主イエスの大声

3月19日 主日礼拝説教 大澤正芳牧師 ヨハネによる福音書11章38節~44節

ラザロの復活の記事を、4回にわたって聴いてきました。これほど丁寧に、このラザロの復活の出来事を聞き続けたのは、私もはじめての事でした。

それこそ、主イエスのことを誤解し続けた人々であっても、それだけは決して疑うことができなかったように、私たちもまた、この出来事からひしひしと伝わってくる主イエスの思い、天の父の思いは誤解しようがないと思います。

ご覧なさい。どれほど、ラザロを愛していたことか。いいえ、どれほど、私たちのことをこの方は愛しておられるか。

心を騒がせ、憤り、ラザロのために、私たちのために泣いてくださる子なる神の狂おしいほどの愛です。

 

ヨハネによる福音書をこの礼拝でこれまで聴き続けて来た中で、同じように感じてくださっている方も多くいらっしゃると思います。

この福音書を今回、読み進めて行く中で、主イエスの「声」というものが、とても印象的であり、とても大切なものだと、私は深く受け止めさせられています。

主イエスの言葉、神の言葉という親しみのある表現だけでなく、それと似ている主イエスの声という表現、しかも、似ているだけでなく、声という時は、言葉が、生きたものとなって、この私に届き、響く、主イエスとの人格的な出会いの中で、聴かれる言葉であるというニュアンスを持つ表現として受け止めさせられています。

 

マルタに出会い語られた主の声、マリアを呼び出し耳打ちされた声、愛する者を失った絶望の中にある姉妹たちに語りかけられた生きた声、ラザロのために、姉妹たちのために、憤り、涙を流される主の声です。

私たちが読み進めているこの出来事を語る今日の言葉もまた、私たちに神の生きた言葉、主の「声」として聴かれることを望んでいます。

主イエスご自身がそう望んでいらっしゃいます。

今日、読んでいる41節以下で、主イエスご自身が天を仰いで、こう仰っています。

 

「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

マルタ、マリア、ラザロだけでなく、周りにいる群衆もまた、主イエスの声が目指す当事者です。

誰も他人事ではいられません。主イエスが見つめておられます。主イエスのまなざしにおいて、天と地が繋がれ、神の言葉は、あなたを目指して語りかける生きた声になります。

主イエスを通して、私たちに届こうとするその声、その中でも今日、聴いている43節には、主イエスの「大声の叫び」が響き渡っています。

「大声」、ギリシア語では、フォーネー・メガレー、つまり、メガ・ボイスです。

主イエスのメガ・ボイス、絶叫が響いています。

「ラザロ、出て来なさい」。

ラザロ、出て来なさい!!墓から出て来なさい!!死の眠りから起き上がりなさい!!

 

主がラザロに聴かせたい声、マルタ、マリア、周りにいる群衆、そして今、私たちに聴かせたい声、死んで墓に葬られた者、四日たち、腐り始めた者、人間的に言えば、死に切った者に、主が大声でお語りになりたいと熱望されるのは、「出て来なさい。起きなさい。」というひと言です。

「ラザロ、出て来なさい」。

ここに主イエスの願いがあります。天の父が耳を傾け、聴きたい、叶えたいと、待ち構えておられる主イエスの心からの願いがあります。

天の父が遣わし、天の父と一つであり、天の父が願われることを、ご自分の願いとされる方の願い、だから、結局は、御父と、御子の総出の願い、神ご自身の心の底からの熱望があります。

 

神ご自身の心の底からの願いとは妙な表現かもしれません。

だから、シンプルに言い換えれば、ここには、神の究極的な御心、神の心そのものが語られていると言えば良いでしょう。

それが、今日聞いている「ラザロ、出て来なさい」という言葉の持つ重みだと私は信じています。

 

このラザロの身に起こった出来事を念頭に置き、冒頭にこの物語を丁寧に紹介した有名な書物があります。

一度はその名を聞いたことがあると思います。

デンマークの哲学者キルケゴールの『死に至る病』という本です。

この本は難解な哲学書として知られます。しかし、ややこしいところを飛ばして読みさえすれば、キリスト者ならば、案外、わかりやすいものです。

主イエスの声を自分に語られた声として聴く者には、多分、哲学者よりもよく、わかる書物ではないかと思っています。

キルケゴール自身が、これは神学生にだって書ける書物であると同時に、大学教授には書けない本だと、言います。これが、主イエスへの信仰を告白する者の書いたものであるということです。

だからかえって、学者の解説を読むよりも、キリストを愛するままに読んだ方が、ずっと理解できると、思います。

たとえば、このラザロの身に起こったことを語るキルケゴールの言葉、私たちにはよくわかります。

彼はこの書の冒頭部分でこう言います。

 

「キリストが、墓に歩み寄られるということ、そのことだけによってでも、この病は死に至らないということが意味されるのではないだろうか。キリストが現にそこにいらっしゃるということが、この病は死に至らないということが意味しているのではないだろうか!・・・そう、ラザロが死者の中から呼び起こされたから、だからこの病は死には至らない、ということではない。そうではなく、キリストが現にそこにいらっしゃるから、だからこの病は死に至らないのだ。」

 

ラザロにとって、私たちにとって、本当に心強いこと、本当に嬉しいこと、本当に命の中に私は入れられていると言えること、すなわち、この病が死に至らないのは、キリストが現にここにいてくださるから、私たちの友となってくださるから、私たちのために、心を騒がせ、憤り、涙を流すインマヌエルなる神として、現にここにいらっしゃることです。

 

救いとは、復活とは、永遠の命とは、何よりも、このお方が私たちのそばにあり、もはや、二度と私たちを見捨てない、そう、私たちの目を見つめながら、私たちに耳打ちされること、私たちとそのようなお方として、今、ここで出会ってくださっていること、そのことです。それが、私たちにはよくわかるのではないでしょうか?

