という言葉ほど、私たちが神様に申し上げるのにぴったりの言葉はありません。

 

神様が私たちをご自分の僕として選び、召し出されるならば、僕である私たちは、神さまが何と仰ろうが、何を私たちの人生にご計画されようが、僕は口を挟まず、異議を申し立てず、謹んでその丸ごとを受け入れることが正しいことです。神は神であり、人は人であります。神さまの愚かさは人の賢さに勝ると、聖書は語ります。

 

だから、どんなに理解しがたいご命令、理解しがたい、出来事が僕である私たちに託されたとしても、主なる神様に信頼して、丸ごと受け入れるのです。

 

けれども、私たちにとって、慰め深いことは、私たちの応答のモデルであるマリアは、主の御言葉を最後には、丸ごと受け入れましたが、はじめから戸惑いなしではなかったということです。

 

天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」との報せを告げられた時のマリアの最初の反応は、戸惑いでありました。

 

これは、突然のことでびっくりしたということなのでしょうか?落ち着いて考えれば、やがて、解消される戸惑いなのでしょうか?

 

私は、そうではないと思います。この天使の知らせを聴いた者は、腰を落ち着けて考えれば考えるほど、「なぜ、わたしにこの知らせが語られるのか?」という戸惑い、不思議を深めていくような種類の知らせではないかと思うのです。

 

最初に申し上げた通り、このような神さまの祝福を告げられる根拠が、自分の中にはないからです。「神さまが共におられる」と言って頂けるような必然性が、自分自身の中にはないからです。

 

落ち着いて考えれば考えるほど、そのことはマリアの中で、はっきりしていくでしょう。だから、この戸惑いは、突然のことでびっくりしたということを越えて、何の変哲もない者を、ご自分のスペシャルだと仰ってくださる神様の恵みの大きさに対する、決して解消されることのない戸惑いではないかと思います。

 

だから、「お言葉どおり、この身になりますように。」というマリアの応答は、彼女の戸惑いの、この側面から言えば、「こんな私で本当によろしいのでしょうか?けれども、お言葉ですから、感謝して、あなたのものとして生きてまいります」ということであったと言えるでしょう。

 

そうすると、マリアの応答は、私たちの応答のモデルだと言っても、真似るべき模範という意味ではないことがよくわかるのではないでしょうか?

 

マリアの告白は、こう応答しなければならないという私たちの努力目標ではなく、ふさわしくない者を選ばれる神さまの恵みに圧倒される者が、感激しながら、思わず口から突いて出てしまう必然的な感謝の応答です。そして、このような応答は、実は、マリア以上に、今を生きる私たちにこそ、ぴったり来るものではないかと思います。

 

なぜならば、この私たちこそ、キリストが人となられ、その生涯を十字架に至るまで歩み通されたことを、知っております。私たち人間が主の僕としてどんなにふさわしくない者であるか、あのキリストの十字架において、私たちはマリア以上にはっきりと知っています。

 

しかし、キリストを十字架につける罪人である私たちを、それでも神がご自分のものとしてお選びになる。このキリストの出来事を通してこそ、私たちを決して捨てない、私たちと共におられる神であられることを、私たちははっきりと知っています。

 

だから、私たちは、マリア以上に、この自分が神の選びの内にあることに戸惑わざるをえません。腰を落ち着けて考えれば考えるほど、感激せざるをえません。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」これは全くイエス・キリストが真実としてくださった私たちのことです。

 

「神さまよろしいのですか?本当に私のような者が、この大きな恵みを受け取ってよろしいのですか?わたしは御子を十字架につけるような人間の一人です。しかし、わたしは主の僕です。お言葉どおりこの身になりますように」。

 

それ以外の言葉が、私たちの応答であり得るでしょうか?

 

しかし、また、マリアの戸惑いは、恵みの大きさへの感激に尽きるものではないでしょう。神の特別な選びに、自分のようなふさわしくない者が、与らせて頂く不思議と共に、その神さまの特別な選びがもたらす現実に関わる戸惑いです。

 

思いがけずに神さまに選ばれたマリアに語られた神の御計画とは、天使ガブリエルの掛け値なしの「おめでとう」という祝福の言葉にも関わらず、人間的な視点で見れば、決して簡単に喜べるものではありませんでした。

 

天使は何の理由もなしに自分のような者を選ばれた主の選びに戸惑うマリアに、その戸惑いを解消するのではなく、より深めてしまうことになる神の言葉を語りました。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

