全ての人の光

10月24日 イザヤ書49章6節から8節まで

使徒信条に導かれながら、自由な聖書箇所を選び、キリストの福音を聴いて行こうと志しまして、今日が三回目になります。

 

今日から、使徒信条の大きな三つの区分の二つ目、御子イエス・キリストについての告白の部分に入ります。

 

今日は、「我はその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」という教会の告白に結晶化されたキリストの福音について、聴いて行きたいと思います。

 

既に、前回までに明らかになりましたように、使徒信条の告白の中心は、この第2項目にあります。

 

私たち金沢元町教会のかつての牧師、毛利官治牧師の言葉を借りれば、「キリスト教とはキリスト」です。キリスト集中、キリスト中心です。

 

それゆえ、使徒信条においても、イエス・キリストのことを語る第2区分が、一番分量が多くあります。

 

しかも、既に、父なる神について聴きました前回までの二回においても、確認いたしました。父なる神について私たちが聖書から聴き、信じ、告白するときにも、イエスさまの出来事から切り離した形で、信じ、告白することは決してできないのです。

 

キリスト抜きに、天地の造り主なる神を考えることも、キリスト抜きに、全能の父なる神を信じることもできない。キリスト教とは徹頭徹尾、キリスト中心、キリスト集中であることを、使徒信条の言葉を追うことによっても、私たちはこの心に刻み付けられて行くのです。

 

この教会がその初めから聴き続けてきた、「キリスト教とはキリストです」と語られ続け、告白され続けてきたキリスト中心、キリスト集中に、今この教会を任されている私たちも立ちます。

 

今日、神の言葉を聴く支えとして、私たちが注目する使徒信条の告白は、「我はその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」という言葉です。

 

少なくとも、「独り子」、「われらの主」、「イエス」、「キリスト」の四つの部分に分けても、一回づつ存分に語ることのできる豊かな告白の言葉です。

 

けれども、今回は一つのことだけに注目したいと思います。

 

それは、このお方に対する私たちの立ち位置についてです。

 

私は使徒信条を告白する度に、一つ不思議に思うことがあります。

 

教会が歴史的な信仰告白の言葉を大切にするということは、私たちの信仰が、個人のものではなく、共同体のものであるということを大切にしていることを意味しています。

 

キリスト教会の信仰は、個人が一人で聖書を読んで、満足していればそれで成り立つものとは、元来、考えられて来ませんでした。

 

信仰告白という言葉は、聖書では、ホモロギアという言葉が使われています。これは、「同じ言葉を語ること」、転じて「一致、賛成」というのが元々の意味です。

 

つまり、私たちの信仰告白というものは、教会の組織が整えられて行く前の初代教会の時代から、聖霊の導きを独自に受けて、聖書を読み、そこからオリジナリティー溢れる私だけの信仰告白が与えられるというのではありませんでした。

 

ユダヤ人も、異邦人も、奴隷も、貴族も、男も、女も、若者も老人も、教会に集められた者たちは、同じ言葉を語ったのです。

 

聖書を読んでいる時、生ける神の霊、聖霊が働くと、他の人には示されないような自分だけの特別な発見が聖書の中から与えられるのではないかと想像しがちですが、事情は少し違います。

 

むしろ、生ける聖霊が働かれる時には、今まで無味乾燥のもののように見えてきた代々の教会の歴史的な信仰告白の言葉に結晶したような聖書の言葉が、この私の告白となるという経験を与えるものなのです。

 

だから、私たちの証というのは、人々の注目を集めるような特別な出来事を語らなくても、教会が一度たりとも隠すことなく素朴に淡々と語り続けてきたユダヤ人には躓きであり、ギリシア人には愚かなものと見えるというキリストの福音が、実はこの私にとっても、真実だと語ることが証しの本質です。

 

キリスト教信仰というものは、欧米の個人主義と結び付けて理解されることがありますが、本当は、旧約の語る信仰者の姿が良く表しているように、神の民という集団の中に仲間入りをしていくことなのです。

