7月19日 マタイによる福音書27章57節から66節
大変申し訳ないことに、予告では、第28章からとしていましたが、27章の最後を飛ばしていましたので、今日は、説教題も讃美歌もそのままですが、第27章の最後の部分をお話いたします。次週は、主のご復活の一連の出来事を語る28章全体を読むことにいたします。第28章は、既に、2017年の5月にも語っていますので、少し長いようですが、そうさせて頂きたいと思います。
この失敗に数日前に気づいた時、掲示板の説教題や、説教後の讃美歌との関係もありますから、27章の最後は触れずに、予告通り、主イエスの十字架から、甦りに飛んでしまうのもありかなとも考えました。
今日の個所は、教会の信仰のエッセンスと言える使徒信条の言葉で言えば、「葬られ」というほんの小さな言葉に対応する個所だからです。
使徒信条を解説する多くの者は、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り」という部分は、一息で説きます。十字架につけられるということが、どういうことであるかと言えば、死んでしまうこと、墓に葬られるということ、陰府に降ること、そんなふうに、主イエスの十字架の死を、し言い換えたに過ぎないとも言えます。それによって、まさに十字架こそ、私たちの信仰の中心なのだと表現しているとも理解できます。この理解に基づいて、一息で語ってしまう。その意味では、先週の説教で、語るべきことの多くは語ったと言ってよいのです。
けれども、強調する必要があったことは、やはり、丁寧に見ていくことも必要だと思い直しました。そこにも、立ち止まるべき恵みがあるということですから。
たとえば、私たちの教会が大切にしますハイデルベルク信仰問答という書物は、「葬られた」とわざわざ言う理由をこう説きます。「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。」
イエス・キリストというお方が、本当に死んだのだということを語るために、使徒信条に、「葬られた」という告白が、主イエスの福音の欠くべからざる要素として採用されたと言うのです。
十字架につけられ、息を引き取ったのならば、それはもう、死んでるということですから、わざわざ、「葬られ」などということは、言わなくても良さそうなものです。
ところが、使徒信条がこのように告白しなければならなかったのは、最初期の教会において、既に、主イエスの死を疑う者が出始めたからです。
それは、主イエスという方が存在しなかったとか、十字架につく前に、替え玉とすり替わったとか、仮死状態にあったところを、ひそかに救われたとかいうことではありません。むしろ、主イエスというお方が、真の神の子であると信じる信仰から、そういう考えが生まれました。
神の子が人間のように死んでしまうことはない。死んでいるように見えても、それは、仮にそういう風に見えているだけ。このような主張は、歴史的に、仮の現れと書いて、仮現説と呼ばれ、教会内に広がった最大の異端的教えです。
私たちはどうか?案外、今も似たような理解をしているところがあるかもしれません。
というのも、私たちも主イエスの死をあまり真剣に考えていないようなところがあるからです。少なくとも、主イエスの死を私たち自身の死のように、深刻なものとは考えないところがある。
主イエスは、三日目には甦られたのです。このことは、十字架前に、御自分でも語られていました。たとえ、死んでも、三日目には甦ることを知っていたならば、その死は、どれほどの深刻さを持った死だろうか?あまり、怖いものではないのではないだろうか?それは一時的な死であり、やはり、仮の死と言えるものではないか?
私たちは、はっきりと、言葉に出したわけではなくても、多分、主イエスの死について、そのように考えている節があります。それならば、はっきりと、自分は仮言説の立場に立っているということは自覚していなくても、だいぶ近いところにあると言わなければならないと思います。
ある牧師は、自分が幼い頃、教会学校に通っていた時のことを思い出しながら、いつも、主イエスのことをずるいと思っていたと言います。体が弱くて、いつも死を意識しながら生きなければならなかった幼い時、主イエスの死は、死んでも直ぐに、復活できる死だから、それは、自分が向き合わなければならない死の恐怖とは、全く別なものでずるいと思ったのだそうです。死の恐怖は、明らかにそれが、永遠の長さを持つということに、由来すると思います。
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今年も7月になり、金沢では、ひと月早いお盆の時期となりました。それで新聞のコラムでも、その話題が取りあげられていました。
自分の本家の親戚が亡くなり、今年は、お墓に本家からのキリコがかかっていない。代替わりしたんだなとしみじみ思うと。
それで、その親戚のお墓参りをしながら、そのお墓の前で、その亡くなった人に心の中で呼びかけて、まるで生きているかのように、その亡くなった人との会話を空想しながら、こう言うんです。「だれひとり思い出してくれる人がいなくなった時に、人間は本当の死を迎えるのだと言う。墓参はその忘れそうになる記憶を呼び戻す習慣である。」
コラムニストは、忘れていくことも大事だと言います。忘れることによって、癒される悲しみもあると言います。けれども、墓参は、忘れそうになる記憶を呼び覚ますことだとも言います。記憶の中で、無くなった方が、今も生き続けることに、慰めを感じるのです。
やはり、この地上で生きたことがすっかり忘れ去られていくことは、防ぎようのないことだけれども、悲しいことだとそういう思いも、滲み出ているような文章だと思いました。
私たち日本人は、墓守ということを大切に考えます。今の出生率を考えれば、先祖代々の墓を保ち続けることは困難で、数代後には、ほとんどの墓がいわゆる無縁仏になることは、避けようのないことだと思います。しかし、私の祖父も無縁仏になることを恐れていましたし、父の世代の親族も、娘に婿養子を取って、墓を継がせることを望みました。
私の祖父は、8人兄弟の末っ子で、分家中の分家ですから、先祖代々の墓というわけではありません。婿養子を取って墓を継がせる準備をしている親戚も、長男と言う訳ではありません。
そうすると、墓守を受け継がせたいという思いは、先祖代々の墓を守っていくということではないのです。この自分が生きたよすがが、地上に残り続けることがどうかです。
身勝手とは思いません。よくわかることです。やはり、死の棘というものは、ただ死ぬだけでなく、死んだ後に、この私のことが忘れられ、この地上に自分が存在したという一切の痕跡すら、やがて失われることが、根源的とも言える恐怖なのだろうと思います。
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十字架と甦りの間にある、主イエス・キリストのお体の墓への葬り、これをわざわざ使徒信条が告白するのは、ハイデルベルク信仰問答が正しく語るように、主イエスの死は、何の割引もなく、本当の死であったことを告げるためです。三日目によみがえることが約束されたような死は死ではないなどということを言わせないためです。
しかし、なぜ、代々の教会がきっちりと、受け止めたように、イエス・キリストの死が正真正銘の死であるということを、福音書記者は語らなければならなかったのか?
