主イエスの情熱

4月17日 ヨハネによる福音書第2章13節~22節

イースターおめでとうございます。主は甦られました。このお方は、真にお甦りなり、今も私たちと共におられます。

このイースターにお聴きする御言葉は、ヨハネによる福音書の先週の続きです。偶然にも、ふさわしい箇所が与えられました。主イエスがご自分の十字架とご復活を暗にお語りになった最初の箇所です。

先週はカナという村の結婚式に主イエスが、招かれた物語でした。そこで、水を上等なぶどう酒に変えられたという最初の奇跡を行われました。

12節を見ますと、主イエスは、その後、家族と弟子たちと共に、カファルナウムという町に行き、何日か過ごしたとあります。

この町には、弟子のペトロの自宅があったようなので、そこに招待されたのかもしれません。

親しい者たちと、そこで数日過ごし、それから、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭に出るために、神殿のあるエルサレムに向かわれました。結婚式、親しい者たちとの時間、お祭りと、喜びの時が続いて行きます。

ところが、この喜びの連鎖は、実は、その頂点となりそうな過越祭でストップしてしまいました。先祖たちがエジプトの地の奴隷から解放されたことを祝う祭りです。その中心の中心であるエルサレムの神殿で、喜びの連鎖がストップしてしまったのです。

このことは、よく考えなければなりません。

主イエスは結婚式の宴会をお喜びになりました。母と兄弟、弟子たちと共に、休暇を楽しむことをされました。けれども、そのお方は、過越祭のありさまには、我慢がなりませんでした。神の民ユダヤ人の信仰のありさまに我慢なりませんでした。

主は神殿の境内に入ると、鞭を手に取り、犠牲を献げるために売られていた動物を追い出し、それから、ローマのお金を神殿に捧げるのにふさわしいユダヤのお金に両替する両替商の台をひっくり返しました。

神殿のこのようなありさまを見て、イエス様は、烈火の如く怒り、言葉で非難する前に、手が出ました。

このような大騒ぎを起こして後、はじめて「このようなものをここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と、お叱りになりました。

こんなに激しいイエス様の姿は、他の箇所にはどこにも記録されていません。

宮清めと呼ばれる出来事です。この出来事は、四つの福音書すべてに書かれています。それだけ、インパクトの強い事件だったのでしょう。

17節に弟子たちはこの出来事を見て、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という旧約詩篇69篇の聖書の言葉を思い出したと言います。

つまり、父なる神様の神殿が商売の場所になってしまったことに対する御子イエスの怒り、激しい憤りが、主イエスを食い尽くしたのです。

両替の台をひっくり返し、鞭で動物を追い出すその大立ち回りがきっかけとなって、イエス様は十字架に架けられたのです。

そのことを、弟子たちは後になって思い出したと言います。

他の福音書と違い、ヨハネによる福音書ではイエス様の伝道活動の初めの方にあったとされる事件です。しかし、ヨハネにおいても、既に、この宮清めの出来事が、十字架に繋がって行く一つの大きなきっかけとなったと理解されているのです。

さて、ヨハネによる福音書の大きな特徴は、この宮清めの出来事に対して反応した18節以下のユダヤ人達とのやり取りが、記録されていることです。

「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか?」

犠牲の動物を追い出し、両替代をひっくり返したこと、さらには、神を父と呼び、自分を神と等しい者としたこと、これらの正しさを証明する証拠を見せてみろ。

イエス様は、お答えになりました。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

この時の神殿はヘロデ神殿と呼ばれるものでした。ソロモンが建てた神殿は、バビロニア帝国に壊されていました。

やがて、バビロニア捕囚から帰って来た人々が、ソロモン時代よりも小さくみすぼらしい神殿をやっとの思いで建てました。

その第二神殿が朽ちてきた時、ヘロデ王によって、大規模修繕が行われました。

外国人であったヘロデ王が、ユダヤ人のご機嫌を取るために、行った大規模リフォームです。その結果、当時の神殿は、ソロモン神殿を超える豪華な神殿となりました。

だから、イエス様の言葉に対して、神殿のユダヤ人たちは、胸を張りながら、嘲笑って言ったのです。

「この神殿は46年かけて建てられた。それを三日で建て直すというのか?」大風呂敷も良いところだと。

気に入らないヘロデ王の始めた神殿増築改修事業でしたが、そこは目をつぶって、ソロモン時代を超えるその神殿は、異邦人に対する自分たちの誇りとなりました。それを三日で建て直すなんて、、、。

けれども、本当に彼らの心が揺さぶられなければならなかったのは、立派な神殿を、あたかも張りぼてであるかのように、三日で建て直すと言われたところなどではありませんでした。

「この神殿を壊してみよ。」と仰ったイエス様の言葉にこそ、本当は引っかからなければなりませんでした。

このイエス様の御言葉は、命令形にも訳せる形が使われています。だから、ここを「この神殿を壊せ。」と訳す人もあります。その方が、ニュアンスが良く伝わってくるかもしれません。。

「もしも、壊しても、、、」ということではありません。「壊せ、今すぐ壊せ、あなた方が壊したその神殿を私は三日で建て直そう」ということです。

この人たちに向かって、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とお叱りになったイエス様です。神殿が、壊されていると、お感じになっているのです。

「あなた方は私の父の家を、今、現に壊しているね。自分の欲望の神殿としてしまっているね。あなた方が、私の父の神殿を建てることは決してできない。私はあなた方が壊し続けているその神殿を建て直すために来たのだ。」

その身を食い尽くすほどに、真の礼拝を献げる場所を再建することに、力を注がれるイエス様なのです。

しかし、なぜ、そこまでして、神殿再建に情熱を注がれるのでしょうか?

