主イエスを映す鏡とされる

12月6日 コリントの信徒への手紙Ⅱ3章12節から18節

主の年2020年のアドベント第2週となりました。先週のお知らせでは、今日は、市川和恵先生が、この場で説教をしてくださり、市川忠彦先生が、聖餐の司式をしてくださる予定でありましたが、大阪でのコロナ感染症拡大の状況を鑑み、状況が落ち着くまで延期となりました。私たち牧師家族の心身を心配してくださり、一回でも説教を変わろうとお申し出頂き、直前まで準備をしてくださっていたのに、お断りしなければならないのは、申し訳なく、心苦しいことであり、また、長老の中には、礼拝の説教は不要不急の外出には当たらない。恐れることはないと励ましてくださった意見もありましたが、今回は長老会の苦渋の決断として見合わせることにいたしました。そのことを皆さまにも申し訳なく思います。

 長老会で出た一つの意見のように礼拝に参加することは不要不急の外出ではなく、これ以上の公的な行為はありません。まして、説教の任に当たるものの説教行為は、極めて公的な行為です。かつて植村正久という牧師は、説教とは、御前説教であると言いました。お殿様や天皇の前で、語るのと同じ公的な行為、いやそれ以上に、神の御前で語ることは、万難を排して臨むべき厳粛なことです。説教とは、人間を聴き手とするだけでなく、神を第一の聴き手とする御前説教だと言うのですから、説教者の変更というのも、普通考えているよりも重大なことかもしれません。この点、私が今回のありがたい申し出を長老会に提案する時も、そもそも状況によってはいつでも、説教者の変更ができるようにしておくと申し上げておいたことは、もしかすると軽率なことであったかもしれないと反省しています。お呼びするのであれば、先生方の体調が悪いということでもない限り、何が何でも来ていただくという決断をしておくことが、礼拝がこれ以上ない公的な行為であり、説教とは御前説教であるということを、私たち教会が、この世に、この身をもって表明する信仰告白の機会であったかもしれません。もちろん、もう一方においては、疲れたとか、家事が大変などと言っていないで、私が、この説教壇を死守するという心構えを改めて立てておけば良かっただけかもしれません。

 しかし、こう申しますと、牧師が気負い過ぎて、倒れてしまっては困ると仰る方もいらっしゃるでしょうが、その点、ご安心頂きたいのは、こういう反省を述べるときも、わたしはそんなに悲愴な思いで、凝り固まって反省しているわけではありません。割と身軽に、ああでもない、こうでもないと自由に反省しています。神が私たちに与えてくださる確信、何でも語り、行うことが許されているのだという自由さと、大胆さの内に、試行錯誤を率直に行うことが、私たちキリスト者には許されていると思っているからです。私たちの信仰告白の言葉も、そこから必然的に促される信仰の行為も、きっと正解はありますし、主のお望みになる、主の御心があるでしょう。そもそもその御心を求めないで、罪の赦しのゆえに何をしても自由だと自分勝手に生きるというのは、問題にならない事でしょう。しかし、だからと言って、正解を求めてびくびく、おどおどする必要は少しもないと思います。

 私が好きでたまに引用します椎名麟三という昔のキリスト者の作家の書き残した文章を読んでいく中で、私がいつも思い出させられることがあります。

それは、絶対の神さまを信じ、生きて行こうとする私たちの信仰は、その告白の言葉も、生活も、妥協のない絶対のものに傾きがちだけれども、むしろ、絶対の神さまの前で、自分が絶対のものではないことに気付くことではないかということです。神を絶対とすることは、むしろ、自分の相対、自分が絶対ではないことを知ること、自分のやることには、いつも失敗と、欠けと、間違いが伴うことを認めることでもあります。しかし、イエス・キリストにおいてお語りになる神様は、そういう中途半端な私たちが生きることを願い、喜んでいてくださることを私たちは知らされたのです。「こうでなければならない」と凝り固まってしまうときに、肩の力を抜くユーモアを持つこと、それこそがキリストを知り、このアドベントらしいことだと思いますが、終末を知る信仰だと椎名は考えています。

 こういうことは、自分の失敗を反省する時の言い訳ではなく、人が失敗した時に、語るべきことでしょうが、まあ、今日は勘弁してください。今日の聖書個所を説くのに必要だと思って敢えて、申し上げました。