 

ところが、不思議なことに私たちに同じ信仰の言葉を与えてくれる使徒信条は、その告白を一人称単数で行っています。

 

中心となるキリストへの信仰告白を、「我らは」ではなく、「我はその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」と一人称単数で告白いたします。

 

とても興味深いことです。この後に続いた歴史的な信仰告白が、今私が申し上げたようなことを大切にしてのことだろうと思いますが、「私たち」と告白しているのに対し、使徒信条の「我」と一人で行っているような告白の言葉は、際立っています。

 

しかし、ある人は、ローマ帝国の公認宗教となり、また国教となる前に生まれた信仰告白である使徒信条が、「我」と語ることに、大きな意味を見出し、次のようなことを言います。

 

キリストへの信仰を言い表すことが、村八分のような社会的な死を引き起こすだけでなく、実際に、命の危険に直面させられるような時代に生まれたこの信仰告白の言葉だからこそ、「自分の明確な意思と主体性をもって」、つまり、自分の心からの情熱と、いても立ってもいられない自分自身の心からの願いとして、イエス・キリストこそ、私達の本当の主人であると告白する信仰共同体の戦列に加わる必要があったのだという趣旨のことを言います。

 

イエス・キリストというお方が、他の誰でもなく、この私の主なんだ。救い主なんだ。このお方が私の主であるとき、神様は、私の造り主であり、また全能の父として私の心からの信頼をお捧げすることができるようになるんだ。これから後、私は、私の生涯を捧げて、イエス・キリスト、このお方にぴったりと密着して生きて行くんだ。

 

キリスト信仰は、共同体の信仰だからと言って、それは、家の宗教というようなものとは違います。たとえ、キリスト者家庭の中で、小児洗礼を受けて、幼い時から、クリスチャンとして生きてきたとしても、一度と言わず、何度でも、「我信ず」と、この私の信頼を表明することを求められるのです。

 

大人になってから洗礼に授かった者も同じです。人々の中に埋没せず、信仰深いと思う人の後ろに隠れず、牧師のイエスマンとならず、いつで神の御前に、「我信ず」と告白するのです。

 

しかも、自分だけの個性的な告白ではなく、他の誰とも変えられない神の造られたただ一人の個性的な人間でありながら、教会共同体の重んじてきた信仰を自分の告白として告白するのです。

 

そこに粒だった信仰者の集まりである、たくましい教会が生まれるのです。

 

私は、常々思いますが、都心と比べれば、まだ地域共同体が生きており、保守的であるとも言えるこの北陸の地で、信仰者として生きる者たちは、使徒信条の時代に生きたような古い教会の姿に、いよいよ似ているのではないかと思います。

 

使徒信条の「我信ず」という言葉の意味が、欧米のキリスト者たちや、個人化の進んだ都心に生きる信仰者たちよりも、実感としてよくわかるし、事実、そうやって生きているのではないかと思います。

 

キリスト者として生きて行くことは、自ら進んでマイノリティーとなること、洗礼を受け、教会の仲間たちと一つの同じ言葉を語っていくことは、同調圧力の強い社会の中にあって、その中の安心できる多数派になることではなく、極めつけの少数派になることです。

 

それは本当に尊いこと、歴史と世界のキリスト教会にとって、重要なパートを担うことになっているのではないかと私は思います。

 

地域血縁による同調圧力の強い社会の中にあって、まず神に見つけ出され、召し出され、福音を喜んで聞き、福音に喜んで仕える粒立たざるをえなかった、それだけに、太い輪郭線を持った頼もしい北陸のキリスト者たち、石川のキリスト者たち、金沢のキリスト者たち、元町教会のキリスト者たちであります。

 

神よ、ご覧ください。神よ、お喜びください。

 

