主イエスの時

10月16日(日) ヨハネによる福音書7章1節~9節 

 

今日の6節、8節の原文には、カイロスという言葉が出てきます。日本語に訳すならば「時」という意味です。このカイロスという言葉、時は時でも、時計の針がぐるぐる回る時間や、カレンダーをめくっていく時間の流れを意味する言葉ではありません。そのためには、クロノスという言葉があります。

カイロスという言葉は、時は時でも、特別な時を表す言葉です。日本語で言うなら、「時が来た」とか、そんな風に特別な「時」、「時が満ちた」とか、ちょうど良い時、決定的な瞬間を表すのに使う言葉です。

聖書の信仰とは何の関係もありませんが、幸運の女神には、後ろ髪がない。前髪しかないという格言があります。だから、チャンスが訪れたら、もたもたせずに、それを掴めという格言です。

カイロスというのは、まさに、その前髪を掴むべき、とうとうやってきた決定的な瞬間のことと理解して頂けばよいと思います。

過去から未来へと向かって淡々と流れるクロノスで表される時間の流れの中で、ある特別な出来事が起こる決定的な時、それがカイロスです。

皆さんにとってもそういうカイロスで表される「時」というのがあります。これまでも、これからも、訪れるカイロスという言葉で言い表されるような決定的な時、自分を変えてしまうような、あるいはこの時にこそ、自分の命を燃やすべき決定的な時です。

今日の聖書箇所において、主イエスの弟たちが、兄イエスに向かって言ったのも、今こそが、あなたのこのような正念場ではないかということであったと思います。

先週読みました第6章の後半部分に、その66節に、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とありました。

わたしの肉を食べろ、わたしの血を飲めと仰った主イエスの言葉に躓き、「なんてひどい話だ。聞くに堪えない。」と、多くの弟子達が、主イエスの元から離れ去ってしまったのです。残ったのは、12弟子、しかも、その中には、裏切り者がいるのです。

7:1を見ますと、人気の去った主イエスであるにもかかわらず、ユダヤ人たちは、主イエスを殺そうと狙っていたと言います。踏んだり蹴ったりです。そこで主イエスの兄弟たち、つまり、血の繋がった弟たちが集まってきて、兄にアドバイスいたしました。

「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

ここで弟たちが故郷ガリラヤを去って、訪れることを勧めるユダヤとは、具体的にはユダヤの都、エルサレムのことであると思われます。神殿のある都市であり、ユダヤ人社会の中心地です。つまり、ガリラヤのような田舎でくすぶっていないで、この時こそ上京しろと勧めたのです。主イエスの弟たちにとってまさに、この時をおいて他にないと思われるような時でした。

2節に、「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」とあります。

これは、現代に教会に通い、聖書を読む私たちにとっては、十字架の出来事と直接結びついて理解される過越しの祭りほどには、馴染みのない祭りですが、当時は、過越しの祭りよりも盛大な祭りであったようです。この仮庵祭、元々は、収穫感謝を祝う、秋の大きな大きな祭りでした。仮庵、平たく言えば、仮小屋ですが、これは、収穫時期に畑に作ってそこに寝泊まりしながら寸暇を惜しんで実りを収穫した仮小屋のことだったようです。

しかし、この収穫祭であった仮庵祭、やがて、そのありあわせの草木で作った貧しい仮小屋こそ、エジプト脱出の後の40年の放浪生活、神の民のテント生活を思い起こさせるものとして、信仰の祭りとなっていったようです。過越し祭よりも大きな祭りだったと言いました。祭りと言えばこの日だったと言われています。

これこそが、絶好の機会だ。兄さん、上京して一旗揚げてくださいと、弟たちは言ったのです。大勢の人がエルサレムに集まる絶好の機会です。それどころか、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。」とあります。きっと、主イエスに失望して、離れ去ったたくさんの弟子たちとも、そこで再会できるのです。

もう一度、兄さんのしている驚くべき「業」を見せれば、あの弟子たちも帰って来るに違いないと、説得しているということでしょう。今までついてきたほとんどの弟子は去って行ったのです。今まではガリラヤが拠点だったかもしれないけれど、今となっては、ガリラヤにこだわる理由はないのです。

もちろん、ユダヤに行けば、主イエスの命を付け狙う者たちもたくさんいます。けれども、神よりの力を頂き、水をワインに変え、病人を癒し、パンを増やし、その教えによって人を救わんとするならば、覚悟を決めて、エルサレムに行くべきだと、弟たちは思ったのです。

