新しい年、主の年2018年となりました。しかし、私たちキリスト者にとっては、この新年の第一日は、昨年のことを忘れて、今日から心機一転新しい生活を始めるための一日ではありません。私たちは、過ぎた2017年の内、一日たりとも忘れる必要のある日はありません。今日、昨日まではなかった新品の祝福や慰めを探し始める朝に目覚めたのでもないことを知っています。私たちは、昨日まで私たちを生かしてくださった神の恵みに、今日からも生かして頂くのです。
このような私たちにふさわしい御言葉と信じ、この朝、第Ⅱコリント1:4~5を共にお読みいたしました。2節の短い間に「慰め」という言葉が4回も登場する箇所です。
「慰め」という言葉は、たいへん素敵な言葉です。この言葉は、漢字では、心の上に、熨、すなわち、アイロンが乗っかっている言葉です。漢字の成り立ちから言えば、慰めとは心にアイロンを充てることです。頑なって皺くちゃになった心をアイロンで温めて柔らかくし、伸ばすようなことだということです。
このような慰めを語る聖書が私たちの教会にとって、特別に親しい聖書箇所です。教会の正面玄関に面した掲示板に私たちが、掲げる聖書の言葉だからです。そのような慰めの言葉を語り合うことこそ、私たち教会の使命だと、元町教会は理解してきたのです。私たちは、昨日も今日も変わることのない、主イエス・キリストにある神の慰めの言葉をこの群れにおいて聞き語り続けるのです。
どんな新しい状況に直面しても、キリストのものとされた私たちが聴き続けなければならないこと、それはどんな新しい苦難にも屈しない、私たちをしなやかに生かす慰めと救いであるキリストの慰めであります。
さて、私たちが直面するあらゆる苦難に際して、私たちを慰めてくださるとパウロが語る神の慰めは、5節において、その具体的な在り処が明らかにされています。神の下さる慰めを見出すことができる所、それは、言うまでもなくキリストの所だと聖書は語ります。しかも、私たちに与えられるその慰めはキリストの苦しみと結びついています。これは、私たちにはよくわかることです。十字架のキリストこそが、私たちの救いだからです。
けれども、キリストの苦しみを通して私たちが慰めにあずかるのだと語るパウロの言葉はどうも一筋縄ではいきません。私たちは、私たちの受ける恵みと、キリストの苦しみは、単純に交換されたものと理解する時があります。キリストが我々の苦しみを負い、我々はキリストの富を頂いたという風にです。それは、間違ってはいません。けれども、キリストのゆえに、私たち人間は未来永劫苦しみから無縁なものとなったとは、パウロは考えていないようです。その代わりにパウロは、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」と語ります。どうもこれでは、苦しみは全部キリストのもので、慰めだけを私たちは頂くのだとは言えそうにありません。むしろ、パウロは、キリストに従う者は、キリストの慰めと共に、キリストの苦難をも頂くことになると言っているようです。
しかし、たとえば、マルコ8:34後半の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との主イエスのお言葉を思い起こしますし、あるいは、パウロが、コロサイの信徒に向けて「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)と述べたことをも思い起こすこともできますから、これはやはり聖書が常に語っていることだと言えます。
また、キリストに従う時、むしろ、苦難を担うことになるということは、パウロ自身の生涯を見れば、その通りだと納得いたしますし、時代を下っても、この金沢の歴史にも残る我々の信仰の先輩である殉教者たちの存在が、キリストに従うゆえの命をも賭けた苦難が確かにあるのだということを私たちに示しています。そうであるならば、私たちに及ぶキリストの苦しみとは、キリストを信じるゆえに与えられる苦しみと理解することが第一にはできます。キリストの苦しみを担う者に与えられる慰めとは、迫害を受ける者に与えられる慰めの約束だと読むことができそうです。心強く覚えておきたい聖書の言葉の一つです。
しかし、「キリストの苦しみ」という言葉は、私たちをさらに深い黙想へと導くものだとも思います。「キリストの苦しみ」、素直に考えてみれば、この言葉は、キリストに従う時に与えられる私たちの十字架以上に、ずばり主ご自身の十字架に私たちの心を向けさせる言葉です。そして、そこから一気に、その十字架のキリストの苦しみとは、何なのかと問うてみるならば、この主の十字架の苦しみは、私たちの受けるべき苦しみに他なりませんでした。イザヤ書53章が真っすぐに語る通り、主が担ったのはわたしたちの病/主が負ったのはわたしたちの痛みであり、主が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/主が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためでありました。キリストの苦しみは、本来は、私たちの苦しみなのです。にもかかわらず、私たちの病を、キリストは、ご自分の病とされるのです。私たちの痛みを、キリストは、ご自分の痛みとされたのです。わたしたちの苦しみを御自分の苦しみと仰る方の苦しみ、それがキリストの苦しみです。これは私たちの信仰の急所です。
それゆえ、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」とパウロは言います。信仰の迫害を受ける者のためだけの慰めに決して留まらないのです。神が下さる慰めの射程は、広く深いのです。その慰めが注がれる苦難に、例外はありません。キリスト者である私たちが受けるあらゆる全ての苦しみです。
そればかりではありません。「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と使徒は言います。慰めて頂いた私たちが、次の人に受け渡す慰めは、既にキリスト者とされている者を越えています。それは、あらゆる苦難の中にある、あらゆる人々に向かうものです。
パウロ自身がそのような慰めを受けているのです。今、その慰めを受けている者として語っているのです。あなたの苦難も、あなたの苦難も慰められるんだ。あなたのしわくちゃになった心が、神によって温められて、伸ばされるんだ。
慰めとは、漢字とは別に、ギリシア語においても、含蓄の深い言葉です。この慰めという言葉は、パラカレオ―という言葉ですが、もともと「傍らに呼ぶ」という意味があります。慰めとは、苦難の中、私が一人ではなく、この私を傍らに呼び、共に立ってくれる者がいるということです。だから、神の下さる慰めとは、神が、私たちを傍らに呼ばれるということです。だから、ある説教者は、神が下さる慰めとは、「神が、味方になってくださること」だと説明しました。そして私たちの聖書個所は、イエス・キリストこそこの神のくださる慰めだと呼びます。なぜならば、このお方こそ、私たちの味方となるために、飼い葉桶に生まれ、この地上を歩き、十字架にかかり、陰府にまで下られたのです。そして、そのようにして私たちと共にいることを明らかにし、しかも、よみがえり、世の終わりまでいつまでも私たちと共にいて下さることを約束して下さったお方だからです。
医者が必要なのは、健康なものではなく、病人です。キリストが救われるのは善人ではなく、罪人です。だから、キリストの慰めとは、私たちがどのような者であっても、生涯、キリストが私たちの味方となってくださることです。
キリストは、私たち自身の苦しみを、私たち自身がなお担っている苦しみを、ご自分のものだと仰る。自業自得の末の苦しみだって構わないのです。キリストは役不足とは仰らない。それこそが、元来私たちのものでありながら、今やキリストの者として担うキリストの苦しみであり、そのまま私たちに爆発的に満ち溢れるキリストの慰めです。この慰めは爆発的です。
パウロはローマの信徒への手紙8:38~39でも次のように言いました。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
この誰にも何によっても砕かれないキリストの慰めこそ、今までも、これからも、私たちを慰め、また、あらゆる苦難の中にある人を慰める神の慰めです。そして、この慰めによって信仰の兄弟を互いに慰めること、世の人を慰めること、それが過ぎた年も、この新しい年も、変わることなく私たち教会に与え続けられている慰めであり、使命です。真に幸いな使命です。
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