もちろん、天の父のためです。天の父への礼拝が、人間の欲望と自尊心に仕える、宗教行為になってしまうことに我慢ならないからです。

けれどもまた、キリストのその情熱は、真の神をも、自分に仕える偶像としてしまうその当の人間のためでもありました。神さまとの真っ直ぐな関係が回復されることは、私たちが本当の慰め、本当の幸せに生きるための真実の道なのです。

しかし、その時は、誰もそのことに気付きませんでした。イエス様に対立する者たちばかりでなく、弟子たちもわかっていませんでした。誰一人分かっていませんでした。

しかし、そのことをもイエス様は、よくわかっていらっしゃいました。

人間が本当の礼拝を献げられるようになるためには、今ある神殿が壊され、イエス様によって、もう一度、建て直さなければならなかったのです。

神の独り子によって建てられる人の手によらない神殿、神の独り子によって始められる人の手によらない礼拝が、現れなければならないのです。

力と宝と時を注いで46年掛けても、天の父の神殿を壊すことしかできない私たち人間の業に代わって、イエスさまによってたった三日で建て直される、まさに神業としての神殿が現れなければならなかったのです。

けれども、人の手によらず、神の子によって建て直される神殿とは、21節、「御自分の体のこと」でした。壊された後に、三日で再建される神殿とは、イエス様の十字架の死の後に三日目に復活される御自分の体のことでした。大きな大きなイエスさまの犠牲を決意した言葉だったのです。

ある人は、今日お読みした宮清めを、神殿の粛清と表現しています。両替台をひっくり返し、鞭で追い出し、まさに、粛清と表現するにふさわしい毅然とした厳しさが見えています。

けれども、このような厳しさがやがて、私たち人間の信仰を建て直したのでは、ありませんでした。

むしろ、主の熱心は、この方を食い尽くしました。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、本当は神を神とはしたくはない人間、そのことに気付きもせずに、壮麗な神殿を建てる私たち人間によって、殺されることになってしまったのです。

ところが、天の父は、私たち罪深い人間によって殺されたお方を、三日目にお甦りにならせられました。

それによって、神は、その不屈のご意志を明らかにされました。

神を神とすることをせず、真の神が目の前に現れたら、十字架に着けて殺す、その人間を諦めることがないということを明らかになさいました。

神が、御子の十字架という無限の犠牲を払って、真の神殿を、真の礼拝を、私たちのために建て直されるのです。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」というイエス様の御言葉は、このような覚悟の込められた三位一体の神の決意の言葉、私たちへの福音の言葉でありました。

今日は、この後、小学生の信仰告白式を行います。言葉も喋れない乳児の時に、小児洗礼を受けた者の信仰告白式です。

その小児洗礼の時に、忘れることができませんが、この幼子は、自分の頭に掬った水をかける牧師の手を両手で捕らえ、ぐっと上にどけようとしました。もちろん、牧師の手をどかすことはできません。

それを見て、会堂に集まった誰もの頬がゆるみました。

母親に抱かれながら洗礼を受ける幼子の横に立って、私は、その光景を見ながら、改革派教会の信仰の表現の一つ、「不可抗の恵み」、「抗うことのできない恵み」という言葉を思い出していました。

私たち人間がどんなに神の恵みをはねつけようとしても、神が注ぐことを決められた恵みには、絶対に逆らうことができないという私たち改革派教会の重んじる信仰の言葉です。

神の恵みの御手から逃れることはできない。その方を十字架に退けようとしても、かえって、私たちのために真の神殿が建てられてしまう。真の礼拝の道が、人間の罪をきっかけに、思いがけずに、開けてしまう。

しかし、逃れることのできないほどに、私たちを追いかけて来るこのような神の恵みは、いつまでも、私たちを頑ななままにしておくことはあり得ません。

なぜならば、私たち人間にしつこくこびりつく神を拒む頑なさ、罪深さにも関わらず、神の恵みは、もっともっとしつこく、私たちの心に迫って来て、やがて、頑なな私たちの罪の腕組みを、ほどいてしまうからです。

神を拒む私たち罪人のために、命をかけて、その関係を保ち、真実なものとしようとされる十字架のキリストの愛を、心の奥深くに聴かされるならば、その愛に逆らい続けることは出来ないのです。