まだ洗礼を受けておられない方々も、どうぞ、キリスト者たちを見てください。決して逃れることのできない者として、私たち人間を縛り付けているように見えるしがらみを神は断ち切ることがおできになったのです。

 

しかし、私たちキリスト者は、絡みつく様々なしがらみを断ち切って私たちは天国に住まいを移したのではありません。そんなことしなくても、ここで新しい者として、私たちを縛り付けていたものとも、今は少しづつ新しい関係の中で、やり直し、生き始めることができるようになったのです。

 

この地上に生きる限り、たしかに何度も何度も、古い力が私たちを取り囲み、縛り付けようとするのですが、日曜日毎に、いいえ、日曜日に支えられながら、毎日、毎朝、毎晩、「我信ず」という告白と共に、新しくされるのです。何度でも、神の御前に立ち戻り、そこからやり直せるのです。

 

「我」という一人称単数を告白の主語とする使徒信条の言葉というのは、多数派の中に、埋没していきそうになる私たちを、主なる神様以外の誰にも何者にも支配されない神の大使として、立たせるのです。

 

しかしそれは、周りから自分だけを切り離し、自分だけを聖なる者とし、「我信ず」という粒だった告白ができない、それだから、同じ言葉に生きる教会の仲間以外の世界を、切り捨てられた古いもの、アブラハムが後にしてきた真の神無き地と見做されるようなものではありません。

 

それこそが、今日ともにお読みしましたイザヤ書に記された神の言葉が語る、主を信じる者にこそ与えられる全く新しい展望です。

 

飛び飛びで引用します。主はこう言われました。

 

「わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光りとし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。…わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。…わたしは…捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。」

 

神の僕と呼ばれる存在によって、周りだけではなく、信仰者達によっても、一民族、選びの民の主人とだけ信じられ、見なされてきたイスラエルの神が、その僕の存在を通して、今後ははっきりと、国々の光であり、国々の救いの主であることが、告げられ、事実、救いがもたらされると語られています。

 

確かに主なる神は、その僕を通して、選びの民イスラエルを、彼らが己の罪のゆえに、どんなに弱く小さくなっても、忘れずに、ご自分の懐へと連れ戻してくださるお方です。

 

「だがそれにもまして」と、神は力を込めて仰います。

 

わたしはこの僕を国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とするのだと。

 

イザヤの語るこの神の僕のことを、私たち教会は、この私の主であるイエス・キリストのことだと、聴かされ、信じ、告白するのです。

 

神の民ではなかったこの私を、見つけ出し、私を縛り付け、名付けようとするもろもろの力から救い出し、「神の子」としてくださった、私の唯一の主であると、告白するのです。

 

イザヤを通して、神がお告げになった宣言が、既に、キリストを通して、この私の身に起きた事件、出来事となりました。

 

このことを自分自身に起きた出来事だと、告白するようにされている私たちだからこそ、深い実感を込めて、この私自身の告白として、次のように告げることができます。

 

この私の主であるイエス・キリストは、あなたたちの主でもある。いいえ、救い出されて、自由にされた天国において、その高みから、「あなた方」と、距離を置いて語りかけるのではありません。

 

この私を今まで縛り付けていたもろもろの力のただ中に、この主人によって、新しく送り出され、遣わされながら、その真ん中で、イエス・キリストは、「私とあなた」、つまり「私たちの主である」と告げる者として、ここに生かされているのです。

 

イエス・キリストにおいて、神は神無き私たちの神となられました。父となり、救い主となられました。

 

私一人の真実の告白でありながら、一人ぼっちの信仰ではありません。代々の教会の信仰です。しかも、教会のためだけの信仰ではありません。私たち教会は、自分たち教会の主であるお方を、だがそれにもまして、国々の光、世の救いとして、証ししていくのです。

 

今や、恵みの時、今こそ救いの日、父の独り子、イエス・キリストの名において、捕らわれ人に解放を、圧迫されている人を自由にする主の恵みの時を告げるために召し出された私たちなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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