信仰を探して下さる主イエス

6月7日(日) マタイによる福音書26章57節~68節

 今日の説教題は「主イエスの沈黙」としましたが、一週間、御言葉と向き合う中で、「信仰を探してくださる主イエス」という題名に変えたくなっています。

 もちろん、「イエスは黙りつづけておられた」という63節の記述は、忘れることのできない主のお姿です。

 ご自分の命のかかった裁判の席で、不利な証言が次々となされる中で、何もお答えにならない主のお姿に、心が震えます。

 ここにも、知るべき主イエスの恵みが見えます。それは、先週私たちが読んだ個所で出会った主イエスの恵みと同じものであると思います。

 あえて、天の剣をお取りにならなかった主イエスは、あえて、弁明をなさらなかった主イエスであり、鋭いお言葉の剣をもって、私たちを、裁くことをしなかったお方なのです。

 もしも、このお方が裁判の席で口を開いたならば、私たちには、立つ瀬がなかったのです。原告席に着き、主イエスを裁き、それによって知らず知らずの内に、神を裁いていた私たちが、本当は、被告席についており、神の法廷において、責任を問われている者であることが、明らかになってしまうはずだったのです。

 だから、主イエスが、黙っておられたということは、私たちの罪を問わず、ご自分が尻ぬぐいをお引き受けになる愛の覚悟によるものであります。

 一か月前に説教題を決める最初の黙想において、私は、このような主イエスの姿に出合い、是非、この沈黙の主の御姿をご紹介したいと思いましたが、この一週間、改めて、御言葉と向き合う内に、俄然、64節の御言葉に惹かれ始めました。

 「それは、あなたが言ったことです。」という言葉です。

 これは、「生ける神に誓って答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」と問うた大祭司に答えた主の御言葉です。

 ご自分を責めたて、陥れようとする悪意と殺意の籠った数々の不利な証言にも、何もお答えにならなかった主イエスが、突然、目を覚まされたように、大祭司の言葉に反応されました。ただ、ひと言返されたわけではありません。

 次いで、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」とまで、お語りになったのです。

 しかも、ここで主が重ねて語られた言葉は、処刑の判決を下すための決定的な自白として、扱われることになったような言葉をお語りになったのです。

 もちろん、この言葉がなくても、結果は最初から決まっていました。主イエスを取り囲んだ人々は、主に処刑の判決を下すことだけを考えていたのです。

 主イエスの沈黙は、この茶番に、あえて甘んじられる、この罪人どもを、それでも、見捨てることのできない父・子・聖霊なる神の愛の情熱ゆえの沈黙でした。

 しかし、そうであるならば、初めから終わりまで黙り続けていても良かったのではないかと、畏れながらも、わたしは思うのです。実に、不信仰な言い方かもしれませんが、大祭司への主イエスの応答は、蛇足とさえ言えるのではないかと思わなくもないのです。

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 福音書を読む者がしばしば、ゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈る主イエスの言葉にがっかりし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた十字架上の言葉に躓くように、「それは、あなたが言ったことです。」と、沈黙に耐えかねたように、語り出される御言葉を、無用な言葉に感じることもあると思います。

 沈黙は主が選ばれた愛であったはずだからです。主が黙るか、主が語り人間が滅びるか、突き詰めて言えば、その二つに一つしかないのです。

 けれども、主イエスは、沈黙をお選びになりながらも、大祭司の言葉にだけは口を開かれました。「それは、あなたが言ったことです。」不思議な言葉です。多くの人が、どう理解していいかと悩む言葉です。

 たとえばある人は、告白の責任を大祭司に結び付けようとした言葉、つまり大祭司を、当事者とするための言葉であったと推測します。

 また、別の人は、この不思議な言葉の背後には、それは「私の言う意味とは違うが、、、」という響きを持つ、ヘブライ語の慣用句があるのではないかと推測します。

 またそれらとは別に、後半の言葉に伴われながら、この言葉こそ、主イエスによる大祭司の問いへの明確な同意の言葉だと解釈する者もいます。

 どれも説得力のある読み方だと思います。

 何よりもまず、第一の解釈に応ずるように、一人一人の人間は、「主イエスを誰と言うか?」という問いに責任をもって自分の口で答えなければならない神の御前に置かれた当事者であります。

 また、第二の解釈が語るように、主イエスがメシアであられることは、大祭司の狭い理解の中には語り尽くされていないことでもあります。

 さらには、第三の読み方の通り、主イエスは大祭司の質問を投げ返されただけでなく、後半の御言葉によって、まさに、ご自分がメシア、救い主であることを、公然と語られたのです。どれも、主イエスの不思議な言葉の意味をそれぞれに捕らえていると思います。

 けれども、そうは言っても、決して理解しない者、初めから心を決めてしまっている者、つまり、言葉の通じない者に、なお、これらのことを語り掛ける理由がどこにあるのかと私は思うのです。

 罪の人間を滅ぼさないために、主イエスにおできになることは、沈黙して十字架に向かう道以外はないのではなかったかと思うのです。

 だから、少なくとも、これは主イエス御自身の必要から語られた言葉ではありえないと思います。責められることに耐えかねて、思わず漏れた言葉ではありえないと思います。

 ご自分の必要に迫られた言葉ではないということは、つまり、この言葉は、ご自分を十字架につける人間への嫌みでもないし、教育でもないし、後の時代に正式な発言だけは残しておこうという正義を求める言葉でもない。

 そういうことをすべて断念されて、沈黙を選んだくださった主イエスは、ご自分のためには、もう口をお開きにならないのです。

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 そうであるならば、64節の主イエスの不思議な御言葉は、大祭司のためのものであったという他ないのではないでしょうか?ご自分を殺そうとする者のために、開いてくださった口ではなかったかと思います。そう読む時に、はじめて、伝わってくる主の思いがあるのではないか?