弟たちの言い分、よくわかります。失うものはもうないのです。この時、行動しなければ、その志、せっかく始まった運動は、挫折してしまうように見えるのです。

ところが、5節にこうあります。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」

弟たちは主イエスを信じていなかった。

信じていなかったというのは、自分と血の繋がった兄が、神の使者であるはずはないと信じていなかったということではありません。弟たちは、主イエスが神より特別な使命と力を賜った神の人だと信じているのです。だからこそ、上京して、その実力を発揮してほしいと願ったのです。そこで数々の不思議な業を行い、神の人だと認められ、もっともっと多くの弟子を集め成功してほしい、必ず成功すると信じていたのです。

けれども、ヨハネによる福音書は、血を分けた弟たちのその信仰を、不信仰だと言って憚りません。

そして、今こそが時であるとの弟たちの焦りとは対照的に、主イエスは、こう仰います。6節です。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」

わたしの時はまだ来ていないんだ。まだ、わたしがこの世に遣わされた天の父の使命を果たす決定的な時は訪れていないんだ。

確かに、弟たちが言うように、主イエスが再び人気を得ること、去った弟子たちが戻ってくること、ユダヤ人たちがもう命を狙う気が失せるほどに、主イエスが神から遣わされた使者であることが誰の目にも明らかになること、公になること、そのためには、この時こそ絶好の機会に、私たちには見えます。

もちろん、厳密に言えば、主イエスが人々の心を掴むことのできる機会は、この時だけではありません。そのチャンスは何度も何度もあったのです。厳密に言うならば、主イエスにはいつでもそのことがおできになったのです。十字架の上からでも、十字架の上からこそ、弟たちが望んだことが実現するための絶好の時、すなわち、そこから神の力によって降りて見せて、御自分こそが神の子であることを公に露わにし、人々の服従を得る機会はあったのです。

だから、ある人は、6節の「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」という言葉は、不思議な言葉だと言います。なぜなら、何度も何度もチャンスを掴むことができないのは私たち人間の方で、神は、神の独り子である主イエスには、いついかなる時も、御自分の力を存分に発揮することができる機会があるはずだからです。

絶体絶命の十字架の上においても、天より天使の12軍団を呼び寄せて、御自分の命をお救いになり、敵を滅ぼすことがおできになるはずだからです。

しかし、主イエスは、十字架の上でも、また今日のところでも、そのチャンスを掴まれないのです。私たちの考えでは、このような機会を捉え、主イエスが不思議な業をなさることこそ、主イエスの弟と同じように、神が決定的に働かれる時ではないか、それこそが、歴史の特別な瞬間、特別な時、カイロスだと思うでしょう。

けれども、我々がこの時こそが神の力を示す時だと期待する期待を、ヨハネによる福音書は、弟たちの不信仰と呼びます。そして、ここでこそ「わたしの時はまだ来ていない。」という主イエスのお言葉を聴くのです。

まだわたしの時は満ちていない。わたしにはまだなすべき業がある。

主イエスをこの世に遣わされた天の父の使命を果たすために、御子主イエスに与えられる決定的な時とはいつなのでしょうか?その主イエスの時が満ちるために、主がなすべき業とは何なのでしょうか?

主御自身はどのようにご覧になっているか?7節のお言葉がその答えであると思います。

「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っていることを悪いと証ししているからだ。」

今この時ではないならいつなのか?いつ主イエスの時が満ちるのか?

この7節の御言葉を、主イエスに対する世の憎しみが満ちる時が主イエスの時だと言い換えて、一向に差し支えないと私は思います。わたしに失望し、多くの者が去って行く。わたしを憎み、わたしを殺そうとする者がいる。わたしが、世の行っている業は悪いと、責め続けるからだ。だから、世はわたしを憎む。そうだ。そのために、わたしは来たのだ。愛されるために来たのではなく、憎まれるために来たのだ。あなたがたは悪い、あなたがたは罪人だと言えば言うほど、あなたがたはわたしに失望し、わたしのもとから去って行く。わたしはあなたがたに憎まれ、殺されることになる。

それがわたしの使命であり、その憎しみが満ちる時こそ、わたしの時である。わたしは、愛されるためにではなく、憎まれるためにきたのだ。

主イエスというお方は、わたしたちを褒めるためにではなく、「あなたがたは悪い」と断罪するために来たのです。今日の7節の言葉から言えば、そうとしか言いようがありません。

そのような主イエスを愛することができるでしょうか?そのような方に、私たちは信頼することができるでしょうか?

