人生で一番大切なこと

10月22日(日) 主日礼拝 東京神学大学准教授 田中 光 先生 マタイによる福音書22章34節~40節

本日のみ言葉は、主イエスの教えの中でももっとも有名なもののうちの一つです。すなわち、主イエスは、聖書に数ある掟の中で、一体どの掟が最も重要なのですかとファリサイ派の人々から問われたのに対して、二つの掟を提示して、それこそが聖書のメッセージの中心なのだとお教えになられたのです。

「聖書の中でどの掟が最も重要なのですか」という問いは、「人生においてどのような生き方を志すことが大事なのですか」という風に言い換えることができるかもしれません。こうした問いは、私たちの社会においても話題になることがあります。特に世の中が不安定な現在においては、誰しもがこうした問いをどこかで抱えて生きているのではないかと思います。一体何が人生を生きる上で大事なのか。その答えとして、愛することが大事であるとか、社会に奉仕することが大事であるとか、自分の夢を実現することが大事であるとか、いろいろな答えがあるかと思います。

では、主イエスは人生において最も大切なことについてなんと仰っておられるのか。それはまず、神を愛することだと主イエスはお教えになられました。自分を見つめることから何かが始まるのではなく、ただ神を見つめるところからすべてが始まるということではないでしょうか。しかしその際、ただ神の「存在」を信じることが大事なのではなく、神を「愛する」ことが大切だと言われています。しかも、ただ愛するのではなく、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」と言われています。つまり、「全身全霊で、そして一度だけではなく、生涯をかけて」、ということでしょう。

では

、一体なぜ神を愛することが、私たち人間にとって最も大事なことなのでしょうか。その問いに答えるためには、そもそも神を愛するとはどういうことかを考えなければなりません。私たちが良く耳にし、また口にしていることでもあるかもしれませんが、しかし改めて、神を愛するとはどういうことでしょうか。今日の主イエスの御言葉の前提になっている旧約聖書の言葉を考えるときに見えてくるものがあります。今日主イエスが一つ目に引用されているのは、申命記6章4節の御言葉です。この申命記の御言葉は、後のユダヤ教の中で「シェマ・イスラエル」と呼ばれて、今日までユダヤ人たちが祈る際に唱えられてきた言葉です。すなわち、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」という呼びかけで始まる、神を愛せよとの言葉です。

そして大切なことは、申命記を見ますと、この言葉は、モーセが約束の地にこれから入っていこうとしているイスラエルの民に教えた掟、律法であるとされているという点です。つまり、このことから考えるならば、神を愛するということは、抽象的なことや気持ちの問題ではなく、掟であるわけですから、具体的で行動を伴ったことであるということです。そしてこのこと踏まえて結論的に言うならば、神を愛するということは、私たち人間を創造してくださった神の御心に従って生きること、つまり神が私たちに望んでおられることを喜び大切にして生きること、ということになるかもしれません。

ところが、神を愛するということが、神の御心に従って生きることだと分かったところで、私たちがそういう意味で神を愛することができるのだろうかと考えてみるときに、私たちは自分がとても神の御心に従って生きることなどできていないことに気が付きます。そもそも、そのことが大事であると心から納得することができていない自分がどこかにいます。誰しも、建前はどうであれ、私たちは神ではなく自分の思いを実現することが一番大事です。そして聖書はそのようにして、創り主の御心ではなく、自分の思いだけに従って生きる人間の姿を、本来あるべき姿から遠ざかっているものとして提示します。神の御前にあるべきところから、失われて、暗闇の中にいるというのです。自分だけでは気が付くことのできない、本当の自分の姿です。ですから私たちは、主イエスのお考えからするならば、そもそも人生において最も大事なことを行うどころか、知ることさえできていない状態にあると言えるのかもしれません。