 今日の聖書個所の終わりのところで、パウロが、「わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と、信仰者の輝かしい変化を語る言葉は、今、申し上げた私たち人間の限界を弁えることと、一見対立するようではありますが、実は、非常に関係のあることだと私は思います。

 今日のはじまりの12節もまた、満ち溢れる確信について語っていました。これは、先週読みました、4節の神の御前に抱くことができる確信と同じ種類の言葉、続きの言葉であると思います。しかし、元のギリシア語を見ますと、別の単語が使われています。もちろん、それは別のことを言い表わそうとしているのではなくて、4節で語られた神の御前に持つことができる確信を、別の言葉で言い換えて見せて、いよいよこの確信の豊かな中身を語ろうとしているのだと思います。そこで今日の個所で使われている確信という言葉ですけれども、これもまた、色々に翻訳することのできる豊かな言葉が使われています。パレーシアという言葉が使われています。辞典を調べてみると、これはもともと、ギリシア人にとって、彼らなりの民主主義と関係のあることです。今日の個所で「確信」と訳されているパレーシアという言葉は、このギリシアの民主主義を語る領域において、自由人の持つ「あらゆることを発言できる自由」を意味する言葉でした。恐れなく、大胆に何でも公の場で発言できる言論の自由、特に市民が為政者に対して持つ言論の自由です。この政治的な権利として裁かれずに何でも言える自由という元の意味から派生して、この語は、公という意味を持ったり、大胆や、率直さ、自由さという意味も表すようになりました。

 この大胆さのことを、彼らなりの民主主義の権利と限定して言うのは、全ての人間にこの権利があったわけではないからです。奴隷がいました。そして奴隷にはこの自由がありませんでした。それは13節以下の言葉で言えば、覆いがかかった状態です。神の言葉を聞きながら、顔には覆いがかかった状態であり、見るべきものを見ることができず、聞くべきものを聞くことができず、だから語ること、行うことも的外れになるのです。こういう風に考えても良いかもしれません。神の言葉を預かったモーセが自分の顔の前に垂らした覆いというのは、後に、神殿の至聖所の前に設置された分厚い垂れ幕と同じ種類のものであると言って良い。それは聖なるものと汚れたもの、貴いものとそうでないものを区別する分断線です。この隔ての幕の外側にいる者は、神に何でも申し上げる自由を持たず、ただ、一人、大祭司だけが、内側に入り、その自由に与ることができます。しかも、外側にいる時は、語る人の声もくぐもっているし、語る人の表情も見えないですから、誤解が生じます。その時、覆いを隔てて聞こえてくる神の言葉は、前回の4-11節の個所に語られた通りに、人を罪に定め、殺す文字となってしまうのです。その覆いは、ただ主の方に、キリストの方に向き直るときに、取り除かれるものです。主イエス・キリストにこの覆いを取り除いて頂かない限り、どんなに緻密に誠実に聖書を読もうとしても、読み方を間違えるのです。私たちを生かす言葉とはならないのです。神の言葉が、私たちの顔にかかる覆いのせいで、どうしても死せる文字、殺す文字になってしまうのです。

 キリストがその顔覆いを取り除いてくださるということは、具体的には、次のようなことだと言えます。今、ある方と洗礼準備をしていますけれども、使徒信条を学ぶ前に、聖書の読み方について一緒に学んでいます。恵みの分かち合い③でも最初のテキストにした以前若草教会の牧師であった加藤常昭先生の『聖書の読み方』という本を読んでいます。もうすぐ終わるのですが、受洗準備をしているその方は、今回の学びを通して聖書の読み方が分かってきたと仰いました。「聖書というものはそこにキリストを読み抜くように読まなければならないのですね」と。旧約の律法を読んでも、新約の山上の説教を読んでも、そこに自分の生き方を見つけようとしている限りは、聖書を読んだことにはならない。少なくとも、顔覆いをしたままの読み方になってしまうのです。主イエス御自身がヨハネ5:39で、自分の生き方を作るために熱心に聖書を読んでいる神の民に対して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」と仰っています。主イエスを見ていると神の表情が見えてくるのです。聖餐の食卓に通じるような神のボディーランゲージが見えてくるのです。このことがわからないと、15節「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心に覆いがかかっています。」ということになってしまいます。