 ご自分のために口を開くことを断念し、口を開く必要のなくなったお方が、ご自分を罠にかけようとする者の言葉を捕らえ、「お前は神の子、メシアなのか。」という悪意でしかない言葉を捕らえ、「それはあなたが言ったことだ。あなたが自分の口で、告白してくれた言葉ではないか。」と、聞こうとしてくださっているように思うのです。

 というのも、この大祭司の問いの言葉は、実のところ、この福音書の16:16で、弟子のペトロがした信仰告白、主イエスが、とてもお喜びになった告白とほとんど同じ言葉なのです。

 共通する部分を忠実に訳すならば、「あなたはキリスト、神の息子です。」ということ、それを肯定文で語るのか、疑問文を作る小さな「どうか?」という言葉を、頭につけるかどうか、それだけの違いなのです。

 そのペトロの告白に驚くほど似た言葉を受けて、主イエスはにわかに沈黙を破り、大祭司に応えました。「それはあなたが言ったことだ。」

 「あなたが言ったことだ。あなたが言ってくれたことだ。それは、あなたの告白でしょ。そうだろ。そう告白してくれるのだろ。」

 私は、そのようなニュアンスを含んで読んで差し支えないのではないかと思います。

 なぜならば、神は、旧約の昔から一生懸命に、私たち人間の信仰を探し求めてくださるお方だからです。

 詩編14:2にこういう御言葉があります。

 「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」

 主は探しておられるのです。目を皿のようにして、いつも探しておられる。目覚めた者はいないか?神を求める人はいないか?

 だから、ペトロがその信仰を告白した時、主イエスの喜びは爆発したのです。

 だから、神は、99匹を残してでも、一匹の失われた羊を探しに出て行かれ、見つかったなら、天がどよめく喜びが起こると言われるのです。

 そういう父の子である主イエスです。失われてしまった私たち人間を探しに、天からこの地にまで来てしまった、神に遣わされた、神による失われた人間捜索隊、神のサーチライトが、御子イエス・キリストです。

 このお方は、芥子粒ほどの信仰でいいと探してくださる。からし種ほどの信仰で良いから見たいと仰ってくださる。小さな小さな小さな信仰を、私たちの内に見出そうとしてくださる。

 そういう主イエスです。そういう主イエスが、違和感のある表現かもしれませんが、大祭司の言葉に沸き立っておられるのではないでしょうか。

 「それはあなたの言葉だね。あなたがわたしを『メシア、神の子だ』と言っているよね。」

 もちろん、主イエスは、よくご存じです。その言葉が悪意以外の何ものでもないことなど承知していらっしゃる。けれども、天から見渡しているだけでは、すまなかったお方が、飼い葉桶から十字架の元にまで、突き進んで来られて、なお、私たち人間の信仰を探し続けてくださっているお姿がここにある。

 それは、「それは、あなたが言ったことです」という小さな不思議な言葉に続く、これまた小さな言葉、「しかし、わたしは言っておく。」というお言葉の中にも現れていると思います。

 細かいことですが、元の言葉に遡りますと、この「しかし」という接続詞は、必ずしも、前の言葉を否定する言葉ではなく、必要不可欠なことに注目させるときに、用いられるまとめを導入する接続詞であると言います。

 つまり、「いずれにしても」というニュアンスもある言葉のようです。

 私は、ここに一生懸命に大祭司の信仰を探そうと、どこまでもどこまでも、食い下がってくださる主イエスの御心を見る思いがするのです。

 私たち人間の信仰を、探して、探して、大祭司のペトロの告白とは似て非なる言葉にまで沸き立ってしまって、でも、この言葉に1ミリも信仰の心などないことを、よくご存じなんです。

 そして、そこで、そこに至って、ついに「いづれにせよ」と語り出されるのです。

 「もうどっちだっていい」と。「いづれにせよ、あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見るんだ」と。

 つまり、主イエスは仰るのです。「関係を断とうとしているあなた方だが、私は決してあなた達との関わりを絶対に断ち切らないんだ。」信じる者だけじゃありません。大祭司もまた、天から来られる主イエスを見るのです。この人もまた、主イエスと出会い直す日が来るのです。全ての者が皆、この方の再臨に出合う。このお方を捨てた者たちが、もう一度、このお方との関係をやり直すのです。

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 長い前後の沈黙の隙間に、わずかに開かれた主の口、それは、苦しさに耐えかねて漏れ出た叫びではなく、その沈黙をご自分に強いた主の愛の発露そのものであったと思います。その意味では、耐えかねて出たお言葉、溢れ出した愛であったと思います。

 このような心に生きる主イエスの歩み、キリストにおける神の御業が、実を結ばないわけがありません。

 どこまでも探しに来られる愛の主の追跡は、必ず、目覚めた者、神を求める者、礼拝する者を作り出すのです。

 今日、ここで私たちが捧げる礼拝もまた、そのようなものに他なりません。今日ここにいる私たちも、ここで私たちが捧げている礼拝も、私たちの信仰を探し求めてくださり、被告席にまで着いてくださった主イエス・キリストの父なる神様が、主イエスの歩みによって造り出してくださっているものなのです。

 

 祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま、

 私たちの信仰と礼拝を慕い求めてくださるあなたであることを感謝いたします。

 すべてをあなたから受けながら、あなたから顔を背けてしまう私たちですが、

 飽きることなく私たちを追いかけ、私たちを、御前に連れ帰ってくださる恵みに、

 私たちも、何度でも、立ち返り、答え続ける者としてくださいますように。

 イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

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