十字架より出る命の流れ

12月17日(日)主日礼拝  大澤正芳牧師

先週は月曜日、火曜日と東京に出張に行ってきました。私が最初に卒業した教派を超えた夜間の神学校で説教黙想について教えて来ました。その神学校は、日本基督教団の学生は少なくて、いわゆる福音派の方々が多いので、私の初めての授業を受け入れてもらえるかどうか心配しておりましたが、学生たちは積極的に参加してくださり、熱気あふれる良い時間になったと感謝しております。

この授業は、牧師たちが説教準備の最初に行う第一の黙想と呼ばれる黙想をご紹介し、また実践するものでした。

しかし、今回のためにゼロから準備したものではなく、この教会で11月に行いました教会修養会「楽しい聖書黙想入門」で語ったことも大きな備えとなっていました。

信徒の聖書黙想も、牧師の説教準備のための第一の黙想も、結局はそう変わるところはないからです。どちらも、自分の目の前に開かれている聖書の言葉を、今、この私に向かって語りかけておられる生ける神様の御言葉として聴こうする聖書の思い巡らしです。

説教者である牧師は、次の日曜日、神によって、教会の礼拝へと集められた会衆、聴衆、礼拝者に先立って、今、自分たちに語りかける生ける神の言葉を聴き取ろうとし、その聴き取ったことを、今、自分たちに語りかける生ける神の御言葉と信じ、語るのです。

そのために、聖書の黙想をします。

しかし、教会修養会でも、神学校の授業でも、私はこれこそが一番大切なこととして強調しましたが、一番大切なのは、「待つ」姿勢なのです。

聖書の言葉を自分で操作してはならない。自分の都合の良いように聴こうとしてはならない。

聖書の言葉自身が開き、光り輝き出すのを待たなければならない。

生ける神の霊が、聖書を自分の都合に合わせて読んでしまう私たちの頑なな心を打ち砕き、あなたの御前にひれ伏すことができますようにと祈りの内に繰り返し読みます。

出張からの帰りの新幹線の中で、テキストとして用いた、書物を読みながら過ごしました。

黙想論を語った、何章か後で、「聞くことについて」という項目があります。

そこでは、改めて我々人間が、頑なに神の言葉を聴くことを拒むのか?説教を聴くことへの抵抗ということを丁寧に考察していました。

簡単に言うならば、そこで説教学者ボーレンは、私たち人間の耳は、なかなか強情だと言うのです。

瞼を持つ目や、唇を持つ口とは違って、耳は私たちが自分の意思で物理的に閉ざすことは出来ないように見えるのだけれども、静かに人知れず閉ざせてしまうものなのだ。

話半分に聴いたり、聴き流したり、聴き流せないような響きを持って迫って来る言葉であっても、自分が受け入れやすいように、解釈しなおしたり、それが、我々の耳だというのです。

聖書の言葉はふるさとを求めるように私たちの耳に届こうとするのだけれど、耳にはいらくさが絡みつき、届くことができない。

耳は、自分が聞きたいと思うこと、自分を保証してくれるものだけを聞きたがっている。そして、それがどんどん習慣化してしまう。

このような頑な耳の方が、預言者よりも強いことになりかねないのだと、その人は率直に言います。

しかも、本当に厄介なことに、預言者の言葉、神の言葉を聞き取り損ねているその耳は、なお、自分は神の言葉に耳を傾けていると思い込んでしまうのです。

全く、自分を批判する言葉を受け入れず、その耳を本当は神に対して閉ざしてしまっているにも関わらず、習慣化した自分の聞き方に安住しながら、自分は神に聞き続けている者だと思い込んでしまうのです。

今日、このアドベント第三週に私たちが耳を傾けている、聖書の言葉にもまた、そのような人間の耳の頑なさ、また、思い込みの罪の姿が、はっきりと見えています。

「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り下ろすように、ピラトに願い出た。」

ここには恐ろしいほどに、捻じ曲がってしまった私たち人間の耳があります。

次の日は特別な安息日、その日に、神に呪われた者を、地上に置き続けてはならない。早く処分しなければならない。

そう考えた者たちが、主イエスの遺体を十字架から急いで取り下そうとしたのです。

彼らの信じる神の言葉の言葉への服従として、そうすることを願ったのです。

旧約申命記21:22以下にこうあります。

「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」

十字架のもとにある彼らの心にはただ一つの思いだけが占めていました。

神の言葉である、神の律法を守るという思いでした。この神の言葉に、今この時、忠実に従うために、この呪いに木にかけられた呪われた者を、誰の目にも届かない所に打ち捨てるということでした。