 しかし、これは、神の民イスラエルの問題だけではなく、下手をすれば、私たち自身の課題にもなりかねないことです。というのは私たちも聖書を読みながら、また信仰に忠実にあろうと生きながら、かえって文字にこだわるような生き方をしてしまうことがあるからです。それは、自分で自分を何とかしよう、何とかできると思うあり方です。絶対の神にふさわしい絶対の生き方を自分で作り出そうと努力を始めることです。キリスト者にふさわしくあろう、神の子にふさわしくあろうと、自分に言い聞かせ始めることです。

 今日の個所に、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます」という言葉があります。「主と同じ姿に変えられていく」というわけですから、私たちは変えていく行為者ではなく、変えられていく対象です。この身に起こす変化ではなくて、この身に起こる変化について語っている言葉です。主の霊が、私たちの覆いを取り除き、主の方を向く者としてくださり、栄光から栄光へと主と同じ姿に私たちのことを変えてくださるのです。けれども、ここを読む私たちは、それよりも、自分の聖化のことを考え始めます。主と同じ姿に変えられていくという喜ばしいことが語られているのに、主のように変わって行かなければ駄目だと自分を主語にし始めます。そうすると途端におかしくなってきます。命の言葉が、殺す文字になってくる。

 自己実現という言葉があります。自分の成りたい自分、本来ならばこうあるべき自分、こうであってほしい自分、それを実現していくことが、人間の生き甲斐だと教える言葉です。現代に生きる私たちが、学校や社会や家庭で、大切なことと教わり、大切なこととして次の世代に教えている価値観です。そしてこの自己実現という価値が語られる時に、ほとんど一緒になって語られるアイデンティティー、自己同一性という言葉があります。アイデンティティーとは自分が一体何者であるか?誰であるか?その本当の自分が抑圧されたり、間違った道を歩んでいたり、自分を見失っていたりするから、人間は幸せになれないんだ。その本当の自分を取り戻し、自己を実現していくことによって、心においても、行動においてもアイデンティティーにふさわしく自己を実現していくことによって、生きている実感を得られる。充実感を得られる。

 自己の同一性を守らなければいけないとか、自分の生活を自分で作って行かなければならないとか、これが現代の律法になっている、我々はその虜になっていると、ある神学者は言います。その現代人の律法となり、呪いとなっている心理学の教える自己実現の価値観、アイデンティティーを訪ね求めそれにふさわしく生きることの延長で、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく」ということを、考えてしまう。このことを指摘するその神学者は、しかし、こう言うのです。「私どもキリスト者は、人間としての筋道から少しばかり離れたって平気でいられるのだ。自分らしくなくなることがあったって平気でいられるのだ。・・・み霊が生かしてくださるなら」と。

 み霊が本当に私達を生かしていて下さるなら、自己実現なんかにこだわらなくていいのです。自分は本当はこうあるべきじゃないか?こうしなければならないんじゃないか?自分自身を正しく生きなければならないんじゃないか?

 み霊が私たちを生かしていて下さるとき、わたしたちは、この現代の律法から自由になり、自分自身から自由になることができます。律法学者、ファリサイ人を代表とする神の民にとって、神の言葉である律法は、自分の正しさを証明するための道具、自己実現のための道具でしかなかったのです。自分で自分を狭い道に追い込み、それだけでなく、人を裁き、失格、不合格のレッテルを張り、神の言葉を殺す文字としてしまうのです。

 しかし、パウロは自分が鏡に映すように主と同じ姿に変えられていくことを、このような自己実現の目指すべき目標とは考えていません。むしろ、驚ているのです。コリント教会の人々との厳しい対話を続ける中で、自分に起きた変化に驚いているのです。「変えられていく」という言葉は、メタモルフォーゼという言葉のもとになる言葉が使われています。日本語においても生物学などで、このカタカナのままに使われる言葉です。それは芋虫が蝶になるような似ても似つかない変化が起きることを表す言葉です。パウロは、コリント教会との対話を続けていく中で、これから実現すべき目標なんかじゃなくて、自分にこのメタモルフォーゼが起きていること、起き続けていることに、驚いているんです。いや、自分だけじゃない。自分に先んじて起きているこの変化に、目下対立中のコリント教会の人々も巻き込みながら、私たちは既に、変えられており、変えられ続けているんではないかと、語りかけるのです。

