十戒

7月7日(日) 出エジプト記20章1節~17節 マタイによる福音書5章17節~19節 松原 望 牧師

聖書

出エジプト記20117

1 神はこれらすべての言葉を告げられた。

2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

13 殺してはならない。

14 姦淫してはならない。

15 盗んではならない。

16 隣人に関して偽証してはならない。

17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

マタイによる福音書51720

17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

「 説教 」

イスラエルの民を奴隷のように扱っていたエジプトに、主なる神が災いを下し、イスラエルの民だけがその災いを免れました。神はモーセを通して、これを記念して毎年「過越の祭」を行うようにと命じました。

この災いにより、エジプトはついにイスラエルの民を国から追い出すことにしました。

エジプトを出発したイスラエルは、神の導きによりシナイ山へと向かいました。途中、エジプト軍が追いかけてきましたが、海の水を真っ二つに分け、その間の乾いた地を歩き、向こう岸にわたりました。あとを追いかけてきたエジプト軍は、二つに別れた海の水が戻ってきたため、全滅してしまいます。その後、イスラエルの民は旅をつづけ、神から水や食べる物を与えられながら、シナイ山に到着しました。エジプトを出て三月目(みつきめ)のことでした。

シナイ山のふもとにイスラエルの民を残し、モーセは一人山に登り、十戒を授けられました。これが先ほど、皆さんと一緒に朗読した「十戒」です。

十戒は、主イエスが教えてくださった「主の祈り」やすべてのキリスト教会の共通の信仰である「使徒信条」と並んで、「三要文(さんようもん)」と呼ばれ、大切にされてきました。私たちの教会が毎週の礼拝でこの三要文を唱えているのは、すべてのキリスト教会がこの三要文を教会の信仰の中心としているからです。

ちなみに、私たちの教会は日曜日の礼拝を「主の日の礼拝」と呼んでいますが、キリストが日曜日に復活したことを意識しての呼び方です。教会によってはこの日曜の礼拝を「公同(こうどう)礼拝」と呼ぶところもあります。「公(おおやけ)」に「同(同じ)」という漢字を当てはめています。

「公同の」という言葉は使徒信条の中でも「聖なる公同の教会を信ず」という言葉で使われています。この「公同の」という言葉はラテン語のカトリケーという言葉から来ており、「普遍の、遍く」などの意味があります。この言葉からカトリックという言葉ができ、カトリック教会という教派名ができました。カトリックという言葉は、一般にカトリック教会を指して使われますが、もともとの意味からすると、プロテスタント教会もカトリック、「公同の」教会なのです。

 

話を十戒に戻します。

礼拝で十戒を扱うとなると、一回ではとても時間が足りず、それこそ十回ほどの礼拝が必要になります。ですから、今日は十戒そのものではなく、律法について話をしていきます。

 

出エジプト記は全部で40章あります。「十戒」は20章で紹介されます。1章から19章まではイスラエルの民がエジプトを脱出し、シナイ山に到着するまでの物語です。後半の20章から40章までは十戒から始まって、数々の戒め、会見の幕屋や祭司についての宗教的な規定が記されています。これらの戒めは、次のレビ記、民数記、申命記に続けられていきます。部分的に物語もあるのですが、ほとんど戒めになっていると言えます。これらの戒めを「律法」と言います。

 

1、律法

律法という言葉は、意外に少なく、旧約聖書の中で初めて律法という言葉が出てくるのはレビ記です。しかも一回しか出てきません。続く民数記でも一回出てくるだけです。その後になると、数多く出てくるようになります。

律法と同じ意味で使われる言葉には、「戒め」「掟」「定め」などいろいろありますが、今は区別をしないで、「律法」という言葉を使っていくことにします。

 

ここで、もう一つ付け加えて説明しておかなければならないことがあります。それは、創世記から申命記までの五つの書を「律法」と呼ぶことがあるということです。

先ほどお読みしましたマタイ福音書5章に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」という言葉がありましたが、そこで言われている「律法」が創世記から申命記までの五つの書を指しているのです。