こんな呪わしい死体を地上に晒したまま、特別な安息日を迎えるわけにはいかない。神の奇跡によって、自分たちの先祖が奴隷の家であるエジプトから脱出したことを祝う、年に一度の特別な祭りを汚すわけにはいかない。

神の言葉に従う誇りの内に、彼らの正義の内に、ローマ総督ピラトのところまで遺体の取り降ろしを頼みに来たのです。

けれども、彼らの神に従う思い、御言葉に聞き従っているという誇りが、恐ろしいほどの罪の姿そのものであり、結局、聖書を捻じ曲げて、自分の聴きたいように聴いていたことに過ぎなかったということを、この物語を読む者は誰でも知るのです。

しかし、この私たちもまた、同じような過ちに陥らないとは限らないのではないでしょうか?

いいえ、そもそも、いつでも聖書の言葉を自分の好きなように読み替えてしまう自分であることに気付かない限り、この聖書の言葉をこの私に向けられた生ける神の言葉として聴いたことにはならないのではないかと私は思います。

まさにこの自分が、神の言葉を聴いていると思うそのところでこそ、神の言葉に耳を閉ざしているその人自身であることに、気付くことがないならば、私たちは、神の言葉を聴き損なったのではないかと私は思います。

そして、私たちはいつもそのようにして神の言葉を聴き損なってしまう者なのではないでしょうか?

「そうではない」と言いたいかもしれません。自分たちは、自分はこの言葉を、自分を裁く痛い言葉として聴く必要はないと言いたくなるかもしれません。

しかし、それは本当はもったいないことです。残念なことです。

なぜならば、このような聖書の言葉の前に、不安になり、おののきを感じるならば、それは本当は幸せなことだからです。

主なる神様が仰います。

「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」

イザヤ書66:2の言葉です。聖書を読む時、いつでも思い起こす必要のある言葉です。

その言葉の直前66:1に神の言葉を恐れおののいて聴く者に対する、主なる神様の決意が語られています。

天を王座とし、地を足台とされる主は、このような砕かれた者達の集いを、ご自分の神殿、安息の場とされると。

だから、私は申し上げたいと思います。

神の言葉に従い得ない。聖書の信仰から遠い所にいると自分を場違いのように、心砕かれた者、おののきを感じる者は、幸いです。

主なる神様は、神に向かって顔を上げることのできないあなたの心を喜ばれ、あなたをご自分の神殿とされ、あなたと共にいることをご自分の安息と数えらておられます。

神に選ばれ、生ける神と共に生きるということは、いつでも、喜びでありますが、それは、いつでも、決して気安いものでもないと思います。

つまり、その付き合いを自分の都合で望んだり、キャンセルしたり、自分勝手に出来るような気安さとは無関係なものだと思います。

なぜならば、くっきりとした人格を持った相手との付き合いは、骨の折れることでもあるからです。

尊敬に値する相手との付き合いというのは、人間同士であっても、本当は一筋縄ではいかないものではないでしょうか?

それだからこそ、手応えのあるものなのです。

自分の聴きたいことだけを聴かせてくれ、自分の信念を強化してくれるだけの相手、付き合うも付き合わないもいつでも自分の自由になる相手は、自分の延長でしかありません。

もしも、神をそのようなお方として期待するならば、それは生ける神ではなく、偶像です。

けれども、主イエス・キリストにおいてお語りになる生ける神は、私たちに心地よいことばかりを語ってくださるわけではなく、私たちが聴きたくないことをお語りになるのです。

だからこそ、このお方は私たちの生涯かけてお付き合いすることのできる、骨太なパートナーでありうると言えるでしょう。

しかしまた、それゆえにこのお方は十字架につけられたと言わざるを得ません。

もしも、主なる神様が、私たちの理想通りの神そのもののお姿であったならば、私たちにはこういう神があって欲しいという期待通りのお方であったならば、私たち人間の祖先の手によって主イエス・キリストが十字架に付けられることは決してなかったのです。