この言葉の主眼は、ひたすら、マリアから生まれてくる御子の、偉大さを語ることです。天使ガブリエルはほれぼれと、やがて実現する御子の御支配を賛美しているかのようです。

 

けれども、マリアの心に留まったのは、生まれてくる御子の偉大さではなく、「わたしは男の人を知りませんのに、どうして、そのようなことがありえましょうか。」ということでした。

 

この、より戸惑いを深めたような言葉は、乙女が身ごもるという奇跡への驚きを表明する言葉ではないでしょう。

 

むしろ、婚約者のいる身でありながら、未婚の少女が、誰とも知らない相手の子を宿しているということが、当時の社会の中で、どのようなインパクトを持って受け止められるかということへの恐れと戸惑いであると思われます。

 

それは決して許されざることだったのです。私たち現代人の感覚から大きくずれた野蛮なことではありますが、石打ちによって、処刑されても、仕方のないほどのことであったのです。

 

この戸惑いもまた、私たちに決して無関係なものではないと思います。キリスト者として、この世を生きて行くことは、必ずしもプラスに働くことではありません。

 

私たちがそれほどの困難な状況に立たされることはないかもしれません。けれども、信仰の節操を保つための小さな戦いは生活の至る所にあると言って良いでしょう。信仰があるために損をすることが無数にあるのです。得するよりも、損することの方が多いかもしれません。

 

それならばなぜ、信仰するのか?それは、神が神であり、人が人であるからです。

 

しかし、それは、僕は主人の言うことに黙って従わなければならないということではありません。

 

そうではなくて、目先の損得勘定を、帳消しにしてしまうほど、私たちにとっても、このお方と共に生きること自体が、幸せを実感させることであり、めでたいことであるのです。

 

かつて共産主義国であった東ドイツでは、信仰熱心であるならば、大学進学を諦めなければならない状況があったと言います。無神論の国であり、信仰は捨て去るべきものだと国家が望んでいたからです。教会に通い続ければ、自分の大学進学もあきらめなければならないし、親も失職してしまう危険がある。

 

しかし、ある日本の牧師が、その国を訪れた時、そのような状況の中で、多くの若者たちが日曜日に礼拝に集い、日曜日に留まらず、平日夜の集会にも集まり、語り合い、賛美を歌い、自分たちの置かれた苦境について討論し続けていたと言います。

 

その東ドイツの若者たちに、こんなに辛い目にあっているのに、なぜ、君たちは、教会に通い続けるのか?と率直に日本の牧師は問うたと言います。すると、ある一人の少年がこう答えたそうです。

 

「ぼくを人間として扱ってくれるのは教会だけです!」それを聞いた周りの若者たちは静かに、深くその言葉に同意を示したと言います。

 

彼らは教会で聴いたのです。「わたしはあなたの主だ。あなたたちの命に責任を持つのはこのわたしだ。」

教会とは、毎週毎週、公に、はっきりと、この神さまの言葉を自分でも聞き、また世に語るように召されている群れです。

 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」天使ガブリエルの言葉を聴きながら、マリアは、どんなに思いがけない計画を主が自分の人生に用意されていようとも、主はわたしを愛しておられる。主は、わたしが、本当に幸せになるように、配慮してくださる主人だと信じることが許されたのですが、私たちは、マリア以上に、この確信に生きることが許されているのです。

 

なぜならば、繰り返しになりますが、私たちはマリアがまだ見ていなかった御子イエス・キリストの十字架を知っているからです。神は、人間の罪がもたらした最低最悪の悪魔的出来事を通し、世の初めから終わりまでの内で、最も素晴らしいことをしてくださいました。神は私たち人間の罪と悪魔の猛威が頂点に達したその所で、私たちを罪と死と悪魔の虜から取り戻し、神の子としてしまわれたのです。

 

この御子の十字架を知るわたしたちは、一方においては、神の不思議なご計画の途上にあっては、私たちが苦しまなければならないことがあること、死ななければならないことがあることすら示唆されますが、もう一方においては、それで終わりではない。神の御計画の内にある、神の大切な私たちのことは、死すらも損なうことは不可能であることを示しています。

 

今から私たちは祝う聖餐を祝います。この聖餐を通して、今、再び、「生きる時も死ぬ時も私はあなたの主である。わたしはあなたと共にいる」という主の御言葉を耳だけでなく、この体でも味わいます。そしてまた、この洗礼を受けたキリスト者の食卓である、この聖餐に与ることによって、「お言葉どおり、この身になりますように」と、私たちは、主なる神様に向かって告白し、また、世に向かってその神さまを一緒に信じようと証しするのです。

 

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