できないのです。できるはずがありません。必ず失望するのです。憎くなるのです。

主イエスの御言葉が真っ直ぐに届くならば、人は必ず躓くのです。躓かなければ、私たちはまだ、ヨハネが語る信仰以前の信仰、不信仰と判断せざるを得ない主イエスの弟たちの信仰に留まっているのです。

わたしはここ最近、ずっと信仰というのは、何も難しいことではない。イエスさまが好きか、信仰とは、このお方が好きだっていうことだと言い続けてまいりました。

けれども、その好きっていうことは、びびっと来たとか、本能的にそうだとか、自然と主イエスへの愛が湧き上がってくるとか、それだけではないと思います。私たちキリスト者の主イエスへの愛というのは、実は、主イエスを憎む思いをきちんと弁えた上、自分の心の内に見つけた上での愛です。

なぜならば、主イエスというお方は私たち人間の正しさを絶対にお認めにならないからです。

だから、私たちは、主イエスを憎まずにはおれません。7節の「世はあなたがたを憎むことができない」という言葉は、考えてみれば不思議な言葉です。なぜならば、私たち人間はしばしばお互いに憎み合っているからです。隣人の間でも、国と国との間でも、憎み合って時には殺し合ってさえいるからです。一番親しいはずの家族の間でも、親子の間でも、夫婦の間でも、血の繋がった民族の間でも、憎み合ってしまうことがあるからです。

それだから、家族を愛するよりも、隣人を愛するよりも、主イエスを愛する方がずっと優しいと、キリスト者ならば、どこかで思っています。

けれども、主イエスは、世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいると私たちの常識とは反することを仰います。

謎の言葉です。けれども、じっくりじっくり考えるならば、納得の言葉でもあります。

なぜならば、人と人とが憎み合い、争い合う時にも、わたしたちは、お互いに自分の正しさを疑ってはいないからです。お互いに相手ではなく、自分にこそ正義はあると思い込んではいますが、人間が正しさを持てるという点に関しては、少しも疑ってはいないからです。この正しさ、自分だけでなく、争い合う相手も持てるはずだという点は、疑っていないのです。

私たちは、争い合う相手が自分のように正気になって、真の正しさに立ち帰ること、過ちを棄てて、正しく生きるべきだし、そうできるはずだと信じているのです。それなのに、誤りに固執し続け、なすべき正しさに生きていないと思うから、どうしようもなくいらだつのです。

しかし、もしも、争い合う隣人が、自分の非を認め、この私の正しさを全面的に認めるならば、挙げた拳を下ろすことはやぶさかでないのです。

けれども、主イエスという方は世に対して、一人の例外もなしに、あなたがたは悪い。あなたがたの中には何の正しさもない。そして、あなたがたが、自分の力で正しさに立ち返ることは決してないと言い切られます。

既に3:3で主が語られた「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とは、「正しい者はいない。一人もいない。」ということ、主の断罪の言葉なのです。

あなたがたの悪さは思い違いによるよるものではない。あなたがたが正しくないのは、軌道修正すれば何とかなるものではない。根っから悪いのだ。

こんなことを言うから、主イエスは失望されたのです。人に殺意を抱かせたのです。失望したのは仕方がない。殺意を抱いたのも無理はない。そしてこの断罪の言葉は、この私にも向かっている。私たちにも向かっています。

だから、当然、私たちもまた、主イエスに失望するのです。そんな私を責める言葉は、聴きたくない。こんな風に私を責める人は、いなくなってほしいと願うのです。

けれども、そこで止まってはいけない。いいえ、止まる必要はありません。これほどまでに、私たちこの世の罪を、悪さを徹底的に指摘し、断罪し続けられる方は、こんなあなたたちには生きる価値がない。生まれて来ない方が良かった。死ななきゃ治らないと突き放し、呪うのではありません。