そうすると、何だか主イエスの言葉が矛盾して聞こえてきます。主イエスは、神を愛することができない私たちに、神を愛しなさいと、できないことを要求しているのでしょうか。しかし、実はそうではありません。なぜなら、私たち人間のために、神は、滅びの道を歩んでいた私たちが、人生で最も大切なことに立ち返って生きることができるようにと、既に道を切り開いてくださったからです。そのことについて記された聖書のみ言葉があります。(本日はこれを説教聖句にはしませんでしたが)ヨハネの手紙I 4章10節以下のみ言葉です。ここで手紙の著者は、私たち人間は神を愛することができない存在であるということを認めた上で、しかし新しい道が開かれていることについて、次のように語っています。

 

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 

ここにおいて語られていることは、私たち人間は、自分の気づきや決心だけでは神を愛する道に生きることはできないけれども、神が御子イエス・キリストを遣わして、その死によって私たちを罪から救い出してくださったというこの愛こそが、私たちを本来的な道へと取り戻すことができる、ということではないかと思います。そして実際、滅びに瀕していた私たちのことを、神がただ恵みによって、キリストを通してお救いくださったというこの神の愛にしっかりと立ったときにのみ、私たちは根本的に癒され、そこで初めて、自分の思いではなく、神様の御心に従って生きること、つまり神を愛する生き方へと向き直っていくようになるのです。

このように、私たちが神を愛するということは、神がキリストを通して私たちに示してくださった愛に私たちがしっかりと立っていてこそ生まれてくる生き方なのであり、私たちの気持ちから出発してみても、神を愛することはできないということでありましょう。そしてまたそれ故に更に言いうることは、このような生き方は、神が責任をもって、キリストによって私たちのうちに始めてくださる生き方でありますから、一回失敗したからもうおしまいとかいったような生き方ではなく、むしろ私たちが一日一日、神の愛を受け止めていくことで、日々新たにされていく生き方であるということにもなるのではないでしょうか。

 こう考えてきますと、最初に私たちが立てた問、つまり「なぜ神を愛することが人生にとって最も大事なのか」ということについての答えも見えてくるのではないでしょうか。先ほどから述べていますように、神を愛して生きることは、私たちを罪と死から救うためにキリストを遣わしてくださった神に信頼し、その御心に従って生き続けることです。つまり、神を愛するとは、言うなれば、私たち誰にでも訪れうる最悪の滅びの力から救い出してくださる方の力により頼んで生きることを選ぶことなのであり、考えてみれば、世の中にこれ以上に大切でかけがえのないこともないように思うのです。

勿論、先程も述べましたように、現実には、私たちの実際の生き方においては、既にキリストによって新しい生き方への道が切り拓かれているにもかかわらず、お金や、人間関係や、自分が追い求めている夢といったものの方が大切になってしまうこともあるでしょう。しかし不思議なことに、私たちの人生においては、一体何が本当に真実な生き方なのかを改めて真剣に問い直す時が、思いがけない時に、そして繰り返しやってくるものです。あるいは、私たちの世界を今現在取り巻いている不穏な状況というものも、もしかしたら私たちにもう一度、自分たちにどのような幸いな生き方が与えられているのかをもう一度考えてみるように促しているのかもしれません。その時私たちは繰り返し気づかされるのです。無慈悲に思われる苦しみや悲しみの中にさえ、神の愛によって神を愛する者として生かされる幸いは尚確かに存在し、逆に、全てが物質的に満たされている世界に生きていたとしても、最も必要な幸いに事欠いて生きるということが起こりえるということを。いやもしかしたら私たちはまさに今、主イエスの言葉を通して、自分の生き方を見つめなおし、もう一度軌道修正をして、神を愛する道に立ち戻るよう招かれているのかもしれません。主は言われます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。