十字架、それは、現在、イスラエルとガザの間で起こっていること、ウクライナとロシアの間で起こっていることと同じことが、私たち人間と神の間に起きたということです。

同じ天を戴くことのできない不倶戴天の敵として、私たち人間は神の独り子を十字架に付けたということです。

ところが、今日、私たちが耳にしている聖書の物語においても、イエス・キリストの十字架を巡る言葉の内には、絶えず絶えず、「これらのことが起こったのは・・・聖書の言葉が実現するためであった。」という言葉がこだましています。

神の言葉に聴くことが出来ない人間の罪、心地良いことを語ってくださらない神の言葉を圧殺しようと、独り子なる神を呪って殺そうとする人間の罪、しかも、神の独り子を殺しながら、自分たちこそ正しいと信じ込んでしまっている、神の不倶戴天の敵となった私たち人間の姿を赤裸々に告発しながら、これは、聖書の言葉が実現するためであったと、何度も何度も何度も宣言し続けるのです。

聖書の言葉、すなわち、神の御心です。神のご意志です。一度語られたら決して、空しくは戻ることのない実を結ぶ神のご意志が、その十字架で貫かれたと宣言し続けるのです。

今、聖書を読む私たちは思います。貫かれたのは人間の罪ではないか?神の言葉を聴かない人間の強情ではないか?その私たち人間の強情が、神の言葉に聴いているつもりになりながら、結局、神の言葉をこの世界から、私たちの生活から退場させているのではないか?

まさに、あの説教学者が語るように、預言者の言葉よりも、私たちの頑なな耳の方が、強いということが、ここで起こってしまったということではないのか?

最高にそう見える、そうとしか言えないこの十字架のスキャンダル、神の言と呼ばれた方の死の事件において、しかし、同時に、神の言葉、神の御意志が貫かれたと聖書は宣言し続けるのです。

それは、私たち人間が神の言葉を聴き得ず、神に従い得ない人間であることを、神がお認めになった。人間とはどうせそのような罪人に過ぎないと、神が、人間を諦められたというようなことではありません。

この預言者達の言葉、旧約の預言者、そしてその神のご意志の実現を、キリストの十字架の出来事に見る福音書記者の言葉は、「あなたがたにも信じさせるため」、その言葉を聴く私たちが信じるようになるための、出来事となった神のご意志が実現したと語るのです。

何が現実の出来事となったのか?どのようにして神の御意志が実現したのか?

イエス・キリストの十字架の出来事です。いいえ、私たちのために十字架におかかりになるイエス・キリストの存在そのものが神の御意志の実現です。

このお方において、神が私たちに人間に激しくお語りになっておられます。

このキリストを見る時、あなたは私の思いを見たと、神は激しくお語りになるのです。

そして、その十字架のキリストを見上げるならば、あなたがどんな者であっても、あなたは生きると神はお語りになっているのです。

このキリストに信頼せよという神の招きがここにあります。

不倶戴天の敵であるあなたよ、このキリストがあなたの友であり、このキリストがあなたの兄であり、このキリストにあって、私があなたの父であると、その御心をお語りになっておられる神の招きがここにあります。

説教の言葉が通じるというのは、このような神の招きを、この自分に語りかけておられる生ける神の言葉として聴けるということです。

しかし、最初に申し上げました通り、神がこんなにも誠実を尽くしてくださったとしても、私たちが、耳を閉ざし、この福音すら聴きたいようにしか聴かないのだとしたら、一体どうなってしまうのでしょうか?

そして、むしろ、この福音こそ聴きたいようにしか聴こうとしないのが、私たち人間だと言わざるを得ないのです。

けれども、それで終わりではありません。神の言葉は消えません。

そのために教会が召されています。そのために戦っているのが教会なのです。

日曜毎に、私たちはここに連れて来られて、教会の語る神の言葉を聴きながら、37節「自分たちの突き刺した者を見る」のです。

もちろん、他の誰教会自身が、自分たちが突き刺してしまった方を見るのです。他の誰でもなく、まず、教会に連なる私たちが、神の言葉を自分の聴きたいようにしか聴かず、キリストと同じ天を戴くことを望まず、神の言葉に従う正しさと信じ、キリストを殺し、処理しようとするその当人として、十字架を見るのです。

しかしまた、そのような私たちでありながら、同時に、35節、それを目撃した者として、証する者として、その証は真実であると信じる者として、教会は、この世がこのキリストに出会うようにと、その自分たちの突き刺したキリストを見上げ、この人を見よと語るのです。いつも、この日曜日ごとに。

