他教会を支える教会の熱意

コリントの信徒への手紙Ⅱ9章1節~5節

今日は、礼拝の後に、2021年度の教会総会を行います。礼拝後に消毒と十分な換気を行う予定ですが、それにしても、二つを合わせて、例年の半分ほどの時間で終わらせなければならないと思っています。それだから、説教もなるべく短くしなければなりません。

 幸いにも、今日読んだ個所は、前回まで読んだ第8章と同じ話題を語り続けているところです。しかも、第8章とは異なる別の時期に送られたまた別の手紙と考えられています。別の機会に同じ事柄を巡って送られてきた手紙なので、むしろ、一つの手紙の続きよりも、重なる部分は多いのです。その意味では、前回までの所で、ほとんど聞くべきことは聞いたと言うこともできます。貧しい他教会、具体的にはエルサレム教会への援助金を集めることに対するパウロの心遣いが語られた箇所です。だから、今日はただ一点、なぜ、エルサレム教会なのか?ということにこだわって、福音を聞いていこうと思います。

 使徒言行録を読んでも、パウロ自身の手紙を読んでも、パウロがいかにこのエルサレム教会を重んじたかは明らかです。ペンテコステの日に、聖霊が下って来られることによって始まったそのエルサレム教会から始まり、それからユダヤ人以外の異邦人へと福音が広まり、教会が生まれたので、エルサレム教会は、すべてのキリスト者にとって、総本山とも言えるような教会です。だから、このようなパウロの姿勢を見ながら、この総本山の教会に属する人々が経済的に困窮したならば、一生懸命に助けなければならないと考えたのだろうと説明されることがあります。パウロ自身が、ローマの信徒への手紙15:25以下で、マケドニア州とコリントを含むアカイア州で集めたエルサレム教会への援助金について「彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」と言っています。異邦人教会は、ユダヤ人教会から生まれたのです。そういう霊的な恩を負っているので、肉のもので彼らを助ける、つまり、経済的困窮を助けるのは義務だと語るようです。

 ところが、これは、よく聖書を読みますと、パウロの考え方のメインにはならないものです。これは第Ⅱコリント書を読んでも、明らかです。パウロと教会の和解前に一番の問題となっていたことは、パウロの使徒としての正統性でありました。パウロには推薦状がないというのが問題となったのです。これは、具体的に言えば、実は、エルサレム教会からの推薦状がないということでした。それに対してパウロは、自分は「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」(Ⅱコリント1:1)のだと言いました。これはパウロの行く先々で問題となったことでした。パウロがその際語り続けたことは、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(ガラテヤ1:1)ということだったのです。自分の使徒としての権威はエルサレム教会に基づくものではないというのが、パウロの基本的な主張でした。だからパウロは、エルサレム教会の権威中の権威であった、使徒ペトロに対しても、パウロを直接お召しになった神の福音に反する生き方をすれば、公の場で、真正面から非難するという自由を持っていました(ガラテヤ2:11以下)。

 けれども、だからと言ってパウロは、エルサレム教会を退けるということをいたしませんでした。相手がちょっと迷惑と思うほどに、交流を持ち続けようとしたのです。公認を得たかったからではありません。むしろ、放っておくと、エルサレム教会が、各地に生まれた異邦人教会との広い教会ネットワークの網目から落ちてしまうことを心配したのだと思います。

 エルサレム教会自身が、異邦人教会と距離を置こうとする傾向があったと考えられています。律法とキリストの福音の関係がそれほどすっきりと整理できていなかったのだと思います。コリント教会に入り込んだパウロの次にやってきた伝道者たちはエルサレム教会との繋がりがあったようですから、エルサレム教会自身の中に、コリント教会が陥ってしまったような福音からずれる傾向があったかもしれません。ガラテヤ書2:11以下には、エルサレム教会の指導者であった主の一番弟子使徒ペトロが、同じくエルサレム教会の指導者であった主の兄弟ヤコブから遣わされた人がいる場では、異邦人キリスト者と食卓を囲むことを躊躇したのです。そしてそれをパウロから真正面に非難されたのです。

 けれども、だからと言って、パウロはエルサレム教会を偽物の教会とは言わないし、福音理解の異なる別グループとして、交わりを絶つということもしないのです。たとえ、エルサレム教会が、多少パウロのことを迷惑がったとしても、パウロは、エルサレム教会に援助金を届け続けるのです。貧しく、つらい状況に置かれていたとはゆえ、エルサレム教会のユダヤ人たちは、異邦人教会に援助金を無心し続けていたわけではないのです。これはパウロが自主的に続け、それに賛同する異邦人教会の自主性によって、成り立っていたことなのです。