しかし、ここで大切な点は、神を愛することは、現実の世界とのかかわりを避けて霊的な世界に逃避することを意味するのではないということです。神を愛することが、神の御心を行うことだとすれば、その神の御心の中には、神がお創り下さり、慈しんでくださるこの世界とのかかわりを大切にして生きることが当然のごとく含まれてくるはずです。だからこそ主イエスは、神を愛するという掟と併せて、隣人を自分のように愛しなさいという掟をも、お教えになられているのです。このこともまた、私たちの人生の生き方にとって、欠くことができない大切な一部分だからです。

 そこで最後に、主イエスがお教えくださった、二つ目の掟について考えてみたいと思います。このこともまた、私たちの人生において大切な事柄の一つであるということです。この「隣人を自分のように愛しなさい」という主イエスのお言葉は、旧約聖書レビ記19:18節のみ言葉でありますが、まずこの教えを読んで気が付くことはただ「隣人を愛しなさい」ではなく、「自分自身を愛するように」という言い方が添えられているということです。このことは小さなことに思えますが、しかし大事なポイントかもしれません。「自分のように」ということは、自分が自分を愛するようにということです。なぜ自分を愛することができるかといえば、それは自分に好きなところがいっぱいあるからというよりはむしろ、神が罪深い私たちを、それにもかかわらず愛しておられるということを知っているからではないでしょうか。そのような認識こそが、私たちを本当の意味で健やかな自己肯定感へと導きます。そして隣人愛というのは、この健やかな自己認識と関係があるということを主イエスは仰っておられる。これはつまり、隣人愛というのは、私たちの隣人に対する気持ちから出発するのではなく、むしろ神が自分のことを愛してくださっているというその決定的な事実、そしてその事実に基づいた健やかな自己理解から出てくるものである、ということではないでしょうか。神の愛ということを前提にした自己理解、延いてはこの世界の理解の仕方がなければ、本当の意味での隣人愛は生まれてこないということなのかもしれません。

そのようにして、神の愛を前提にして隣人とのかかわりを考えていく時、私たちは、自分のことを、その罪にもかかわらず、その罪を赦して、愛しいつくしんでくださるその神が、私と同じように隣人の罪をも赦し、愛して下っているという気付きを与えられます。つまり神の愛を通して世界を眺めることを許される時、私たちは、私もあの人も、何も変わることなく、同じく神に罪赦されて生かされているという認識へと導かれていくのではないでしょうか。勿論、既に知識としては持ち合わせていることかもしれません。しかしそうした気づきへと聖霊のお働きによって導かれていく時においてのみ、私たちは隣人との関りを本当の意味で健やかな形で形作ることができるのです。このように、隣人愛においては、単に私たちの気持ちが問題なのではなくて、ここでもやはり神の愛がその土台としてあり、そこに根差してこそ、私たちは初めて主イエスの掟に生きる者として形作られていくのです。

そのようにして、私たちが聖霊に導かれて、神の愛に根差して隣人と関わることを許される時、私たちの内に神の愛をさらに深く知る不思議な体験が生み出されていきます。そのことについて語っていると思われるのが、先ほども読んだヨハネの手紙Iのみ言葉です。Iヨハネ4:12においては、「私たちが互いに愛し合うことによって、神が私たちの内にとどまってくださり、神の愛が全うされる」と言われています。これはとても不思議なことだと思わされます。私たちが聖霊に導かれて隣人と健やかな関係を築くことを通して、神の愛をより深く知るというのです。

つまり、人は何か抽象的で神秘的な仕方で神の愛を知るというよりはむしろ、隣人とのかかわり、とりわけキリスト者との関わりを通して神の愛をより深く知るという側面があるということではないでしょうか。そして考えてみれば、私たちが神の愛を知ったのも、人とのかかわりを通してだったかもしれません。勿論、私たちは一義的には聖書を通して神の愛を知るのですし、あるいはまた、中には神と神秘的な出会いをしてその愛を知ったという方もおられるかもしれません。しかし、私たちは往々にして、特に教会の交わりにおいて、誰かが語ってくれた聖書の言葉や、祈りの言葉、あるいは言葉を介していなくても、誰かが辛いときに寄り添ってくれたことなどを通して、つまり隣人との交わりを通して、神の愛を知るということがあるのかもしれません。そしてまた逆に、私たちが誰かと関わることによって、その人が神の愛を知るということが起こるのかもしれません。このように、隣人を愛することは、そこに不思議とあらわれてくる神の愛を知ることに繋がるのです。