それはごく単純な理由、ごくごく単純な理由によります。この方の死は、私たちの死だからです。この方の葬りが私たちの葬りとなるためです。
畏れ多いことですが、この方が葬られたのは、私たちの葬りのためです。私たちと一つとなるためです。そしてまた、一つとなった私たちをこの方のお甦りに与らせるためです。
私がこの教会に来て、間もなく説きましたコリントの信徒への手紙Ⅰの、第15章には、死者の甦りについてパウロが語った言葉があります。コリントの教会内に、死者は甦らないという主張をする教会員が現れたのです。
その人たちにパウロは言います。「死者が復活しないならば、キリストも復活しなかったのだ。キリストも死んだのだから。それならば、教会の全てのメッセージは無駄話だ。」そうパウロは、言うのです。
けれども、おそらくこの言葉を聞いた、コリントの教会員たちは、それは誤解だと思ったはずです。自分達が信じないのは、キリストの復活ではなく、人間の復活。キリストは神の子だから復活して当然、しかし、自分たちはただの人間だから、復活することは信じられないと言っただけです。
けれども、パウロは誤解しているわけではありませんでした。よくわかっていました。よくわかった上で、言いました。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」。
おわかりでしょうか?パウロは、福音信仰の内実とは、キリストと、私たちの一体だと理解しているんです。その背景にあるのは、キリストに起きたことは、すべて私たちのために起きたことであるという確信があります。
キリストの死と復活は、イエス・キリストは本当に神の子なんだというアピールのための神さまのパフォーマンスじゃありません。飼い葉桶の中に、ご自分の独り子を送り出そうとされる神さまは、そんなアピールには、何の興味もありません。
キリストが死に、葬られ、甦られたのは、ただ一つの理由、ごくごく単純な理由、この私たちと全く同じ姿となって、私たちと一つとなって、ご自身の歩んだ道を、私たちの道とするためです。
だから、キリストは神の子だから死んでも甦ったのだと言ったり、三日目に甦ることが分かっていた葬りは、そこが終の棲家になる私たちの墓に比べれば深刻さの足りないものであると考えたりすることは、福音が全然わかってないことなのです。
キリストの十字架と復活の出来事が、福音、良き知らせだと言われるのは、その出来事のほんのわずかな部分に至るまで、全て、私たちの救いのために、起きた出来事であったということです。私たちのための主の葬りです。
そう考えると、キリストの葬りの出来事、わざわざ記すまでもないと思うような「葬られ」という小さな言葉も、決して見落とすことはできないものだと思わされるのです。
ある人は、この「葬られ」という言葉に込められている恵み、それは、「もはや、誰ひとり、一人ぼっちで死ななければならないということはなくなったのだ。まさにこの自分の死において、イエスの死を共に死に得るからである。イエスが私たちの死を、ご自身の中に受け入れてくださったことにより、私たちの死の意味が変わってしまっているのだ。『イエスと共に』と言うことによって、死はもはや望みなきものではなくなった」ということだと言います。
我々キリスト者の死に際した望みは、死んだら天国なんていうことではありません。肉体を離れた後、魂が天国で永遠に生きるなどということは、わたしは葬儀で説教することはできません。
そうではなくて、私たちは、死においても、一人見捨てられるのではないということです。主イエスと共に、死ぬことができるということです。
マタイが要所要所で語ってきたインマヌエル、「神我らと共にいます」という恵みが、このキリストの葬りにおいても、たいへんな深さにおいて現実となっているのです。
私たちも一人の例外もなく、やがて死にます。けれども、一人で死ぬことは、もうあり得ない。主イエスが墓にも伴ってくださる。私たちが死んで、墓に葬られる時、イエス・キリスト、この父の独り子が、共に葬られた者となってくださる。この恵みは大きいのです。
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アリマタヤのヨセフという人が、主イエスの遺体を、引き取り、自分と自分の家族のために用意していた真新しい墓にお納めしたという出来事、これは、一方では、十字架直前に、高価な香油を主イエスの頭に全て注ぎかけた一人の女性のように、かけがえのない献げもの、驚くべき献身を、主に対して為した偉大な信仰の行為に見えます。
けれども、今まで尋ねてきた視点からすれば、注目されるべきはヨセフの行為ではなく、神の業です。