 自分の権威は、エルサレム教会に依存するものではないということをはっきりと語ったパウロです。使徒ペトロのことさえ、真正面から非難したパウロです。そのパウロが自主的に、しかも、熱心に、エルサレム教会へ、異邦人教会から集めた援助金を届け続けるのです。だからこれは、義務と言っても、上納金のような義務ではなく、使命感に基づくものです。しかも、義務と言い換えられるほどの使命感ですから、これはもう、神がこの働きのために自分を呼び出されているという思いに基づく行為であると思います。

 それはどんな使命なのか?どんな召命なのか?ということですが、それは5節に記された「贈り物」という言葉の中に表されていると思います。この5節の「贈り物」と訳された言葉は、「祝福」と普通訳す言葉です。この贈り物は祝福なのです。つまり、エルサレム教会に祝福を送ろうとしているのです。贈り物に祝福が込められているのです。この贈り物に込められた祝福って何かと考えますと、誕生日プレゼントを思い起こせばいいかなと思います。神さまからの祝福である贈り物は報酬とは異なります。神さまからの祝福である贈り物はお礼とも異なります。それは誕生日プレゼントと同じものです。祝福の贈り物は、「あなたがいてくれてよかった。あなたが存在していることがただただ嬉しい、私たちの喜びだ」と告げるものではないでしょうか。

 ある人は言います。この世界には二つのパーティーがある。一つは合格祝いのパーティー、これは、その人の努力が結果を生み、そのことがお祝いされます。このパーティーはその人の成功体験として記憶され、次へのチャレンジの大きな動機づけになる。でも、このお祝いしかしてもらえないならば、やがて、人は燃え尽きてしまいます。しかし、もう一つのパーティーがあります。それは、誕生日祝いに代表されるパーティーです。これはその人が生きていることを祝うパーティーです。あなたに出会えて良かった、あなたがいてくれて嬉しいとその人の存在を祝います。どちらのパーティーも嬉しいものだけれども、人間が生きるためには、2番目のパーティーを定期的に開いてもらう必要があると言います。何かをしたからではなくて、何もできなくても、存在そのものを祝ってもらうのです。

 パウロがそのために召された福音、パウロが、第Ⅱコリント書で語り続けている福音、それは「心の貧しい者は幸いである」と、何にも持たなくても、その貧しい私たちを喜び、私たちの存在していいることを祝ってくださるキリストにあらわされた神さまのお姿を告げる福音です。

 マケドニアの諸教会はこの福音を心から聴いた者として、溢れるほどの貧しさの中にあっても、祝福がほとばしり出る者とされたのです。そして今、コリント教会もまた、神の福音を学び直した者として、祝福を告げる者となろうとしているのです。あなたがたが届けようとしているものは、祝福なのであって、できることなら出したくない上納金なんかじゃないんだ。「あなたがいてくれて嬉しい。あなたが生きることを望む」という祝福を届けることなんだ。あなた方自身が福音の祝福を聞き直し、それに促されて、始めた業を最後までその思いでやり遂げてほしい。

 そう考えると、パウロがエルサレム教会に援助金を届けるのに熱心であった理由がわかってくるように思います。コリント教会に何通もの手紙を書き送ったのと同じようなこととして、エルサレム教会には、援助金を届け続けたのだなと思います。パウロがコリント教会にこだわり手紙を送り続けたのは、コリント教会を福音に生かすため、すなわち、神の無償の祝福を告げるためでした。同じように、パウロがエルサレム教会にこだわり、援助金を届け続けたのは、ともすれば、律法主義に陥りがちであったユダヤ人キリスト者たちに、キリストに表された神さまの無条件の祝福をもっともっと告げたいと思ったからではないかと思います。すると、教会への論争の手紙にしろ、教会への援助金にしろ、パウロのすることなすことは、結局一つのこと、福音を告げること、神さまの祝福を告げること以外ではなかったのだと思います。

 教会の業、キリスト者の業というものは、多様で色々な形を取ることはできますが、しかし、結局、未信者に対しても、躓いた信仰者に対しても、経済的困窮の中にある人に対しても、多様な形で、神さまの祝福を告げること以外ではないと思います。

 今日は、2021年度の教会総会が開かれます。長老を選び、新年度の教会の歩みを決めます。新年度もコロナによって厳しい教会運営になるかもしれません。けれども、どんなに厳しい状況にあっても、私たち教会は、組織の存続のために存在する自己目的集団ではなく、神がその都度、与えてくださる隣人に祝福を告げるために、存在する召命集団であることを忘れないようにしたいと思います。

 しかし、一番大切なことは、まず私たちが、神さまのみ前に静まり、祝福の言葉を聞くことです。神さまが私たちのために開いてくださるパーティーを祝うことです。「あなたがいてくれて嬉しい。あなたが存在していることが私の喜びだ。」この神さまの言葉を聞き続けるのです。そのための日曜毎の礼拝なのです。

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