 

聖書の信仰において、人間の死とは自然死ではありません。

死は罪の支払う結果として、人間に入り込んだものとして描かれています。

原罪の結果が死だと語られています。

今、私はこのように語ることによって、聖書の世界観を教え、それを受け入れ、信じてもらおうと思っているわけではありません。

むしろ、終わったこととして語るのです。死の棘は、私たちのキリストによって既に抜かれたとお伝えしたいだけです。

この私たちのキリストのゆえに、もはや、罪の支払う報酬としての死を死ぬことは決してないのだとお伝えしたいだけです。

 

もう少し、言い方を変えます。

死んでも仕方ないと言わなければならないような命は、もう、どこにもないのです。

どんな死ももはや罰ではありません。どんな死ももはや、報いではありません。

このラザロの出来事において、このラザロを愛するキリストのゆえに、死は罰であることを永遠に終えました。

このラザロの出来事における主イエスの大声以来、死の棘は決定的に、完全に抜かれてしまいました。

主イエスの姿を見れば、誤解しようもなくよくわかるのです。

この方はラザロの死を願ってはいない。ラザロの滅びることに耐えることができない。

ラザロの墓を目の前にすると、心騒ぎ、憤り、涙が溢れてしまう。

 

「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。

 

主イエスの敵ですら、そのことを誤解することができません。

天の父と心を一つにされる方、この世界を、私たちを、天の父と共にお造りになったと主張されるお方、この方の願いを父が聴きたい、叶えたいと待ち構えているというお方、神のメガ・ボイス、神の唯一絶対の、他のどんな思いとも並び立つことのない、御心そのものであるお方が、ラザロの死ではなく、ラザロの生きることを望んでいるのです。

そして、その御心が、天と地において、たった一つの真実となるまで、この方が、止まることはありません。

 

神は、そのような主イエスを、私たちに差し出して、これこそが私の心だ!!これこそが私の思いだ!!隠されるところのない、顕わになった輝き、私の喜びだ!!とお語りになるのです。

つまり、この神の御心が、ラザロの真実となり、マルタ、マリア、周りにいる群衆、そして、私たちすべてのリアルとなることを、主は、神の栄光、我が誉れと仰り、働き続けられるのです。

 

死に至る病とは、キルケゴール流に言えば、絶望です。

しかも、避け難い必然的な罪のゆえの絶望です。

人間同士の間では自分はましだと誤魔化すことがてきたとしても、自分だけを見ていれば、悲劇のヒーロー、ヒロインを気取って、酔っていれば済むことだけど、生ける神の御前に引き出されるならば、逃れようもない罪の自覚こそが、本物の絶望をもたらします。

つまり、神の御前でこそ露わになる私たち人間の本当の絶望とは、私が生きづらさを感じているのは、自分自身の罪のゆえであり、他の誰にも責任がないということを引き受けざるを得ないという自分への究極的な絶望のことです。

大きな重い石によっても、閉じ込め切れない、死の臭気を放っている、今生きていたとしても、本当は死ぬべき私であることの絶望です。

 

このような絶望の前で、私たちを助けることができる力は、天地万物、どの被造物にも与えられてはおりません。

けれども、たとえ、私たちが死を罰として受けなればならない、どうしようもない罪人であったとしても、それにも関わらず、もう既に、神は、私達の滅びを、1ミリも受け入れない、私の味方、私たちの命であり、復活であることを、全身全霊で叫ばれることをキリストにおいて、最終的、究極的な、御心とされたことを激しくお語りになったのです。

 

涙を流しながら、墓から出て来なさい。起きなさいと、神はラザロを起こしてしまわれるのです。

私たち人間にとって、この地上の生き物にとって、世界そのもの、自然そのもの、原罪とその報いという神話でしか語り得ないような根源的結末を、御父と、御子は、狂おしいほどの愛ゆえに、ズラしてしまうのです。

この時から、永遠に、死は罪の報いでも、呪いでもなくなりました。

私たちの死は罰ではありません。もう誰も罰としての死を死にません。

いいえ、もっと神の語りかける声に沿った表現をすべきでしょう。

ラザロよ、出て来なさいと、キリストの大声において叫ばれる神は、あなたに生きて欲しい。あなたが生きていることが嬉しくてたまらない。あなたが生きていると、私の世界は輝く!!と、大声で叫ばれている神なのです。

 

今、キリストは、私たちが、ひた隠しに隠している大きな石の下にある腐敗している私、生きながらに葬られている私、この世の誰にも受け入れてもらえないような暗い淵の底にある私、この方の愛を知るまでは、本当の意味では自分で見ることもできない私の実存に向かって、本当のあるがままの私を目指して私の名を呼び、大声で叫ばれたのです。

「出て来なさい!!」

絶望の淵を、私たちがかすかにでも見ることができるようになるのは、そこからキリストによって救われてしまっているからなのです。裁きではなく、命の呼び声を聴かせて頂いているからです。

 

もう既に、あなたのために、この教会で、この礼拝で、神の招きと、神の民の賛美と悔い改めの祈りによって、大きな石は取り除けられ、本当の私に向かって、私の名を呼ぶ、涙ながらの主の愛の声、神の究極の声が響き渡っているのです。

出て来なさい。あなたと共に生きたいのだ!!あなたがいると嬉しいんだ!!あなたがいると私の世界は輝くのだ!!

すると、死んでいた私は、起き上がり、あるがままに、そのままに主イエスの御前に出て、この方と共に生きる復活の命を、すぐその場で、今ここで生き始めるのです。

コメント

この記事へのコメントはありません。