そして、主の憐れみによって、心開かれ主と共に生きていくことに、どんなに自分が神から離れた者であったか、懺悔と感謝と、賛美の告白をしないわけにはいかなくなるのです。

私がよく名前を出します、この元町教会の伝道によって生まれた若草教会の初代の牧師であった加藤常昭先生の説教集が昨年全37巻を持って完結いたしました。その最後に出た37巻の一つの説教の中に、私にとって忘れがたいエピソードが載っています。少し長いですが、ご紹介させてください。

最近ある会合で、食事の席に隣り合わせになりましたまだ若い伝道者が、前からそのご夫妻に赤ちゃんが期待されていた、それを知っていたものですから、「もう生まれたの?」と聞きました。嬉しそうな顔をして、「はい、女の子が生まれました」。当然そういうときにわれわれは聞くものでして、「名前は?」。「キリエです」。「キリエ…」。すぐには分かりませんでした。「キリエ?」と聞き直したら、「はい!キリエです」と言ったのです。「ああっ」と思ったのですけれども、たぶん世界広しといえどとキリエという名前の女性はいないんじゃないかな、どこかにいるかな、と思いました。

そこから、加藤先生は、この言葉が、キリエ・エレイソンという礼拝の初めに必ず歌う古い祈りの歌の言葉であること、その意味は、「主よ、憐れみたまえ」という意味であることを紹介していきます。

今の日本では、カトリック教会ばかりが、このキリエの祈りを大切にしているかもしれないけれども、本当は、改革者カルヴァンも、礼拝の始まりにこのキリエを歌うことを重んじていたこと、ルターもまた、キリエを歌い、罪を悔い改める祈りなくしては、礼拝が始まらないと考えていたこと、そんなことを語ります。

しかし、なぜ、毎週毎週自分が罪人だなどという元気を失わせてしまうような告白ができるのか?私たち教会は飽きることなくそんな告白を続けるのか?

改革者ルターは面白い表現をしたと加藤先生は、ルターの短い言葉を紹介されます。

「世の中で本当の罪人になられたのはイエス・キリストだけである。」

十字架でキリストが叫んでおられる。本当は私たちの叫びであるはずなのに、深くて暗い本当の罪の自分を見ることすら怖くてできない、私たちに代わって、キリストが叫んでおられる。そのキリストの叫び声を聴きながら、「ああ、あの叫びに支えられて、私も神を呼べる」。自分でも受け入れられない、認められない自分を、このキリストに照らされているおかげで、昨日よりも今日、今日よりも明日ほんの少しでも多く受け止めて行きながら、深い深い所から、私の存在の深みから、神の御名前を呼ぶことができる。十字架のキリストのお陰です。

こんなにも深い癒しも慰めもないと私は信じています。

このことがわかれば、洗礼を受ける準備は整ったと言えると加藤先生は言います。信仰告白と言い換えても構いません。

このような信仰はどのようにして与えられるのでしょうか?

22節にこうあります。

「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた。」

主イエスの敵となった者たちだけでなく、弟子たちもまた、無理解でした。ヨハネでは、この宮清めの出来事からおよそ3年半、主イエスと一緒に暮らし、過ごした間中、ずっと理解しなかったのです。

しかし、そのご復活の後に、思い出して、分かるようなりました。

ここでは、はっきり書かれてはいませんが、ヨハネによる福音書において、この主イエスの御言葉を思い出して、その出来事を自分のこととして、受け止めることができるようになるのは、神様の送られる霊、聖霊の働きによるものです。

ヨハネ14:26にこうあります。

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

信仰もまた、神さまの憐れみによる神さまからの賜物。これが、私たちの信仰です。

それだから、信仰を告白する者は、自分の信仰を誇ることは出来ず、ただ神様の恵みと憐れみに感謝するだけです。

そこに神が造られる神の神殿があります。そこに、私たちの本当の居場所、天の父の家があります。

神がキリストの裂かれた身体によって、ご用意くださった信仰です。神がキリストの流された血によってご用意くださった礼拝です。もったいないことです。ありがたいことです。

信仰告白式の後にただちに聖餐を祝います。聖餐に与るということは、神様の憐れみに生きる他ないと、自分の貧しさを認めることです。しかし、そのことを悲しむのではなく、喜んで神を拝んでいるのです。

ここにキリストと共に甦った人間がいるのです。キリストの命に生かされるイースター後の人間がいるのです。甦りのキリストの命によってのみ生きる、真の神の家がここにあります。

祈ります。
 主イエス・キリストの父なる神様、天の父を思い、私たちを思う御子の熱心が、御子の十字架をこの世界に立てることになりました。もったいないことです。かたじけないことです。天の父と私たちを結ぶため、全てを捧げ尽くした御子のゆえに、私たちも、足りないこの身を捧げる他ありません。貧しい者ではありますが、私たちをお受け取り下さい。そして、この貧しいものを、ご復活の御子の命で生かし、新しい週も御用のためにお用いください。御子が造られたこの礼拝の群れに、誰をも、彼をも招く伝道の志に生きることができますように。神の小羊、十字架のご復活の主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

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