 それはいったいどのような変化なのでしょうか?それが、神の前に確信を持っているということです。神の御前で確信に満ち溢れて生きられるということです。主の霊によって、顔の覆いを取り除かれて見えて来るもの、それは、私たちが奴隷ではなく、神の御前で何でも自由に話すことができる自由人であること、それどころか神の子であること、それゆえ畏れることなく、大胆であっていいということです。私どもが主イエス・キリストに、そしてその方が今は、霊として、この私たちを住まいとしてくださることにより変化し、それに向かって私たちが変化し続けている栄光に輝く主の似姿とは、この確信に満ちあふれているということです。

 聖書を読みこなし、その教えを身に付け、意識せずともそれにふさわしく歩めるようになっていくと、つまり自己を実現していくと、確信に満ち溢れて振舞えるようになるのではなく、キリストがその十字架において神さまと私たちの間を隔てる覆いを取り除いてくださったことにより、私たちはそのままで、神の御前に何でも言うことのできる自由を与えられています。もう与えられているのです。その自分を実現するのではなく、発見するだけです。

 間違ったことを言うでしょう。失敗もするでしょう。むしろ、正解に至らないことの方が多いでしょう。けれども、神がキリストの十字架において私たちに下さったのは、神の御前に、間違え、失敗を犯すことを織り込み済みの自由です。キリスト者らしい道を踏み外すことがあるかもしれません。それどころか、人間の道を踏み外すことがあるかもしれません。親として、子として、夫として、妻として、学生として、社会人として失敗することがあるかもしれません。しかも、積極的に罪を犯しているという意識ではなく、良かれと思って行う中でこそ、大きな失敗を犯すかもしれません。けれども、どんな失敗をしても私たちは神の子として生き続けます。

 もちろん、この大胆さと自由は、むしろ自己実現からの自由でありますから、自分の欲望を満たすために与えられた自由ではありません。そこはもう卒業して良いのです。私たちの失敗を赦し、それでもなお、キリストがお持ちになっているのと同じ子の身分を恵みにより私たちに与え続け、私たちが大胆で、率直であって良いことを許可し続けてくださる父なる神さまのために用いる自由です。こんなにも、優しいまなざしで私たちのことをご覧になってくださる神さまのためならば、人の目を気にして縮こまったり、自分のことも隣人のことも決められた枠の中に押し込めようとすることから自由になり、神を愛し、隣人を生かすことに繋がることだと思うならば、脅えずに、恥ずかしがらずに何でもやってみる自由です。

 アイデンティティーから自由になっていい、自己実現の呪いからわたしたちは解き放たれているのだと語ったのと同じ神学者は、また、別の文章で、コリントの信徒への手紙Ⅰの4:5「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」という御言葉を引用しつつ、次のような言葉をもって私たちの働きを待っていてくださる神のまなざしを紹介しています。「来たりつつある神は、そのしもべたち、しもめたちをほめるために来られます。」そしてまた、「失敗したことも、ほめていただくことがないということだけで取り去ってくれます。」と。神はただ私たちをほめるために備えていてくださいます。裁きはキリストの十字架に終わっているのです。これが私たちの抱いている希望であり、現在、確信に満ち溢れて振舞うことのできる理由です。

 この後に聖餐に与ります。この聖餐は、キリストが私たちに代わって御自分の身に裁きを負ってくださったことは絶対確実なことであり、またキリストのお持ちになっていた子の身分を私たちに与え養うことを誓う神の恵みの言葉です。また、この聖餐は私たちの側では、この主イエスの出来事の伝道のために神の恵みの思いに自分を委ね、神に献身して仕えるための信仰告白でもあります。天の父が私たちのために整えてくださった聖餐の食卓に与り、新たな力を得、この世に向かって、ただただ父の慈しみのまなざしが注がれているのだということ、そのような自分であることを実現するのではなく、発見することができるように、隣人のためのそのほんの小さなお手伝いのために私たちの言葉と業が用いられますように、祈りたいと思います。

 

 

 

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