そして先ほど述べたように神の愛を知ることは、私たちが神を愛することに繋がります。こう考えてきますと、主イエスがお教えくださっている二つの掟、つまり神を愛し、隣人を愛することというのは、実は密接に関係した事柄であり、簡単に切り分けられないことであると分かってくるのです。私たちはこの二つのことをセットで、人生において最も大切で、かけがえのない生き方として認識するよう招かれているのです。

そして最後に改めて申し上げたい大切なことは、既にこれまでの話の流れから明らかではありますが、ここで主イエスがお教えくださっていることは、単なる人生に関する知識ではなく、私たちが聖霊の助けを頂いて現実の生活の中で実現されていくことだということです。従って私たちは、聖霊の導きに支えられつつ、神を愛することへと、つまり神の御心を訪ね求めて、その御心に従って具体的な仕方で生きてみることへと招かれています。

神の御心が何かということは、皆に共通しているような大きなこともあるでしょう。例えばいま私たちが捧げている礼拝がそうでしょう。しかし、同時に私たち一人一人に個別的に関係することもあると思います。教会生活に関わること、仕事に関わること、学校生活に関わること、家庭に関わること、いろいろな私たちの生活の局面において、私たちが最後の息を引き取るまで、全てのことに神の御心が隠れています。その御心を訪ね求めて、それに従って生きてみるようにという招きが差し向けられています。そこにこそ、永遠の命へと至る道が通じているのです。

そして、私たちが日々訪ね求めるその神の御心の中には、先ほども申した通り、きっと私たちの隣人を愛するということも含まれていることでしょう。信仰の友は勿論、家族や友人、会社の同僚、学校の友達かもしれません。そして、義務としてではなく、私たちがキリスト者としての自覚をもって、キリストを通して示された神の愛を見つめながらそこに関わるとき、私たちは単にキリスト者としての務めを果たすということだけでなく、同時に私たちが思ってもみなかったような神の愛についての気づきが与えられるかもしれません。そしてこの神の愛への気づきが、私たちを新たな仕方で神を愛することへと駆り立てていきます。

そして覚えておきましょう。先程も申した通り、私たちが神を愛し、隣人を愛する生き方を実践することができるようにと、聖霊なる神が助け励ましてくださるということを。たとえ私たちが今は自分自身の思いを実現することで、どこかで満足していたとしても、聖霊は、私たちの思いを超えて働き、私たちがまだ知らない、恵みに満ちたキリスト者としての歩みへと私たちを押し出してくれます。また、仮に私たちがこの主イエスの掟に生きることに失敗し、挫折するようなことがあっても、聖霊は決して私たちを支え励まし続けることをおやめにならないということをも忘れないようにしたいと思います。風は思いのままに吹き、私たちのあきらめや限界を超えて、私たちを聖め、励まし、立ち上がらせることができるのです。そのような聖霊のお働きに期待しつつ、日々の歩みを、神と隣人とを愛する歩みとして整えていただきたいと思います。栄光が代々限りなく、神にありますように、アーメン。

  祈りましょう。天の父よ。あなたを愛することを教えてください。そうすることができるように、私たちにキリストが私たちを愛してくださったことをもっと深く教えてください。そのことによって、あなたの御心に従う歩みへと、私たちが取り戻されていくことができますように。そして私たちがそのようにして御心に適う歩みを志す中で、どうか私たちに与えられた隣人を、自分のように愛することができますよう導いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

  

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