そうです。ここに私たちが集められている。ここで、私たちが福音に聴いている。キリストの福音を聴くことを喜んでいる。その福音を聴くことを喜んでいる者達の群れの中に、招かれて、共にこのキリストの出来事を聴いている。

あなたは神の言葉を聴かない者、聴けない者であるという厳しい裁きの言葉を、この自分のことを言い当てる言葉だと身につまされて聴いている。

あるいは、その言葉から逃れようと心の中で言い訳を始めようとする時も、その言い訳を始める、心がざわつくということの中に既に、神の生ける言葉が、この私を目掛けて語っている言葉だということが、わかりはじめ、届き始め、聴き始めているのです。

そして、そのようにざわつき、逃げようとする我々に向かって、次の神の言葉が、命中いたします。

「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」

そうだ。そのあなたこそが、私の神殿、私の安息の場であると。

それが教会です。神の言葉がぶち当たってしまった者の集いです。

神の言葉が私たちの耳を、このように、懇ろにこじ開けてしまったのです。

瞼を持たず、唇を持たず、だから、誰にも知られることなく、密かに閉ざすことのできる私たちの耳、密かに聴きたいように聴くことができる私たち人間の耳、そのわがままな私たちの耳を、神がこじ開け、聴くべきものを聴けるようにしてくださるのです。

34節に、十字架で息を引き取られたキリストのお体を、その死を確かめるために、兵士たちが、槍で突き刺すと、そのお体から血と水が流れ出たという不思議な記述があります。

この記述を巡って、様々なことが語られて来ました。二週前にも語りましたように、血と水は、洗礼と聖餐という教会のサクラメント、聖礼典を示しているとも教会は理解してきました。とても教会らしい味わい深い読み方です。

しかしまた、これを直接、洗礼と聖餐のサクラメントと結びつけなくとも、いいえ、洗礼と聖餐のサクラメントをその内に含みながら、それを越えて、ここには、ただただ私たち人間のための命が十字架のキリストの脇腹から流れ出していると、より広く、よりシンプルに理解する読み方も大切にされて来ました。

血と水、それは私たち人間を形造る命の象徴だからと、ある人は言います。

そのような私たちを生かす命がキリストの脇腹からどくどくと流れているのだと言うのです。

血と水、それぞれを語るのではなく、それは、一つの命の流れであると語るのです。

教会の語る言葉によって、私たちが突き刺したキリストを見ると、そのお方から、命の流れが溢れ出しております。

この37節の聖書の言葉は、ゼカリヤ12:10に記された聖書の言葉です。

そこにはこうあります。

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

キリストの出来事がこの私のための出来事、私自身が当事者であることがわかるようになるのは、神が憐れみと祈りの霊を注いでくださるからです。

神がお注ぎになるこの憐れみと祈りの霊、神の聖霊が、神の言葉を捻じ曲げて聴こうとする私たちの耳に、生ける神の言葉を、この私のための生ける神の言葉として、私の嘆き、私の悲しみ、私の喜びとして聴けるようにしてくださるのです。

ゼカリヤ書は続く13章でも、私たちのために「罪と汚れを洗い清める泉が開かれる。」と約束しています。

その泉が開かれるその日、私たちの耳元で囁く数々の神々、偶像は、取り除かれるとそこでは約束されています。泉が開かれる時、偽りの預言者も、汚れた霊も、追い払われ、神の言葉をまっすぐに聴くことが出来るようになるのです。

その泉こそ、キリストの十字架から溢れ出した命の流れであると福音書記者は語ったのです。

神の言葉に耳を傾ける今、この会堂にも、同じ命の流れの中にあります。

様々な聖書箇所を引いて恐縮ですが、エゼキエル書47章ではこの命の水の流れは、その源から流れ出ると、長く長く続いて行き、下流に行くと、細くなるどころか、広く広く深く深くなって行き、泳がなければ渡れない川となると語られます。

ほんの少し私たちを濡らすのではありません。命の水に、私たちはどっぷりと浸かっているのです。

私たちの心が、どんなに頑なであっても、私たちの耳がどんなにわがままであっても、必ず、わたしに命中する命の言葉を、この耳をこじ開け聴かせてくださるのです。

そして私たちは、私たちが突き刺したキリストを見上げます。そのようにキリストの十字架を見つめている自分を見つけます。

神は、自分の深い罪と、それよりももっと深い神の憐みに心震わせている私たちを、御自身の神殿、御自身の安息の場としてくださっているのです。

祝福された皆さん、神はあなたと共におられます。

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