アリマタヤのヨセフのために、他の誰でもない彼がやがて葬られるその墓に、神の独り子が、先に葬られてくださったのです。
今日の説教題を変える必要がなかったのは、ガリラヤに先回りして、弟子たちを待っていてくださったご復活の主イエスが、また、アリマタヤのヨセフに先回りして、ヨセフの葬られる場所に、身を横たえてくださった主、私たちと同じ人間となって、死を味わい、墓に葬られることによって、ヨセフだけではありません。私たち一人一人が葬られる墓に、先回りして葬られてくださった主イエスのお姿がここにあるからです。
アリマタヤのヨセフは、その生涯において、自分もやがて納められることになる墓を見るたびに、胸が熱くなったのではないだろうかと思います。
ここに、この中に、神の御子が身を横たえてくださった。死においても、私を一人ぼっちにしないために。墓を前にして、私たちは、このように言うことができるのです。
けれども、墓を前にした私たちの望みはこれに尽きるのではありません。
私たちが葬られることになる墓を開けても、そこに、主イエスのお体はないのです。墓を開いてみても、先に死んだ家族の骨ばかりです。死んだ私たちを一人ぼっちにはしない主イエスのお体はそこにはない。
しかし、それは、アリマタヤのヨセフの墓も同じです。ヨセフの墓を開いても、そこには、ヨセフとヨセフの子孫の骨しか見当たらないのです。
けれども、それは、どんな偉人の記憶、私たちを心底愛した人の記憶も、やがては、私たちと共に、消え去ってしまうという意味で、消滅してしまったのではありません。
今、私たちの墓に、主イエスのお体がないのは、父なる神が、墓に納められたそのお方をお甦りにならせ、その場所から歩み出させたからです。
そして、それはもう一度申し上げます。このお方の一挙手一投足は、私たちのため、このお方が、私たちと一つとなり、葬られる人間となってくださったのは、このお方が墓からお甦りになり、そこから歩み出されたように、私たちも葬られたその墓から起き上がり、歩み出していくためです。
お甦りになられた主イエスの十字架の死が、深刻さを欠いたものと言うならば、私たちの死も、今や、そのようなものとなっており、だから、教会は、死を眠りと呼びます。
それは死の不躾さを少しでも減らそうという宗教的な婉曲表現でも何でもなくて、キリストのゆえに、そのまま信じることの許されている言葉となっているのです。
キリストのゆえに、死は眠りに過ぎないものとなっている。死の棘はキリストのゆえに、私たちに対しても、抜かれてしまったのです。
それは、バッハがマタイ受難曲で歌う通りです。「救い主の後に続き、あの杯から飲みましょう。私も喜んで飲みましょう。なぜなら、あのお方の口、父と蜜の流れ出るあの口は、もうすでに、苦悩の源を、苦悩の恥の苦さを、甘さに変えてしまったのです、、、あの最初の一口で。」
どのような封印も、番兵たちの見張りも、それらに代表される、墓を永遠に封じておこうとするどんな力も、イエス・キリストの父なる神の、私たちを死から呼び起こすためにやがて発せられる朝の号令を無にすることはできないのです。
私は洗礼を受けることによって、ますます墓への執着が無くなりました。死んだら、骨はどこにでも撒いてもらって構わないと基本的には思っています。しかし、最近はまた、遺骨を大切にすること、墓を大切にすることも悪くないことだと思っています。
それは、亡くなった方の家族が、力の限りに墓守をして、なるべく忘れないようにすることが、必要だからではありません。どんなに子だくさんの一族でも、永遠に先祖を覚え続け、墓を守り続けることはできません。それは、冷静に考えれば、不可能なことです。
しかし、魂だけではなく、私の体の甦りを望んでくださる神さまのゆえに、やがて、私たちを呼び起こしてくださる神さまのゆえに、遺骨や墓という物質的なものを、粗末にしないということは、キリスト者にふさわしいことだと思うのです。
もちろん、最終的には神さまの御手の内にあることです。その意味では執着しない。執着せずに、しかし、そこで、キリストの恵みを深く思うことが許されると思いうのです。
その方の用意してくださる甦りの朝のゆえに、私たちを待ち構えるその将来のゆえに、私たちは、墓、すなわち、自分の死を見つけることができるようになる。
共にいてくださる十字架とご復活のキリストのゆえに、死を眼前に見つめながらも、やり過ぎることからも、投げ出すことからも自由になり、一日、一日、地に足をつけて、この中間の時を健やかに生きていくことが許されているのです。
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