ついでに言いますと、そこに出てくる「預言者」というのも旧約聖書のことで、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下と、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、そしてホセア書からマラキ書(12小預言書)を指しています。時間がありませんので、詳しい説明は省きますが、これは旧約聖書の成り立ちに関わってこのように呼ばれています。ですから、マタイ福音書の「律法と預言者」というのは旧約聖書という意味で使われているのです。

 

2、律法と契約

律法について、私たちはあまり良いイメージを持っていないのではないかと思います。律法に縛られた生活はかたっ苦しく、むつかしいと感じます。確かにそういう面はあります。しかし、律法の目的は、私たちの自由を束縛することにあるのではありません。救われた私たちが、神の御心にしたがって、秩序ある生活をさせることにあるのです。使徒パウロが「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(Ⅰコリント14:33)と語り、教会における秩序を教えました。それと同じように、神に救われた神の民イスラエルがそれにふさわしく秩序ある生活をするようにと与えられたものなのです。

 

ここで、心に留めておきたいことは、「神との契約」ということです。今日の聖書の箇所には出てきませんが、出エジプト記24章に、イスラエルの民が神と契約を結ぶ場面が記されています。この契約と律法は、切り離すことができない関係にあります。

後に預言者によって、イスラエルは神との契約を破ったと厳しく責められます。具体的には、契約を結んだ時、イスラエルの民が主の言葉を守ると誓ったにもかかわらず、その戒めを破り、他の神々を拝み、神との契約を破ったと言われているのです。

神との契約は神の民となるという契約で、それにふさわしい生活をするようにと与えられたのが律法なのです。ですから、神の民としての生活の指針と言っても良いと思います。

無数にある戒めですが、その中でも特に預言者が問題にしたのは、他の神々を拝むことと、安息日を守らないことでした。このことのために、イスラエルの民は神の契約を破ったと言われ、厳しい裁きを受けると警告されたのです。

 

3、律法主義に陥ったイスラエルの民

預言者が告げた通り、イスラエルの民は神の裁きを受け、バビロン捕囚という大きな悲劇を経験することになりました。神がイスラエルの民を憐れみ、再びパレスチナへと帰らせました。この大きな刑罰を経験したことから、神の律法を何としてでも守っていかなければならないと決意しました。そこで起きたことは、律法主義でした。律法を行うことによって救われるという考え方です。

彼らの理屈は、律法を破ったから神との契約が破棄されたのだ。それなら、律法を守ることによって神との契約を成立させることができるはずだと考えたのです。こうして、厳しく、細かく、厳格に律法を守っていこうとする律法主義へと進んでいくことになったのです。

 

4、契約から律法へという流れが大事

契約と律法の関係を考える時重要なことは、イスラエルの民が律法を行ったから神はイスラエルの民と契約を結んだのではないということです。神の方から契約を示してくださり、イスラエルの民はそれに応えて契約の関係に入るのです。イスラエルの民の方から、神に契約を結ぶよう強要することはできません。バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は、自分たちの方から、神と契約の関係を回復することができると錯覚して、律法主義に陥ったのです。

預言者エレミヤは神との契約が破られたと宣言しましたが、それと同時に、神の方から新しい契約が示されると預言しました。そして、その新しい契約は、主イエス・キリストの時まで待たなければならなかったのです。

 

5、律法を完成するために

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃいました。また「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」ともおっしゃっておられます。

私たちは自分で律法を完全に守ることはできません。それは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)と言われているとおりです。

私たちは律法によって自分の義を確立することはできません。しかし、キリストが私たちに代わって、律法の要求するところを満たしてくださり、キリストの義に結ばれて、私たちは義とされているのです。(ローマ7:1~4)

使徒パウロはこのことを「キリストは律法の目標です。信じるものすべてに義をもたらすために」(ローマ10:4)とも言っています。「キリストは律法の目標」という言葉を口語訳は「律法の終わり」と訳しています。律法を私たちに代わってその要求を満たしてくださるという意味です。

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