あなたの罪を全部全部知っている。全部全部知っている。どうしようもない。どうにもならない。あなたを底の底から知っている。

そのあなたを愛するために来た。

わたしを憎むあなたを、わたしを憎まずにはおれないあなたを、わたしに失望し、殺す選択しかできないあなたを、愛するために来た。

主イエスによる厳しい罪の指摘は、この世を、わたしたちを滅ぼすためのものではありません。そういう私を愛するため、全く正しい者でない私を愛するため、生かすためです。

今日は、北陸学院の総員礼拝です。今日の話を聞きながら、まさか、自分はイエス・キリストを殺したいなどとは思っていない。そんなひどい人間ではないと思っている方があるかもしれません。

私は、この話を聞いてくださっている方が、いいえ、あなたはあなたが自分を評価しているよりも、本当はずっと悪いんだと説得したいわけではありません。

そんなことには興味がありません。

私が今日、ぜひ知って頂きたいと願っていること、それは、元気で、自信のある者を褒めたたえる神の言葉ではありません。

なんて自分はダメなんだ。自分は無価値な人間だ。自分なんて、この世界にいてはならない存在だと思う時、主イエスは、そのあなたを愛している。そのあなたを生かすためにわたしは来たと仰る言葉を聴いて頂きたいのです。

自分の正しさに酔っている時には、自分の罪を指摘してくる存在は鬱陶しくて仕方がないかもしれません。また、自分で自分を褒めることでようやく一日一日を生きていけていると思う時は、罪を指摘する主イエスの言葉が、ぐさりぐさりと胸に刺さり、耳を塞いでしまうに違いありません。

けれども、そのような努力も尽きるところ、本当に尽きてしまうところ。

自分はもうダメだ。自分には生きる価値がない。自分なんて、この世界にいていい存在ではないと思う時、嫌で嫌で仕方がない、憎くて憎くて仕方がない主イエスの言葉が輝き出すのです。

わたしはわたしを憎むようなあなたを愛するために来た。真っ黒な罪人であるあなたを愛するために来た。自分で自分が嫌いになってしまっているあなたを愛するために来た。わたしはあなたを棄てない。絶対に棄てない。

こんな私なんて救われるわけがない、こんな私なんて愛されるわけがない。

いいや、わたしはそのあなたを愛する。あなたが生きることを喜ぶ。

主イエスが罪を徹底的に指摘されるのは、私たちを滅ぼしたいからではありません。まるで逆です。

私たちが自分の目にさえ、自分が生きる価値なしと判断する時も、私だけでなく、誰もが、究極的で最終的な判断において、まさにそのような価値なき者だと確信している時も、あなたは生きて良い。あなたが生きていることをわたしは喜ぶ。あなたがこの世に存在してくれていて、私は嬉しいと仰るのです。

それは口先だけではありません。口先では何とでも言えるというわけではありません。本当に生きているだけで、私が誰かの重荷になってしまい、マイナスしか生み出さないという事態が起きたとしても、主イエスはわたしが生きることを喜んでくださる。

そのために、私の重荷を担いでくださる。私のマイナスを引き受けてくださる。

それが十字架です。口先だけではないのです。私の重荷を、私の罪を、いいえ、私という重荷を主イエスは引き受けられたのです。完全に。十字架で。永遠に。

その十字架が、主イエスの時です。主イエスのカイロスです。あの十字架で主の時は満ち、主は、私たちのために全てを成し遂げられたのです。

それゆえ、主の「あなたがたの時はいつも備えられている」という主の言葉もまた、私たちは、このお方にある良き知らせとして聴くことが今は赦されているのです。

もう時は成就したのです。主が十字架で私たちに代わって、わたしたちの時をも成就してくださったのです。

すなわち、もう、幸運の恵みの前髪や後ろ髪など気にかける必要は二度とないのです。

主イエスを信じるのに遅すぎる。神の愛を得るに遅すぎる。時を失ってしまったということはもうないのです。

いつでも、今この時がふさわしい時、カイロスです。主は棄てない。決して私たちをお見捨てにならない。

私がどんな者であっても、どんな失敗をしでかしても、生きる価値を自分でも見出せなくても、自分で自分を棄ててしまっても、主は私たちの生きることを喜び、私たちを生かすために、本当に生きて良いことを確かなこととするために、そのために、御自分の命の代価をもう既に支払い終えているのです。

支払いは終わっています。返すこともできません。だから、断ろうとしなくて良いのです。

今日この説教を耳にしたあなたに主イエスは仰います。

あなたには、私の命の重みが込められている。あなたはわたしのものだ。安心して、生きなさい。

 

 

 

コメント

この記事へのコメントはありません。